教育問題を扱うコメディと性の問題を扱うダンス――《Escuela vieja: todo lo que quiso olvidar sobre la educacion peruana》と《PerVIÉRTEME》

■リマに舞台芸術シーズン到来
リマの春(9月−11月)は舞台芸術のシーズン。関連イベントが立て続けに開催される。まず、以前このブログで触れた「ペルーにおける舞台芸術の制作・上演援助」(Ayudas a la Producción y Exhibición de Artes Escénicas en Perú)というコンクールの受賞作品が発表され、コンテストの主催者であるスペイン文化センターのホール(客席150人程度)で上演される。演劇部門とダンス部門の2つがあり、それぞれ2作品、最大4作品が選ばれて、毎週1作品ずつ、それぞれ金・土・日の夜に計3回、上演されていく。入場無料で、センターの前に入場を待つ人の長い列ができる。

続いて「独立系ダンスフェスティバル 100%身体」(Festival de Danza Independiente 100% Cuerpo!:FEDA)というコンテンポラリーダンスを中心としたイベントがあり、約1カ月間に渡り、アリアンス・フランセーズ(フランス文化とフランス語のセンター、Alianza Francesa)の劇場(客席は200人程度)を中心に上演されていく。国内だけでなく、南米・北米、フランスなど海外からの招待ダンサーやグループも参加する。今年は国内7作品の他、フランスとコロンビアからそれぞれひとつのグループが参加する。ワークショップやダンスのマスタークラスも並行して開催される。2007年に始まり、今年で7回目を迎えたイベントで、KomilfóTeatroという演劇グループが、アリアンス・フランセーズとスペイン文化センターなどの後援を受けて主催しており、同グループの主宰であるJaime Lemaがフェスティバルの監督を務める。

上記2つは業界人や一部の舞台芸術愛好者向けという性格を有しているが、より一般向けで大規模なのが、昨年から立ち上げられた「リマ演劇祭」(Festival Artes Escénicas de Lima:FAEL)だ。今年は14の国内作品に加えて、南米・北米・ヨーロッパ・オーストラリアから11の来秘公演がある。期間は3週間ほどだが、リマでは(つまりペルーでは)国立劇場に次ぐ大きな劇場であるリマ市立劇場(約1500席)をメイン会場に、ほか4小劇場と3つの広場を会場で同時並行的に多彩な上演がある。

国内作品は必ずしも新作ばかりではなく、ここ数年の話題作が含まれているのは、この演劇祭がまだ歴史を持たないからでもあろう。海外作品では有名どころでは、今年はヤン・ファーブルの《Preparatio Mortis》(2010) という女性ソロ作品が参加する。

さて、今回の記事では、今年のスペイン文化センターのコンテスト受賞作について書く。演劇部門で受賞したのは、Patricia Biffiの《Escuela vieja: todo lo que quiso olvidar sobre la educacion peruana》とItalo Panfichiの《La Visita》の2作品、ダンス部門では、Christian Olivaresの《Cholo-peruano》と Juan Carlo Castilloの《PerVIAÉRTEME》。これらのうち、2つの舞台を見ることができたので、簡単に紹介する。

■硬直化しているペルーの義務教育を笑い飛ばす《Escuela vieja》
《Escuela vieja: todo lo que quiso olvidar sobre la educacion peruana》(古びた学校:ペルーの教育に関して忘れたいことのすべて)は、 中堅女優Biffi(1980年生まれ)が自身の学校時代の思い出をベースに、出演する俳優たちと集団創作したコメディである。ストーリーは特になく、授業中あるいは授業の合間に題材を取った短いシーン(例外は父母会のシーン)を並置する形で構成されている。いかに授業が退屈であるか、教師から一方的に知識を押しつけられ、自由な思考を許さないものであったか。教師たちは生徒のことを考えていないか――この舞台が指摘したい点はこうしたことに尽きる。

パフォーマーは男女2名ずつ。全員、白いワイシャツ(ブラウス)にチャーコルグレーのズボン(スカート)の制服を着ている。持っている教科書は『Escuela Nueva』(新しい学校)の小学校5年用。舞台に横一列に並んだ机の前に座って、指で宙に四角を描く動作を始める。始めからきちんとした四角を描く生徒、歪んだ形がだんだんに整ってくる生徒、描いているうちにどんどんスピードが加速して、指の軌道も脱線していて、ついには立ち上がってしまう生徒。学校が子どもたちを画一的な型にはめ込む場所であるという基本的なメッセージをまずコンパクトに示したのだろう。

「学校百科事典」と副題の付いた『Escuela Nueva』は、私のスペイン語家庭教師に聞いたところでは、公立私立問わず、全国の小学校中学年以降の生徒が使う教科書で、中身は日本の社会科(歴史・地理・公民、愛国教育を含む)・道徳科(宗教教育を含む)に相当するものらしい。劇のタイトルは、この教科書をもじって付けられたのだろう。

