2004-09-01から1ヶ月間の記事一覧

”三浦語”のための舞台(地点『じゃぐちをひねればみずはでる』)

三浦基の分節やイントネーション、テンポ、発音を操作してセリフに強いディストーションを掛けるやり方(一部で”三浦語”と呼ばれているらしい)に出会ったのは、03年11月にアトリエ春風舎で上演された 『三人姉妹』 (地点第5回公演)を見た時だった。それは…

自分の記録に夢中なる人々

9月22日付け朝日新聞の文化面に掲載された記事「僕の人生、まるごとパック」は大変興味深い。日々、自分が見たもの、聞いたものを全部記録する−−。デジタル技術の発達で、そんなことが可能になった現在、「思い出」を、いつでもだれにでも見られる形で保存…

ステファンとカミーユ(『愛を弾く女』)

[ 愛を弾く女 ] (1992) という映画を見た。エマニュエル・ベアールが出るクロード・ソーテ監督のフランス映画だ。2人の全く異質な男女が出会い、互いの美徳に魅せられながらも、違いすぎてうまくいかない。一言で言えば、この映画はそういう話だろう。主人…

『シンセミア』(3)−−悪意の「読書モデル」

『シンセミア』は最後まで正体を明かさない語り手によって、基本的に三人称で語られている。無論、三人称で書かれた小説の常套手法である、登場人物の意識が入り込む部分(独白的な部分。”一人称化”している部分)は随所にある。これまで2回の記事で議論し…

『シンセミア』(2)−−枠組みと読書体験

前の記事の続き。 『シンセミア』では、単語は辞書から取り出された履歴をもたない記号のように無表情であり、言い回しは語り手自身によって使い込まれたものというよりクリシェのリストから意識的に選ばれたかのようだ。だから、読者は語りから語り手の生き…

『シンセミア』の気持ち悪さ(1)

2週間前に書いた記事で、阿部和重の小説『シンセミア』について書いたけれど、あの小説の気持ち悪い読後感はいまだに続いている。あの記事では、鐘下辰男の芝居[ 現代能楽集II 求塚 ] との対比で、「日本の戦後史の縮図」という取り上げ方をしたのだが、お…