若者たちの捉える「暴力の時代」――アルゼンチン・チリ・ペルーでドキュメンタリー演劇の連鎖

アルゼンチン、チリ、ペルー。この3つの南米国の演劇シーンで、あるドキュメンタリー演劇の連鎖反応が起きている。
3国は――この3国だけではないが――国民の人権が著しく侵害された独裁的な政権の時代を、十数年から二十数年ほど前に経験している点で共通している。アルゼンチンはビデラ将軍の軍事政権時代(1976-1983)、チリはピノチェト軍事政権時代(1973-1989)、そしてペルーでは民主的な選挙によって成立したものの、強権を発動し軍部に超法規的行動を許したフジモリ大統領(1990-2000)が、「独裁者」と見なされている。それぞれの国のこうした暗い時代の記憶に対して、若い世代がドキュメンタリー演劇の手法でアプローチすることが連鎖的に試みられたのだ。

ことの始まりは2009年で、この年、アルゼンチンのマルチアーティスト、ロラ・アリアス(Lola Arias)が《その後の私の人生》(Mi vida después)(サンプル動画)という演劇作品を発表した。70年代から80年代初頭にかけて生まれた6人のパフォーマーたちが舞台の上で、自分たちの両親の写真やハガキなどの記録を素材にして、自分たちの生まれた頃がアルゼンチン人にとってどんな年であったかを、舞台の上で演技もしつつ、証言するという趣向になっている。アリアスの生年1976年が、まさにビデラ将軍ら軍部がクーデターを起こした年であり、彼女の同世代のパフォーマーたちの証言は、おのずと権力の暴力がテーマとなる。パフォーマーたちには、政府が掃討しようとした共産ゲリラ人民革命軍(ERP)活動家の娘、当時の諜報部員の娘、神学生だった父を持つ息子、ジャーリストの息子などがいて、それぞれの立場で自分の幼年時代に思いを馳せた。

この作品は2011年に、チリの「サンチアゴ・ア・ミル国際演劇祭」で上演され、同時にサンチアゴでアリアスによるワークショップが行われた。そのワークショップの成果が、《その後の私の人生》のチリ版である舞台作品《私の生まれた年》(El año en que nací)(サンプル動画)となって、翌年1月の同演劇祭で上演された。チリ版では、人民統一行動運動(MAPU)活動家の娘、アジェンダ大統領(1970-1973)(ピノチェトのクーデター軍に襲撃される中で自殺)のボディーガードの息子、暗殺された左翼革命運動(MIR)活動家の娘などが舞台に立った。

この舞台を見ていた26歳のペルー人の青年、セバスチャン・ルビオ(Sebastián Rubio、ペルーの有名な演劇グループ「文化集団ユヤチカニ」の創設メンバー、ミゲル・ルビオとテレサ・ラジの息子)はペルー版を作ろうと考え、クラウディア・タンゴア(Claudia Tangoa)(27歳)にアイデアを話した上で、一緒に同世代の中からパフォーマーになりうる人を探し始める。彼らが選んだメンバーは、テロリスト掃討に関与した軍人の息子レトル、軍の特殊部隊コリーナ部隊に暗殺された犠牲者(ラ・カントゥタ事件:テロリストと誤認された学生や教授、計10人が拷問の末、殺害された)の従姉妹カロリーナ、モンテシノス(フジモリ政権時代、国家情報局顧問として工作活動を指揮した人物)の贈賄現場を撮影したビデオの流出に一役買い、彼を窮地に追い込んだ彼の個人秘書の息子マノロ、その流出ビデオに写っていたために収賄が発覚して逮捕された当時の国会議員の息子セバスチャン、そしてテレビディレクターの娘アマンダの5人だ。

彼らの行動は極めて早かった。1ヵ月半の集団制作ののち、毎年、在ペルー・スペイン大使館が主催する「ペルーにおける舞台芸術の制作・上演援助」(Ayudas a la Producción y Exhibición de Artes Escénicas en Perú)というコンクールに応募(受賞作に対して4000ドルが与えられる)。同年9月には、コンクール受賞作品として《プロジェクト1980-2000 相続される時間》(Proyecto 1980 2000, el tiempo que herede)(TV番組での紹介)がリマのスペイン大使館文化センターで初演された(3公演)。そして翌月には、リマ演劇祭(FAEL)に参加して2公演を市立劇場の中庭で上演。これらの上演が話題を呼び、翌2013年6月にカトリカ大学文化センターで4回再演され、さらに、リマ市立美術館パフォーマンス祭(Festival de Artes Performativas del MALI)に招聘されて、9月に8公演を上演した。