上演では、パフォーマーたちが順番に、教科書の中身とおぼしき長大な文章を、素晴らしい早口で延々と暗唱してみせる下りがあり、客席から笑い声と拍手が湧き起こった。「とにかく、なんでも暗記させられることが多くて、退屈だった」と家庭教師も言っていた。

一人の女生徒が机に向かいながらも、うっとりした表情で顎の下に手を置いていると、後ろの壁に設置されている黒板に白い雲の映像が映る。ロマンティックな音楽。慌てて立ち上がって、「先生、違います。雲のことなんか考えていません!」と賢明に否定する。

授業終了のベルが鳴ると、歓声を上げて、遊び出す。男の子たちは「ジャンケンポン」をして、勝った方が負けた方の手首を二本指で叩く(私たちはこれをシッペと呼んでいた)という日本で自分が子ども時代にやっていたことと全く同じ遊びを始めた(日系移民が持ち込んで広まったのか)。次は、全員(つまり男女2名ずつ)で輪になって、一人が空き瓶を床で回して、瓶の回転が止まった先に居た者とキスをするというルール。女の子の一人はカワイイ子という設定で、男子生徒は頬にするキスをずらして、唇を奪ってしまう。次は人気のない女の子(制服の下になにか着込んで、パンパンに太っているように見せている)が当たり、女の子が唇をとがらせて待っているのに、男の子は気が進まず、なかなか近づかない。そこへベルが鳴って、救われて大喜びする彼。

その太った子の役の女優が心理学者になって現れて、観客を父兄に見立てて、いじめ問題(bullyingという英語がペルーではそのまま使われている)について講演を始める。学校でのbullyingはペルーでもマスコミを賑わせているホットな話題である。自身の著書を売るという本音を露わにしながら、「いじめ問題の本質は”太った女の子”である」という滑稽な説を力説する。金儲けにしか関心のない教育界を皮肉ったコントなのだろうが、センスがよいとは言い難い。しかし、何か特定の話題に対する含意でもあるのか、観客は大笑いしていた。

アンケートなのかテストなのか、取り組んでいる質問に、自分の将来の希望を選択肢の中から選ぶ問いがあり、一人の男子生徒が該当する選択肢が見つからなくて回答できないで困っている。先生に質問してもすげない対応。と、その場が突然テレビの収録スタジオに早変わり。強引な番組司会者が現れて、選択を迫る。それでも生徒が拒み続けていると、色分けされた大きな四つの鍵と、「緑」が面積の大半を占めているルーレットが現れて回されて、有無を言わさずに、選択の結果として「緑の鍵」を押しつけられる。

正味50分程度の上演中、幾度となく客席が湧いた。ペルー人の観客にとって、アルアル感(学校って、そういえばそうだった、そうだった)に満ちた舞台だったのだろう。

最後にスクリーンが降りてきて、「2003年に教育法が改正されて10年を経たのに」、「識字率は○○%で目標値に達成していない、学校で虐待を経験した生徒は○人に一人」といったデータとともに改善されない現状を示して、幕となった。

このまとめ方は唐突すぎるし、安易すぎる。問題が改善されない理由についての分析や、問題の核心を突く考察が示されていれば、社会に対する働きかけとなりうるだろうが、観客が経験してよく知っている現状をネタに笑いを取っているだけではメッセージとして弱すぎる。

謙虚にも、演出のBiffiはプログラムに書いている。「このプロジェクトは私たちの教育、すなわち学校の壁の中の11年の生活について、立ち止まって思い出す一時である」と。「思い出す」に留まり、「考える」とは書いていないのである。当日配られたプログラムは手作りの雑誌のようになっていて、そこにはBiffiを始め、数人の彼女の仲間がマンガでそれぞれの学校時代の思い出を綴っているのだが、その仲間たちは教師をしているという。それならもっと、現場から問題点を指摘する告発が盛り込まれていてもよさそうなものである。

■セックスをテーマに観客を揺さぶる《PerVIÉRTEME》
ダンス部門からは、《PerVIÉRTEME》を見ることができた。ただし、スペイン文化センターではなく、アリアンス・フランセーズの劇場で見た。この作品は「独立系ダンスフェスティバル 100%身体」にも参加していて、そちらでも公演が行われていたのだ(こちらの公演は無料ではなく30ソーレス=1200円くらいのチケットを買う必要がある)。

