80年代後半のリマの精神状態を記憶する試み――小説《El cerco de Lima》

悪名高い対テロ軍組織のメンバーの個人的な来歴に光を当てた小説《Albatros》を読んだ後、私はもっと中立的なポジションから、ペルーの「汚い戦争」について読んでみたいと思った。

タイミング良く、今年2013年にアンカシュ県出身のベテラン作家オスカル・コルチャード・ルシオ(Óscar Colchado Lucio)がまさにそうした小説『リマの包囲』(《El cerco de Lima》:Grupo Editorial Mesa Redonda, 2013)を出版していたので、読んでみた。

■テロリストと警察たちの麻痺した「日常」
この小説は、80年代後半のリマを舞台にした、次の3つの系列の断章群で編み上げられている。(1)首都を制圧しようとする極左テロ組織センデロ・ルミノソの下で活動する若者アルシデスの物語、(2)彼らの作戦を阻止しようとする警察テロ対策局(DIRCOTE)の職員ニトの一人称語り、(3)貧民地区エル・セロ・エル・ピノに住む、終末思想に囚われた奇妙な予言者の説教や回想。

特徴的なことは、テロリスト側とDIRCOTE側の双方に主人公を持ち、後者を一人称で書き、前者は三人称、および手記の採録(したがって一人称)の組み合わせという形式を採用していることだ。

当時のセンデロ・ルミノソの活動を正当化できないことは自明の理であるから、登場人物に応じて叙述形式をこのように対応させることは読者にとって、常識的なものだと言えるだろう。では、DIRCOTE側に感情移入できるように書かれているかというと、そうではない。

「私」はほとんど大儀や正義を語らないし、むしろ、たまたまDIRCOTEに配属されているから、テロリストを追いかけているのであり、それを勤務上の課題以上のこととは捉えていないように思われる。「私」自身が直接、拷問や虐殺に関与することはないが、捕まえた容疑者を拷問することを当然のように語り、さらには、やがてはバリオス・アルトス事件(参照、この事件は警察ではなく軍のコリーナ部隊の引き起こした)に発展するのではと思われる仲間の言動が引用されたりする。一方で、「私」は作戦行動を共にする女性の同僚をいかにくどぎ落とすか、ということに夢中になっていたりする。つまり、この小説が焦点を当てているのは、テロとの戦い、あるいは「汚い戦争」そのものではなく、暴力的な世界を生きる現場の警官たちの「麻痺した」日常であると言えそうだ。そうした様子が窺えるほんの一部を翻訳して紹介しよう。

 翌日、部隊に出勤すると、”ラ・フラカ”ミレヤと”エル・チャト”が私に会いに来て、指揮官が出かけようとしていて、その前にグループでミーティングをしたいと言っているので、私を待っていた、と告げる。
 オフィスに行くと、指揮官は我々に告げた。諸君、私が伝えたいことは、ワイカン[訳注:アテ区の山間部にある新興入植地域]のテロリスト、ニセフォロ・フローレス[訳注:少し前にセンデロの武器輸送に関与した疑いで捕獲されDIRCOTEへ連れて行かれた人物]とかいう奴が白状したということだ。リマ包囲祭りのうちの東部、アテ・ビタルテ区[訳注:現在のアテ区]と中央幹線道路のことだが、に関して指揮している人物は、同志アルベルトとかいう奴だという。この人物に対して、人員配置と調整が必要だ。ワイカンへ行って、クララと接触を始めろ。何か奴の手掛かりをつかんでないか調べるんだ。で、”狐”[訳注:「私」たちが前から監視しているワイカンにいる容疑者]については? 指揮官、と私は尋ねた。ワイカンのテロリストは何か言ってましたか? 誰のことだって? ワヤガから来たテロリストのことです。ああ、彼のことは知らないそうだ。彼の写真を見せて、どんなに刀で脅かしても、誰だか分からないと言った。私に尋問させてくれませんか、指揮官? ”エル・チャト”が激昂して言った。いまは失神しているから、奴から何も引き出せっこない、と我々のボスは答えた。それから、たぶん、後でな、と言って去っていった。
 金曜日だったし、もう我々はテロリスト狩りにうんざりしていた。なので、私は”エル・チャト”とミレヤにこう言った。諸君、イカした店へセビチェでも食べに行こうぜ。ブラボー! 私たちは盛り上がった。なので、清潔な魚でセビチェを作る有名な店へと、リンセ区を目指すため、タクシーを拾いに出かけた。彼らを誘った後、ビールだ、と私は考えた。そうだ、”ラ・フラカ”と一緒に飲むというのが私の計画なのだ。好きだった。彼女に目を付けている連中が先んじる前に彼女と心を開いて語り合いたかった。けれども、そのときクララが部隊に到着して、すべては泡と消えた。彼女は心配あるいは怯えた顔で、ワイカンの細胞組織の一員、ナティアという奴に、自分が警察であることを見抜かれた、と我々に言った。彼女は指揮官に、細胞組織の統率者ガヴィオタを、ナティアに知らされて逃げてしまう前に捕獲する作戦行動の許可を求めに来たのだった。(p.45-6)

