写真と身体(「牛腸茂雄展−自己と他者−」)

三鷹市美術ギャラリーで「牛腸茂雄展−自己と他者−」を見てきた。彼が出版した3つの写真集の全ての作品や桑沢デザイン研究所時代の課題作品などを一挙に見ていくことが出来る素晴らしい展覧会だ。過去の展覧会で主要な作品は見ている人も、是非この機会に見に行くことをお勧めする。今回、特に写真集《日々》 (1971)とSelf and Others (1977)収録の全作品を順に見ていくことで、自分にとってはかなり面白い発見というか、体験ができたので、それを「左へ傾斜した水平軸」を切り口に3点メモってみる。

(1)撮影者と鑑賞者の身体
第一会場で、《日々》全24点に続いて《Self and Others》シリーズを順番に見ていくうちに、だんだん平衡感覚が微妙に狂ってくるようなむずがゆさが身体に生じてきた。原因を確かめるために、途中ではあったが会場内を引き返して、これまで見てきた作品を駆け足で振り返ってみると、水平が微妙に左に傾斜している写真が多いことに気づく。そして、《Self...》シリーズのラス前のセルフポートレイトまで辿り着いて、「ああ、そうか」と思った。

ロールシャッハテストの作品をバックにした牛腸の身体は股下くらいまでしか写っていないが、右肩がはっきりと下がり、右側にかなり重心が寄っているらしい様子が窺えるのだ。おそらくこれが彼の”直立”なのだ。彼が幼くして患った胸椎カリエスのなせる技なのだろうか。彼の視界はいつも微妙に左に傾いていたにちがいない。無論、水準器を厳格に使えば写真に水平をもたらすことは彼にも可能だったわけだが、左へ微妙に傾いた地平は彼のアフォーダンスの基礎になっていたため、僅かに傾けた方が彼にとって自然だったのではないか。鑑賞しているうちに生じた感覚の変調は、自分の身体が牛腸のそれと同調しようとしたために生じた齟齬であったとも言えそうだ。

(2)被写体と鑑賞者の身体−−分離
《日々》シリーズには、はっきりと水平を傾けている作品が2点ある。偶然か、意識的か、どちらもやはり左へ傾いている。ひとつは、水飲み場の縁から飛び降りる少年を捉えた写真。現実には、飛び降りる少年は縁を蹴った勢いで前傾姿勢で落下しているのだが、カメラの傾きがそれをキャンセルして、彼はまるで垂直に飛び上がっているかのように写っている。

もうひとつは、大きなユニオンジャックを展示したショウウィンドウの前を右の方へ横切っていく女性の写真。強風に逆らって歩いているため、彼女は顔を手で覆いつつ前傾姿勢をとっている。ここでもカメラがその前傾姿勢をキャンセルしている。代わりに彼ら被写体の周りの光景が傾斜している。

この2枚の写真では、被写体が感受しているはずの力−−少年の上半身をより前のめりにしようと引っ張る重力や女性の前進を阻む風圧といった力−−を消失させて、その一方で、光景よりも被写体に鉛直軸の優先権を与えることで、いわば彼らを世界の中心に据えている。だから、鑑賞者の意識は被写体に寄り添うのではなく、牛腸と同じ視線−−即ち、傍観者として、被写体を中心とする光景の中に何かを見出そうとする視線を共有することになる。

(3)被写体と鑑賞者の身体−−同調
《Self...》には、こうした《日々》で見られた視線とは全く異なる視線が見られる。この作品集では被写体との心理的距離にさまざまなバリエーションが見られるが、やはり左にはっきりと傾いた2点の写真に注目した。一枚は原っぱに立つ少年の写真。左手にボールのような物を握り、背後にはゴム動力で飛ぶ模型飛行機が地面に置かれている。原っぱの限界とその向こうの家々のシルエットが作る地平線は、少年の頭上ギリギリをかすめて、左に下がっていくゆるやかな弧を描いている。少年がわずかに踏み出して重心を載せている右足がちょうど画面で鉛直になるように調節されており、まるで彼の軸足を中心にこの原っぱ全体が回転しているような感覚をもたらす。おそらく少年はほんの少し前まで、この原っぱを走り回っていたのだ。模型飛行機がそのことを暗示している。走り回っていた少年が身体感覚としてこの原っぱをどう記憶しているか−−その身体記憶を鑑賞者もこの写真から感じとることが出来るわけだ。

もう一枚は、芝生のグラウンドを横切っていく少年(黒人?)の写真。バックはナイター用の照明と靄のせいだろうか、ほとんど白くとんでしまっている(おそらくシリーズ最後を飾る、靄の中に子供たちが走り込んで行くあの写真と同じ機会に撮影された写真ではないだろうか)。少年はやはりボールのような物を握って、こちらに笑顔を見せつつ、左の方へと走っている。水平が左へ傾いているせいで、少年の走りが加速していくような感覚が生じている。それは走り始めた少年自身が実際に感じている、加速する身体の心地よい躍動感と重なるものだろう。つまり、この2点の写真は、《日々》の2点とは反対に、被写体の身体に我が身を重ねるよう鑑賞者を誘っているのだ。

写真という一枚の静止画像を通してでも、撮影者/被写体/鑑賞者の間に身体感覚的関係が生じることが実感できた。こういうことは、我が身で実感しないと、なかなか納得感が湧かないものだ。