天児牛大レクチャー&デモンストレーション『身体について』参加メモ(May.23 '01)

2001年5月22日(火)19:00〜20:00
於:世田谷パブリックシアター
話:天児牛大
実演:竹内晶、栩秋大洋

以下は、その場で採ったメモを基に作った要旨です。記憶違い、誤解も含まれているかもしれませんので、ご注意ください。間違いはご指摘いただければ対応したいと思います。

●テンションとリラックス

天児牛大、竹内晶、栩秋大洋の3人が、白いトレーナー姿で登場。マイクを持つ天児が2人を紹介。2人は上手の椅子に座る。下手に立って語る天児)

いま着ているのは山海塾の稽古着です。稽古着は白が基本です。本番の時は白塗りになるわけですが、この白はいわばその代わりです。これで照明のゲージを決めたりします。
1975年に山海塾を作って、80年からヨーロッパに出るようになったのですが、そうすると、毎日違った文化をシャワーのように浴びることになります。違うから「文化」だとも言えるでしょう。「違い」は大事です。一方、文化を越えて「共通するものごと」も見えてきます。この二つが意識されて、秤の両天秤のように常に揺れ動いているのを感じました。
そういう中で、未整理の状態の身体、踊る前の状態の身体が気になってきました。舞踊という言葉は、明治時代に「舞う」と「踊る」の二つをくっつけて作られた言葉です。一方、「ダンス」とはどういう意味でしょうか。語源はサンスクリットの「タン」に発するとも言われていますが、"tension"と同じです。つまり、「ひっぱる」とか「ひきずる」と言った意味があります。ダンスは身体が緊張した状態ということになるでしょう。
しかし、緊張しているだけでは動けません。緊張と弛緩、テンションとリラックスが手の裏表のように、二つながらに働いていくことが必要です。歩行一つを見てもそのことが判ります。

●立つということ

(竹内と栩秋が舞台の中央に正面を向いて立つ)
立っている状態は、意志で立っているのです。垂線は地球の中心に向かっています。
足の裏に均一に重さが掛かっている状態が一番楽な状態です。
(2人は少し右に傾き、また元に戻る)
それでは、力を抜いてください。
(膝を折り、崩れて倒れる2人)
重力に引かれたわけです。「他動」です。この状態は、私たちが毎日一度は必ず、寝るという行為でやっている姿勢。一番リラックスした状態です。広い面積で床に接しています。面に身体を任せています。一方、ふだん立って動いているときは、「自動」しているということになります。
身体は母親の胎内から始まるわけですが、このときはいわば、浮いた状態です。床には触れていない。個体発生は系統発生をなぞっていると言いますが、妊婦がツワリをもよおすときは、胎児が抵抗しているときなのだそうです。系統発生で言うと、海から陸に上がるところに相当するらしい。
こうして皆さんの方を向いて立っている私の背後には、私の母がおり、さらにその背後には祖先が、そして、30数億年の生命の歴史がある。ものを作っていく上で、この2つのパースペクティブによって、とても勇気づけられるのを感じます。
生まれたばかりの赤ちゃんは、寝たままです。1年くらい掛けて、立ち上がるようになるわけです。

野口三千三の身体観

野口体操で知られる野口三千三は、身体をひとつのサック(袋)のようなものだと言いました。袋の中に、骨や内臓が浮いている。身体がリラックスしているときは、波をデリケートに伝えていく性質を持っています。
(栩秋が仰向けに横たわり、竹内が彼の足を持って揺する。すると、その揺すりが上半身へと伝搬していく。また、横たわる栩秋の片手を持って、肘が床から離れるくらい腕を持ち上げて、手を揺すると、その揺れが腕に伝搬していく)
では、手を落として。肘から先を途中で止めて。
(竹内は持っていた手を離す。栩秋の肘が床にどすんと落ちるが、肘から先の腕は床に落ちずに宙に止まる)
肘から先が緊張した状態です。それ以外の部分は弛緩している。このように部分的に緊張させて、テンションとリラックスを共存させることができます。では、緩めて。
(栩秋の手が床に落ちる)
(竹内と栩秋の2人が、四つんばいになる。胴体の部分は弛緩しており、背中が弓なりになっている)
足と腕の4本だけで身体を支えている状態です。トルソはリラックスしているので、波を伝えていくことが出来ます。
(天児は、肩や腰を押して、2人を揺らす)
では、床との接触面積を減らしていきましょう。仰向けに寝た状態からはじめて、ミニマルな筋力で起きあがってみてください。
(床の上に仰向けになる2人。ゆっくりと横向きになりながら、片腕を横に出し、両膝を曲げていく。膝を抱えるようにして、頭と腕を使って、折り曲げた下半身の上に上半身を載せていく。正座して前屈したような恰好になったら、下から徐々に背骨を伸ばしていく)
こうして、どこにテンションが必要か、どこがリラックスしているか、自分で確かめながらやってみるのです。では、逆転して。
(座った状態から、さっきと逆の順番で、仰向けに戻る2人)
もう一回。
(さっきと同じ順番で動いていく2人。膝を抱えた状態で静止する)
ここで、上から見て、楕円体の中に入っている状態になります。
(さらに続けて、正座して前屈したような恰好になる)
今度は、横から見て楕円体の中に入っている状態になりました。
(2人は続けて、背骨を伸ばしていき、正座の姿勢になる)
これで上半身だけが垂直に立つことによって、重力を逃がしている状態になりました。今度は立つところまで。
(2人はもう一度仰向けからはじめて、今度は、膝を折った下半身の上に上半身を載せた段階で、徐々に膝を伸ばしていき、立ち上がっていく)
いま説明したようなことに興味のある方は、野口三千三さんの本を読まれると良いと思います。先般亡くなられましたが、私自身も野口先生には大変お世話になり、いろいろと勉強させていただきました。
生卵も、垂線を探せば、立てることができます。なにもコロンブスの卵とかそういう話ではなくて、私はよくこういうレクチャーで実際に卵を用意して、皆さんに立てて貰うのですが、10分もやれば、半分くらいの方は立ててしまいます。今日はこちらの床のコンディションが悪くて、実演できなくて残念なのですが、本当に簡単に立つのです。卵が立った状態。それは危うい状態ですが、人が立っている状態も実はそれに似ているのだと思います。