さて、センデロ側の主人公、アルシデスは、母と二人で首都にやってきたチンボテ出身の青年で、貧民地区に住み、卸売市場ラ・パラーダで野菜や果物を売って生計を立てている。大学で勉強して母に楽をさせてやりたいというのが彼の願いだった。彼に大学受験のための勉強の機会を与えてくれたのが、サンマルコス大学の学生たちで、彼らが貧民地区で無料で開く民衆学校に通った。ところがそこは、同時に若者たちにゴンサロ思想(ゴンサロとは、センデロ・ルミノソのリーダー、アビマエル・グスマンのあだ名)を植え付け、テロリストに仕立て上げる場でもあった。彼はそこで感化されてセンデロ・ルミノソの活動員となった。

ここで、センデロに取り込まれたばかりの頃のアルシデスのことを書いた下りを抄訳してみよう。

(民衆学校で教えるサンマルコス大学の学生たちは、やってくる若者たちに対して、読めと勧めた本に出てくる)英雄たちのように生きること、貴重なお手本を収集するようにと教え込んだ。そして、”会費”を払う覚悟をしておくように、とも。それは、自分自身の命を捧げる用意のことだ、仲間よ。そして、予防措置としての根絶だ。いかなる血の海にも直面する覚悟ができているようにと教え込んだ。定期的に彼らは評価される。順番に警備を行う。とりわけ夜は、宿泊している家に近づいてくる車がないか、見張る。しばしば、ペンキを塗り[訳注:センデロはゲリラ的にスローガンを壁などに書いて回っていた]に行ったり、ビラを配りに出かけたりする。ある日、彼らは他の細胞組織と合同での集会に参加する。そこで、首都支部長がカーテンの向こうから語りかけるのを聞く:まだ君たちは私を知るわけにはいかないのだ、仲間たちよ。戦闘の轟音のなかで己の首尾一貫性を証明するまでは。弁は熱を帯びる:時は来た。人民が武装蜂起する時だ。その後で、リマの山や空き地での訓練。激しいトレーニング、戦いのシミュレーション、武器の扱い、爆発物のマスター。ずいぶん遅かったのね、息子よ。痩せたわね、あんまり食べてないんでしょ、わかるわよ。なんで大学へ入学しなかったの? もう、入学できるはずよ。希望を捨ててはだめ。彼は母親の言うことを聞く耳を持たない。初めて爆発物を人々の前で扱ったときのことを思い出していたのだ。アテ区[訳注:リマ東部の中央幹線道路沿いの地区]のデモ――区のさまざまな問題について区長に関心を払って貰うように求めるデモ――に入り込むよう指令を受けた。そこで、ダイナマイトの筒を投げなくてはならなかった。
 午前八時、人々は区役所の門の前に集まっていた。近隣の者たちや通りがかる者たちの注意を引くために、彼らは大声で叫び、手を叩いていた。
 アルシデスがダイナマイトの筒を投げるべき時であった。
 極度に緊張しながら、上着からそれを取り出し、マッチも取り出した。決心して、マッチをちぎり、導火線に火をつけると、それはゆっくりと短くなり始めた。だから、怖くなってしまった。投げるべきかどうか迷った。震えが来て、冷や汗が出た。誰かが彼のやっていることに気づいて、叫んだ。「ダイナマイト! ダイナマイト!」
 不意を突かれた人々は四方八方にちりぢりに走り出した。そこで、すぐに爆破装置を投げたが、狙ったように区役所の門にではなく、その数メートル手前に落ちた。爆発は窓という窓のガラスを落とした。
 その後で、自分が通りに一人でいることに気づいた。逃げたかったが、できなかった。足が地面に釘付けになっている感じがした。一歩も踏み出せなかった。
 ほんのひととき、自身と闘った後、ようやく動くことができた。できる限りの力を振り絞って走り始めたのは警察が到着する前だった。(p.40)

