「安藤洋子×W.フォーサイス」('04年3月20日)

2004年2月26日(木) 19:00 世田谷パブリックシアター
「安藤洋子×W.フォーサイス
「Wear」(2004)振付:William Forsythe
出演:安藤洋子、Amencio Gonzalez、Ander Zabala
「(N.N.N.N.)」(2002)振付:Forsythe
出演:Cyril Baldy、Gonzalez、Georg Reischl、Zabala(この4人を前提に作られている)
「Quintett」(1993)振付:Forsythe + D.Caspersen、S.Galloway、J.Godani、T.McManus、J.S.Martin
出演:安藤、Demond Hart、Jone San Martin、Fabrice Mazliah、Zabala
「フランクフルト・バレエ以後」に向かうフォーサイス
「日々のメモ」の書き込みなどでお判りのように、私は今回の公演に非常に期待してきた人間ではある。しかしながら、フォーサイスがやることならなんでも有り難がるような贔屓ではないし、「一見、テキトーっぽいが、彼がやることだから深遠な意味があるはずだ」などと懸命に好意的に解釈する気もない。

新作「Wear」はどう見てもやっつけ仕事でしかないし、「Quintett」は、10年前の傑作をまた見ることが出来て嬉しかったが、それでもフランクフルト・バレエに期待される水準を示すような上演からはほど遠かった。キャストに難がある。でも、そもそも今回の公演を、1999年の新国立劇場での来日公演や、それ以前のフランクフルト・バレエの来日公演と同列に考えてはいけない。公演名は「安藤洋子×W.フォーサイス」だ。「安藤洋子とフランクフルトのお友達」みたいなものなのだ。そう考えれば、「Quintett」でダナ・カスパーセンのパートを安藤が踊るという事態も、まあ、仕方がないのかと思えてくる。

「Wear」の上演分析をするよりも、今回のような公演が成立したこと自体を考えた方がフォーサイスの今を捉える手がかりとなるように思った。フォーサイスが「フランクフルト・バレエ以後」を迎えつつあること、そして、新しい活動スタイルを模索している段階にあり、未だに彼の才能を活かし切るだけの「フランクフルト・バレエ以後」の道を見いだせていないことが、そこから読みとれるのではないか。

「Quintett」と「(N.N.N.N.)」を比較すれば(その先に「Wear」をとりあえず置いてもいい)、彼が脱バレエを図ろうとしている様子がうかがえる。「Quintett」は5人のダンサーがバレエのパを完璧に消化していて、リフトも自在にできることを前提とした作品である。この作品が美しさは、ムーブメントやそれを助けるコーディネーションの部分部分に備わる均整美によって保証されているのだ。だから安藤の登用はどう考えても妥協の産物としか思えない。何故なら彼女の異質な身体の導入は、いわば絵の具の澄んだ色だけを使って描かれた抽象画のうちの一本の線をマジックペンかなにかで置き換えることで生じるような、作品全体に対する強い違和感を導入するのだが、彼女の受け持つパートは、もともとそうした企みに相応しいものとして作品の中に配置されていないからだ。

もし、そうした効果を有効に生んでいるダンサーがいるとしたら、それは、これがバレエダンサーかと驚くほどに重量感が際立っていたDemond Hartではないか。彼の存在は「Quintett」をなにか違う作品にしている−−と言って大袈裟なら、コミカルな方向へシフトさせているように感じた。初めて聴いたときは衝撃的だったギャビン・ブライヤーズの「Jesus' Blood Never...」が、流行によって耳タコ状態を経て今や萎びた曲としてしか響かないように、そして、終末感を演出すること自体が滑稽な身振りにしかなりえない状況を迎えている2004年の現在において、もはやこの作品を93年時点のようなトーンで上演することは不可能であろう。となれば、微笑を誘うような作品として上演するのは、むしろ正しいセンスと言えるかもしれない。ただ、繰り返しになるが、安藤の起用は、そうした演出からすらも脱線させてしまっていると思う。