●歩行のデッサン

今回は仕方がないので、仮想ですが、この舞台に卵が10個立てられているとしましょう。何もない空間に卵が10個立っていたら、それによって空間が分割されます。同時に空間は10個の卵によって共有されてもいます。分割していながら、同時に共有する場が成立するわけです。
ふつう、こういうレクチャーでは、皆さんに、どこでも好きな場所に卵を立てて貰い、そのまま席に戻って下さいとお願いします。そうすると、帰るときは、来るときとは皆さんの歩き方が変わります。卵を倒さないように、振動を与えないように、意識の変換が起こるわけです。静かで丁寧な歩行になります。
(舞台の奥、中央に立つ天児)
立っている人に対して垂線を考えることが出来るように、立っている卵に対して、それぞれ垂線を想定できます。卵たちの後ろに立って眺めたとき、垂線が目の前に建ち並んでいて、林の向かっているような感じになります。(ゆっくりと前へ歩み出ながら)それから林の中に入っていき、抜けていきます。今度は、背面に林を意識します。
こんな風に歩行を学ぶことが出来ます。卵を倒さないようにするには、膝を緩めておくことが大事です。
空間全体を引き受ける方法は2つあります。一つは、一点を見つめる。フォーカスした状態。もう一つは、アウト・オブ・フォーカス。特に何も見ていない。どこにも焦点はあっていないけれど、全体の気配を察知している状態。仏像は半眼になっていますが、あれは視野を狭めているわけですが、気配を感じているのです。稽古で使う方法は、こちらの方です。
(竹内、栩秋が歩いてみせる。交互に、片方の足に完全に体重を預けた状態になるので、歩きながら身体が左右に揺れる)
今度は右手を前に出してみてください。
(並んで立ち、右手を前に伸ばす2人)
掌から仮想の垂線を床に垂らします。自分のミニチュアを吊っているのだと考えてみてください。自分の身体にも垂線が通っています。自分の背後に巨人の私がいて、私自身はその巨人に吊られているのだと考えてみてください。このように考えて歩いてみます。自分のミニチュアを運びつつ、自分は巨人に運ばれる。運び、運ばれるという両方の意識に責められた状態になります。
(実演する2人)
糸が切れます。
(崩れるように倒れる2人)

●意識と肉体の緊張関係

今度は回転です。
(竹内が中央に立つ。その両側に、竹内を挟むようにして、数メートル離れて、天児と栩秋が立つ)
(竹内の)こめかみから線を引っ張ります。(竹内の両側のこめかみからまっすぐ水平に線が伸びていて、天児と栩秋が、その線を両側でピンとひっぱるかのような手のジェスチャーをする。)竹内が円の中心、私と栩秋が円周上の人間です。
(天児と栩秋は、竹内を中心として、ゆっくりと回り始める。竹内は、こめかみを貫通する仮想の糸の回転に合わせて、その場で回り始める。3人の回転のフェーズをぴったりと合わせることが目指されている)
これは遊びのようなものですが、仮にこの線をどんどん伸ばしていったとします。すると、中心の自分が非常にゆっくりと回転しても、線の先の意識の点は、もの凄く高速で動くことになります。もしも、無限遠まで伸ばしていったら、限りなくゆっくり身体を回しても意識の点は光速になる。
ゆっくり歩く、ゆっくり回る。でも、ただゆっくり動いているわけじゃない。意識はもの凄く高速で動いている。そういう意識と肉体の緊張関係があるわけです。これは意識と身体の遊び、実験です。