街頭で爆弾を投げる使命を果たしたときの怯えこそ描写されているものの、その行為自体についてアルシデスがどう考えていたのかは一切書かれていない。この作品では出来事に関する描写が多く、登場人物の思考についての記述は少ない。センデロ・DIRCOTE双方の世界で生きる彼らの思考に関する記述はほぼ欠落している。だから、一人の貧しいけれどまじめな若者がどのようにして、冷血なテロ行為にコミットする人間に変貌することができたのか、そこに迷いはないのか、といった疑問に対して、この小説は一切ヒントを与えない(革命を起こさなければ、貧困から脱出できないといった主張は出てくるが、テロに身を投じる説明としては不十分すぎる)。ただ、殺伐とした――そこに淡いロマンスが挿入されるとはいえ――彼らの異常な「日常」が描かれるだけなのである。

この小説を通して著者がほのめかしたいことの一つは、テロリストと当局は対極的な存在でありながら、現場で活動する人間の「日常」のレベルにおいては、類似性を帯びていたということだろう。それを顕著に感じる部分は、DIRCOTEの「私」が”ラ・フラカ”を口説き落としていく過程と、並行するように、アルシデスが同志の妹に告白する過程が描かれるところだ。しかしながら、あの時代を「暴力の時代」と呼ぶとき、テロリストの暴力だけでなく、当局側の暴力もそこに含めるのが一般的な言説だ。だから、これは別に目当たらしい視点ではない。現場をリアルに詳細に描いたという点がこの作品の手柄である。

■終末思想を説く予言者
この作品には一切、一般人は登場しない。”国内戦争”の当事者たちの外部として、唯一登場するのが、終末思想に囚われた奇妙な予言者だ。彼については、ただ大文字で「予言者」と書かれるだけで、名前は明かされない。叙述の多くは、彼が行った演説がそのまま引用される形を取っている。したがって、一人称であり、しかも、一般的な小説に見られるような、独り言のように語る一人称ではなく、公衆に向かって語りかける一人称である。内容も空想的で異様なものだから、センデロとDIRCOTEの日常を語る作品のその他の部分とは著しいコントラストをなす。

このコントラストのために、予言者部分と残りの戦闘者部分は反転を繰り返す「図と地」の関係として受け止められる。前者を読んでいるときは後者が「地」のように感じられ、後者を読んでいるときは前者が「地」と思えてくるのだ。

予言者の唱えていることは、現在の読者が読んだら、ばかばかしく思えるようなことだ。予言者を現実逃避する狂人と呼ぶこともできそうだ。しかし、二つの部分を往来しながら読み進めるうちに、果たして、本当に狂っているのはどちらなのか、という疑問が浮上してくる。否、どちらか、ではなく、両方ともが狂気に犯されていたのだ。狂気に狂気を対置させるやり方で、80年代末のペルー社会の精神的荒廃を描こうとしたと解釈できそうだ。