《プロジェクト1980-2000 相続される時間》。舞台奥に掲示された年表が唯一の舞台美術

なぜ、高い関心を惹いたのか。キーワードは「和解」だろう。パフォーマーたちの顔ぶれを見れば明らかなように、レトルとカロリーナ、マノロとセバスチャンは親世代で見れば、互いに深刻な対立関係にある。犠牲になった側は相手側を憎悪していても不思議はない。そんな家族間の関係にある若者たちが、仲良く一つの舞台に立ち、一緒に演技をし、歌ったり踊ったりもするのだ。歌や踊りは素人そのものだが、そんなことはここでは全く問題ではない。

メンバーを決めるに当たっては、「私たちと同世代であること、テーマにある程度の距離を持って関係していることが、必要不可欠だった」と演出したルビオはインタビューに応えている。彼らは子ども時代の自分の親(あるいは従姉妹)の記憶を語り、自分たちの親に対する感情を舞台上で吐露するが、同時に自分たちは当事者ではないという意識もしっかりと持っている。だから、出来事を芝居の素材として扱う客観性も備えていて、ユーモラスな仕種が滑らずに生きてくる。そのことが、あの時代を生きた多くのリマ市民にずしりと響く重いテーマであるにもかかわらず、客席をも明るい空気に包むのだ。

私は6月のカトリカ大学での公演を見に行ったのだが、チケットは完売で200席ほどの客席は満員。まるで友達に面白い話を語るようにカジュアルに当時の出来事を語るレトル。彼は芸人になりたいようだ。退屈しのぎのようにギターをつま弾くセバスチャン。どこにでもいる普通の若者たちだ。誰も自分の親の人生に縛られていたりはしない。上演中、客席から幾度も好意的な笑い声が響いていた。唯一、パフォーマーたちが皆で小さな紙箱をよってたかってビリビリに破くシーンが暴力を象徴しているのだろうが、象徴されるものが、テロリズムや独裁者の暴力だとしたら、なんと可愛らしい矮小化だろうか。この上演がリマの人々に提供するのは「解毒作用」であると言えそうだ。

気になる点もある。タイトルに「1980-2000」と掲げられているが、これはペルーがテロと軍部の暴力に苦しんだ時代である。1980年は極左組織センデロ・ルミノソが武力闘争を開始した年であり、2000年は「独裁者」フジモリが日本へ亡命した年である。昨年、「ペルー真実和解委員会」(CVR)のメンバーだった人の講演を聞いたときのことを思い出さずにはいられない。その講演では、センデロの首謀者グスマンとフジモリが人権侵害の2大巨悪として扱われていて、フジモリがテロリストの親玉と同列に扱われていることに少なからずショックを受けたものだった。ルビオのドキュメンタリー演劇でも、似たような解釈に傾いている印象がある。1980年を起点として掲げながらも、俳優の人選がおのずとフジモリ政権の汚職や人権侵害の問題に話題を集中させるようにできているからだ。実際には、テロ掃討を名目とした虐殺はすでに第一次ガルシア政権時代(1985-1990)から発生していたのだから、このような焦点の当て方はアンフェアとも言える。けれど、ガルシアは第二次政権(2006-2011)を終えたばかりの大物政治家、フジモリは事実上終身刑ともいえる状態で服役中の犯罪者という現実がある。作品に参画しうる潜在的な候補者たちの中から、実際に誰が舞台で語る自由を感じているか、という点で、これはそのような現実を反映しているのかも知れない(かんぐり過ぎかも知れないが)。

ルビオ自身はナイーブにも次のように語っている。「断片的に語るにはあまりにも複雑な時代で、あらゆる問題系を扱うことは時間の制約上、不可能なことに気づいた。でも、私たちは歴史家じゃないからね。大事なことは、素晴らしいグループを作ること、そしてそこから生み出されるもので幸福になることだったんだ」。

《プロジェクト1980-2000 相続される時間》は、ペルー演劇の重要なテーマにアプローチする、新しいひとつのやり方を提示して見せた。これを刺激に、この試みを補完するような演劇作品が次々と生まれて欲しいものである。