「(N.N.N.N.)」には、フォーサイスの脱バレエの意志が現れていると思う。「Wear」と違ってこれはインプロの作品ではないが、CD-ROMが発売されて私たちも知ることができるようになった、"Improvisation Technologies"で解説された身体と空間に対する考え方の延長上で作られた作品のように見えた。あの考え方はバレエからスタートしているのだとしても、バレエとは関係ない形で使うことが可能な技法である。これは、身体をあくまでフィジカル(運動機能的)な視点から捉える立場に立ち、尚かつムーブメントを見せることに主眼をおく場合に、舞台装置や映像などの助けを一切借りずに(音楽にTom Willemsのクレジットがあったのに無音であった)何が出来るか、という設問に対する、一つの洗練された回答であろう。しかし、こうした限定的なジャンルの保守性のなかに、果たしてまだまだ鉱脈が潜在しているのか、はなはだ怪しい気がした。素の舞台に立つ4人の男たちはどんなに忙しく動き回っても自分たちの存在で舞台の空間を支配することができず、どこか頼りなげな印象が絶えず伴って見える。バレエという土壌から離脱したときに、フォーサイスは依然として輝きを持続させることが出来るのか、不安にさせる作品だ。希望としては、これは一つのテクニカルな予備実験でしかなく、これからダンサーに対しても舞台に対しても様々な要素が加わって、ダンスの新局面が誕生していくということであってほしい。

余談だが、マギー・マラン「拍手は食べられない」を連想させるシーンがあった。下手の手前で2人のダンサーが絡んでいると、下手からダンサー2人が歩調を揃えて並んで登場し、既に舞台にいるダンサーたちと鉢合わせて、そのまま退場していくというシーンだ。「(N.N.N.N.)」の初演が「拍手は食べられない」の初演の2カ月後だから、これはフォーサイスの茶目っ気なのかもしれない。

「Wear」は「(N.N.N.N.)」とは別の意味でフォーサイスの今後に不安を抱かせる作品だった。フォーサイスがアフタートークで行った説明によると、南極点到達をアムンゼンに先を越され、引き返す途中で遭難してしまったイギリスの探検家ロバート・スコットを題材にした作品だという。彼はこのシリーズを20年作り続けていて、8作目に当たる今回の作品が終章なのだそうだ。「freeze」が貫くテーマで、客席に設置されたコンソールに陣取ったフォーサイスが、リアルタイムで舞台の上のダンサーたちに無線で指示を出す。ダンサーたちはそのたびに今やっている行為を中断させられる。見ていて度重なるダンサーたちの唐突な静止に、まるで「だるまさんが転んだ」をやっているみたいだと思ったが、後から聞いたこの説明で仕掛けが判った。インプロ集団を外部から操作するプロンプター?・・こんな仕掛けって、今さらどうなんだろう? フォーサイスはもはや過去の人になりつつあるのではないか、という疑惑が首をもたげる。

この作品で安藤は、巨大なアフロヘアーのウィッグを被り、ぶかぶかのアノラックに身を包んで登場する。まるで3等身の着ぐるみ人形のようだった。その姿は、細くて硬い棒のごとき四肢が暴走しているような、彼女の独特な身体の動きにとてもよく似合っていた(アフタートーク野田秀樹は「痙攣する身体」と評していた)。フランクフルト・バレエや日本に来日するようなヨーロッパのバレエ団では決してお目にかかれない身体だ。そんな彼女を見ていると、この作品には彼女が必要であることが感じられなくもない。それは、フォーサイスが彼女の生かし方を知っていたということだろう。けれども、私にはよく判らないのは、おそらく世界中からダンサーをハンティングできるポジションにいるフォーサイスがバレエダンサーとは異質な身体を求めたときに、何故彼女でなければいけなかったのか、ということだ。「(N.N.N.N.)」が一つのテクニカルな予備実験なのかもしれないように、安藤の起用も、「フランクフルト・バレエ以後」を模索する、一つの予備実験であるのかもしれない。
(2004年3月20日記)