■臨場感とともに再現する刑務所虐殺事件や政治集会
小説は、1989年6月3日に実際に起こった事件を「額縁」として使い、その事件で始まり、エピローグでその時点へ再び戻る。その事件とは、大統領護衛団を輸送中のバスが大統領府に到着する直前にセンデロ・ルミノソによって爆破されたことで、バスは黒こげになり、6人死亡、30人が負傷した。その現場を描いた後で、小説は事件に係わったテロリストや、事前情報を得て見張っていた(にもかかわらず阻止できなかったのだが)DIRCOTEのメンバーが、どのような経緯を経て、その場に居合わせるに至ったかを追っていく形になっている。

権力の足許で起きたこの事件は、おそらく、リマ市民を怯えさせる象徴的な意味をもったであろう。だから、センデロのリマ包囲作戦を巡る攻防に材を採った小説の額縁としては申し分ない。しかし、そこへ至るプロセスを読んでいくと、センデロ側にとっても、DIRCOTE側にとっても、そこにクライマックスはなく、日常の一コマに過ぎない。しかも、エピローグでは、DIRCOTE側の主人公「私」は著者に忘れ去られてしまい、アルシデスが警察に追いつめられて撃たれ、ゴンサロ大統領の幻影を見ながら、死んでいくところで作品は終わっている。一人称で書き起こした小説が、第三者に焦点を当てながら幕を引くためには、「私」が途中で死んでしまうとか、なにか必然性のある理由が提示されてしかるべきではないだろうか。

予言者の最後については、マジックリアリズム的な手法が適用される。抗議すべく大統領府に乗り込んだ予言者は銃で撃たれてしまうのだが、UFOがやってきて、光を当てると彼の傷が癒えるのだ。それを見ていた人々が「奇蹟だ! 奇蹟だ!」と叫んで倒れていた彼を担ぎ出す。彼が日頃、説教を通して語っていたような超越的な力が行使されたというわけで、彼が正しかったことを暗示しているようにも受け取れる。しかし、ここで話が終わってしまうと、これが何を意味しているのか、不明である。まるで、途中で投げ出されてしまったような読後感である。なぜ、著者が2013年になって、このような小説を発表したのか、その意図も見えてこない。結論としては、この小説は成功しているとは言い難い。

そうは言っても、当時の状況や出来事が具体的に描かれているので、読んでよかったとは思う。たとえば、アルシデスは一度、逮捕されて、エル・フロントン刑務所(El Frontón)へ収容される。ところが、刑務所内はあろうことかセンデロ・ルミノソによって統治されているのだ。当局は囚人たちを閉じ込めるだけで、それ以上の管理はできなくなってしまっている。

私はこれを読んで呆れて、関連する本を探してみたが、カルロス・I・デグレゴリほか(太田昌国・三浦清隆訳)『センデロ・ルミノソ ――ペルーの〈輝ける道〉』(現代企画室,1993)には、1988年8月のカント・グランデ(Canto Grande)刑務所の訪問手記が収録されていた。壁にゴンサロ大統領の顔やスローガンを描き、赤旗を振り、皆で武装闘争歌を歌い、塀の中での自治謳歌している様子がレポートされている。まさに、小説と同じであった。

こうした制御不能状態を許していたから、囚人たちが蜂起したとき、当時のガルシア政権は刑務所を軍に攻撃させるよりほかに事態を収束させる手がなかったのだろう。これが、1986年6月に起きた「刑務所虐殺」("la Matanza en los penales del Perú")と呼ばれる事件で、エル・フロントンのほか2カ所の同時蜂起を武力で鎮圧した結果、300人の死者を出した。アルシデスは死体の下に身を隠すことで生き延びる。検察がやってきたときに死体の下から立ち上がるが、社会主義インター世界大会(その月、与党アプラ党をホストにリマで開催された。アプラは元来は社会主義であった)を前に、ガルシア政権は問題化するのを怖れて、生き残った囚人たちを全員釈放する。しかしその後、彼らを抹殺する任務を負った海軍兵と共和主義者が暗躍したと小説家は書く。

ガルシア政権が1987年7月28日に断行した銀行国有化政策に反対して、作家マリオ・バルガス・リョサがサンマルティン広場で集会を開いたときの様子も生々しく描写されている。