●言葉や合図によらない会話

(上手奥に立つ竹内と栩秋。天児が手を叩くと走り出す。再び手を叩くと、2人は静止する。これを2回くらい繰り返し、次は、天児が静止の合図を送らないが、2人はほぼ同時に静止する。しかし、同時ではない。一方が先に止まろうとして、それにもう一人が合わせているのが判る)
これは何をやっているかというと、互いに合図や言葉を使わずに、同時に止まるということなんです。何も合図を交換したりしなけれど、互いに気配を感じ合って、会話するわけです。今度はゆっくりやってみましょう。
(ゆっくりと、歩行のデッサンでやった要領で、上手奥から下手の手前に向かって並んで歩く2人。竹内が両足を揃えるが、栩秋はもう一歩踏み出そうとする。場内笑い)
一方が拒否したようです。「僕は嫌だ」と言っている会話ですね。
(今度は正面を向いて、舞台奥から手前に向かって歩く。2人の距離は間に人が2人立てるくらい。しかし、今度は栩秋が先に両足を揃えた後、竹内がもう一歩踏み出そうとしてしまう。場内再び笑い)
なかなかうまくいきませんね。
(3回目。今度はいままでより、歩行によって生じる左右への身体の揺れを大きくしている。こうすると、歩み続けようとしているのか、静止しようとしているのか、お互いに察知しやすい。今度はうまく同時に足を揃えられた)

●まとめ

ダンスは、立った状態よりもさらに床との接触面積を減らして、片足になれる状態から始まると言えるでしょう。片足立ちになって、ようやくステップも踏めるし、身体の向きも変えられるからです。しかし、私は先ほどお話しましたように、胎内で浮いた状態、身体の始まる状態から、生まれ出て、立ち上がるようになるまでのすべてのプロセスまで含めて、ダンスというものを考えていきたいと思っています。
手を振って、誰かを扇いであげる。人に風を送ってあげる。そうしたとき、スイッチを切り替えて、自分の手が風を送っているのではなく、自分の手は風に送られているのだと考えてみる。そんな風に、想定を変えてみるとことで、身体の動きは変わってきます。あるいは、身体そのものが変わってくると言えるでしょう。今日は1時間ということですので、これで終わりたいと思います。どうも有り難うございました。家に帰ったら、卵を立ててみてください。

●付記

途中の小見出しは私が勝手に付けたもの。「野口三千三の身体観」としたところで、実演した身体の揺すりは、竹内敏晴のWSで実際に体験した。どちらも野口三千三からの同じ引用なのだ。これを「寝にょろ」と呼んでいるそうだ。十分に緩んでいる身体をうまく揺すると、本当ににょろにょろとした感じで動くから面白い。同じようなことはC.I.co.のWSでもちょっと試みられた。ウォームアップ、というかプレパレーションの方法として、いろいろなところへ伝搬しているのだろう。
テンションとリラックス、重力への意識など、コンタクト・インプロの問題意識と重なるところも結構ある。それゆえ、胴を緩めて、両手足だけで身体を支えるといった、先般受講したダニエル・レプコフのWSで採り上げられたワークに類似した姿勢が出てくるのも不思議はない。また、最後に実演した、2人が同時に静止するワークなども、コンタクト・インプロのワークとしてやったことがあるが、山海塾がそのようなコミュニケーションをテーマとしているなら、コンタクト・インプロと共通する方法を持つのも、当然かも知れない。
では、山海塾のダンス観とコンタクト・インプロのそれは似ているのかというと、とてもそんな風には見えない。二つのダンスは、まったく違って見える。
でも、意外に通じ合うところもあることも確かだと思う。コンタクト・インプロがうまくいっているとき、自分が能動的に動いているのか、受動的に相手の動きに応じているのかはっきりしない瞬間がある。今日のデモで天児が垣間見せようとしたことの中には、身体のそんな状態が含まれているのではないか。
舞踏だろうと、コンタクト・インプロだろうと、東洋的発想だろうと、西洋的発想だろうと、どういうルートを経由するにしても、(理念的にではなく)実践的に、身体を動かしながら身体を考えていったら、辿り着くところは案外近いのかも知れない。結局、みんな同じ構造の身体を、同じ地球の上で持って生きているのだから。
ただ、その上に、ダンスを作っていく段になると、それはまったく違ったものになってしまう。何故だろうか。たぶんそれは、身体に対する理解の違いではなく、むしろ、美学の違いから来る事柄なのではないか。ダンスのあり方はその身体観に直結していることは間違いない。しかし、その身体観をベースに、なにかを築いていくプロセスにおける美的価値観の問題も、案外、自分が考えていたよりもずっと本質的なところで、ダンスのあり方を決定しているのかも知れない。
(May.23 '01)