振付家Juan Carlo Castillo自身が3人の若い女性ダンサーとともに行ったパフォーマンスで、テーマはずばり「性」である。タイトルは「私を堕落させてくれ」という意味だが、「er」のみ小文字に表記することで、「per」という接頭辞の後に「Viérterme」という言葉が埋め込まれていることが示唆されている。こちらは「私を(何かに)注いでくれ」というような意味合いになり、よくはわからないが、「堕落させる」(pervertir)という単語を使ったタイトルに、ネガティブではない側面も含意させたい意図があるのかもしれない。

扇情的なアップテンポのロックミュージックとともに、舞台の背後にフラッシュバックのように性的な写真(ポルノチックな)が投影されていくところから上演は始まる。黒いビキニスタイルの女性とややフォーマルにシャツを着込んだ覆面男性のデュオが登場し、女性が男性をサディステックに扱うダンスを始める。舞台中央で、女性が鋭く腕を前に突き出すと、男性の四肢を操る見えない紐が女性の手に握られているかのように、背後で男性が、頭をだらりと垂れたままに、女性の動きに同期して痙攣的に体を動かす。能動的動きと受動的動きのコントラストが鮮烈だ。このデュオを見ただけで、パフォーマーのレベルの高さと洗練度がわかる。

次は下着姿で女性二人が登場し、向かい合って体をぴったりつけて、キスするような仕種をするなど、レスビアンを思わせる。二人が体を引き離すと、二人の間に彼女たちのポニーテールがぴんと張り、互いに結ばれていて1メートルも離れることのできない状態に置かれていることがわかる。二人は物理的に拘束されているのだ。背後に特殊な性的嗜好を意味するらしいキーワードが間欠的に投影されていく。

突如、日本語が聞こえてくることで次のシーンは始まる。「新しいゲームソフトが販売され・・・・」。いち早く購入しようと販売店の前に長蛇の列ができたという日本のニュースだ。能のすり足で整然と再登場する4人のダンサーたち。機械仕掛けの招き猫のようなポーズをする(ペルーで招き猫はポピュラーで、中華料理店などどでよく見かける)。録音された音声(スペイン語)で「日本の新しい技術により、これからはセックスなしで生きることになりました。もはや他人と関係することはありません。皆、一人で生きていくのです・・・」というようなナレーションが流れる。能・機械仕掛けの招き猫・チャンバラ・ロボットのような動きがちりばめられた、日本文化=オタク文化批判のダンスが展開される。

女性ダンサー3人が素肌の透けて見える白いワイシャツを羽織って舞台下手手前に並んで立ち、身をくねらせながらオルガズムに達していくよがり声を発する。しばらくこの演技を続けた後、瞬間的に平常に戻った3人は、客席に座る特定の客の方をあれこれ指さしては、くすくすと笑いながらささやき合う。「ほら見て、あそこの客ったら、めっちゃニヤついてるよ。バカ丸出しね」。実際には聞こえてこないのだが、あたかもそんな感じだ。と、また、唐突に悩ましい叫び声を上げながら、絶頂へ至る演技の続きを始める。今度は客席の方がゲラゲラと笑い出す番だ。

後半になると、観客への干渉はエスカレートする。パフォーマーたちは客席に降りていって、一人の男性の観客を拉致して舞台に連れて行く。頭からすっぽり袋を被せ、こづき回し、ズボンの前のジッパーを降ろす。席に留まっている観客全員が、彼に暴力的な視線を注ぐ共犯者となる。しかし、それ以上は踏み込まず、服を脱がしたりはしない。この男性は一般客ではなく、仕込んであった関係者ではないかと想像されるのだが、微妙な匙加減で、確信することができない(なので、怖い)。次は、Juan Carlo自身がマイクを片手に客席に入っていって、観客一人一人の性的嗜好について質問していく。ヘテロかホモか、バイセクシャルかモノセクシャルか、クィアかスクエアか。道具を使うか。マスターベーションするか。そのとき、写真は見るか。などなど。

この日の客の入りは100人程度であったが、Juan Carloは各通路をくまなく周り、手の届く限りの客、数十人に質問し続けた。かなりしつこくやった。もし日本でやったら、押し黙ってしまう客も多いのではないかと思うが、質問された人はわりとちゃんと受け答えしていて、そのたびに客席から笑い声が起きた。この辺はラテンのお国柄だな、と感じた。

パフォーマーの熟練度、演出のエンターテインメント性、テーマ選択の良さ、などこのダンスの美点は劇作品《Escuela vieja》に共通しているが、同時に、テーマへの迫り方が足りないという欠点も共通している。「性に関しては、何がノーマルか、アブノーマルか明確ではなく、やっかいな問題がいろいろあるが、人間にとっては不可欠・不可避なものである」という、観客誰にとっても既知の事実が並列的に展示されているだけであるように見えたからだ。

11月9日から始まるリマ演劇祭についても。上演を観る機会があったら、またブログで紹介したい。