 マイクロフォンの一つだけが空いていた。もう一つは白のワイシャツ、黒の三つ揃いに赤いネクタイを締めた男が手にして、演壇の前舞台で盛り上げていた。「自由の歌」の音楽がバックにとても小さな音で流れていた。
 ――まず、私が言います、「フィウー!」っと、爆弾が投下されたみたいに――男は集まった群衆に言う――そうしたら、皆さんは「ウーー!」と唱和してください。それから、一緒に言いましょう。「ペルーーー!」
 彼らは試し始める。最初にある一方の脇に居る人々が、続いて残り全員が。最後は、ただ一つの声となって聞こえる:
 ――ペルーーー!
 不意に、すべてが中断された。シャツを着た太ったザンボ[訳注:黒人とインディオの混血]が慌てて前舞台に上ってきたのだ。ザンボは空いているマイクの前に立ち、ほとんど聞き取れないような割れた声で興奮して発表した。みんな、道を開けてください。天才作家が到着しました。マリオ・バルガス・リョサーーー!
 実際に、右派のリーダー、ある独立系の人々、それにアプラ党の裏切り者たちを引き連れて、小説家がボリーバル・ホテルから、紙吹雪の中、「自由! 自由!」の合唱の中を進み出る。夜の八時、人々は演壇に寄り集まった。ベラウンデ前大統領とキリスト教人民党(Partido Popular Cristiano)党首に脇を固められ、作家は演壇に上った。
 ゴンサロ大統領の大きな顔が映画館の上映室で微笑んでいた。マリア[訳注:アルシデスの恋人。テロリストの兄をフロントンの虐殺で失っている]はどのようにして大きな横断幕を映写スクリーンの上に広げているのかを見て、驚いた。それだけではない。落書き、リーダーへの万歳、党を支持するスローガン。部屋の奥に押し込まれた人々は陶酔して、武装闘争や反政府、反体制スローガンに対して、万歳を唱和していた。
 ――同郷の者たちよ!――強い意志を示しながら、マリオ・バルガス・リョサは手を振る。カヤオとリマの入植地のある幹部、ある独立系の人、そしてあるキリスト教人民党員の挨拶が終わって、すぐのことだ――。政府の人間は、このミーティングはフランスの香水の匂いがするだろう、などと例の気取った調子で言っていた。しかし、ここで香るのは自由と正義、民主主義だ、同胞よ。
 ――でも、ここに警察がくるかも――マリアは大きなうねりを帯びて大きくなるスローガンの唱和に怯えて言った――あたしたちを捕まえに。あるいは皆殺しに。
 ――心配しなくていい――アルシデスは言った――、すべて、しかるべく警備されて、コントロールされてるんだ。
 ――大統領殿!――厳格な表情で拳を握りしめ、バルガス・リョサは続けた――あなたは演説のなかで自分を貧しいと言った。違います。大統領殿。あなたは貧しくなんかありません。あなたはこの国で最も権力のある男です。ある敬意を払って申し上げたい。16人の運転手と20人の執事がいるなら、貧しいわけがありません。あなたにはピザロの家[訳注:大統領官邸のこと]があります。ペルー中の電力、鉄やそれ以外の金属、14の省庁、軍隊、すべての公的機関。それらすべてを持って、あなたはペルーで最も力を持った男なのです。大統領殿!
 ――バカなガルシアは死ね!
 ――ウソツキのデマ野郎は死ね!(p.95-7)

集会に現れたバルガス・リョサの下りの後にいきなりゴンサロの名前が出てきて戸惑われたかも知れないが、サンマルティン広場での集会の進行と並行して、おそらく広場から数ブロック程度しか離れていないと思われる映画館で秘密に開かれたセンデロの集会に参加するアルシデスたちを描写する段落が挿入されているのだ。最後の二行はバルガス・リョサの演説に呼応する民衆たちのヤジである。このように、あたかも歴史小説のように、実在の人物の登場する出来事を時刻にまで言及して具体的に描写している点がひとつの大きな特徴である。その一方で、著者が造形した登場人物たちは、予言者を除いて、自分の思想をほとんど語らないので、著者はこの小説をあるいはリマ市民の記憶のために書いたのではないか、と思わせる。