インテリ男への教訓(『アニー・ホール』)

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10数年ぶりにウディ・アレンアニー・ホール (1977) を見た。遊び心のある小技が次々と登場する:カメラに向かって話しかける。子ども時代や過去の回想シーンに現在のアニー(ダイアン・キートン)たちが現れて、過去の人物と会話する。出会ったばかりのアニーとアルビー・シンガー(ウディ・アレン)のギクシャクした会話のシーンでは、それぞれの内心がスーパーで表示される。通りを歩いている人物を捕まえて、インタビューする。アニメが挿入される。得意になってマクルーハン批判をぶつ男を黙らせるために、本人を連れてきてしまう(当時、マクルーハンはまだ生きていた)。画面を左右に分割してアニーの家族と自分の家族の団らんの様子を比較する。ユダヤ人嫌いのアニーのお婆さんがアルビーを見る目は、アルビーがユダヤ人の正装したカットを挿入して表現するといった具合。

観客に向かって話し掛けるアレンを見て、誰かが「ゴダールだ」と騒いでいたけれど、ゴダールがそれをあえてやった時のような気負いはもはやアレンにはないだろう。 勝手にしやがれ (1959)でゴダールがやったときは、映画文法の破壊とまで言われた。前衛だったのだ。それから10数年後に作られたこの映画では、そもそも冒頭から全編に渡って、「アレンが観客に対して映像で昔の恋愛を説明する」っていうスタンスで作られているのだ。ゴダールが先鞭を付けて知れ渡った手法を援用して、アレンは自分のやりたいことをやっているだけ。それを手法のレベルだけで比較して真似と批判するのは、頓珍漢というよりほかない。

前衛的手法も周知のものになってからは、共有財産である。誰でも自由に使って良い。使うたびにゴダールの名前を引き合いに出すのは野暮というもの。ただし、使う時にはアレンのように遊び心をもって使うのがマナーだろう。それにしても、つなぎのカットなしにいきなり時間や空間を越えて別の部屋でのシーンになるとか、そういう感覚は、ヌーベルバーグ的というより、マンガのコマ割の不連続性に近いものがあるな、と感じた。

ちょっと話が逸れたけれど、この映画のスタンスをよく示していて、しかもグっとくるのは、出だしと終わりの呼応関係。冒頭で、無地の壁をバックに、バストショットで正面から撮られたウディ・アレンが、枕の小話をして、アニーについて言及したところで、映像が切り替わり物語が始まる。ラストでも、これに呼応するような小話がオチとして語られるのだが、今度は、物語の結末、というかその後のアルビーを見せる映像にかぶせるようにしてナレーションとして入る。このとき観客は、最初は自分にスクリーンの向こうから語りかけていたアレン(アルビーなのだろうが、映画作者としてのアレンがプレゼンテーションしていると言う感覚に限りなく近づいている)がいつの間にか自分たちの隣に座っていて、一緒にアルビーの人生を眺めているような錯覚を覚える。−−こんな風に自分の人生を突き放して眺めて、そしてそれを笑って受け容れられたら素敵だ。「ね、そうだろ?」と隣に居るアレンから同意を求められたような気がするのだ。ラストの小話はこんな内容だ(以下、テープを見直すのは面倒くさいので、記憶に基づく大雑把な再現です)。

男「弟が自分を雌鶏だと思い込んでいるんです」

精神科医「では入院させなさい」

男「でも卵は欲しいしなぁ・・・」

男と女の関係もこの話と似ています。およそ非理性的で不合理なことばかり。それでも付き合うのは卵がほしいからでしょう。

前回見た時には、これを「男女の仲は不合理」という一般論として受け取ったけれど、今回見直してみて、一般論を含みつつも、アルビーのアニーに対する態度のことをとりわけ指しているように思えた。インテリ男(似非インテリと言ってもいいが、インテリ男という呼び方自体に揶揄が込められているので、それで充分だろう)アルビーは、自分のインテリ趣味を恋人に押しつけずにはいられないため(それが彼の自分の長所をアピールする方法なのだ)、やたらと彼女を教育しようとする。「この本を読め」「大学の社会人講座へ行け」「精神分析医にかかれ」・・・しかし、これらは全て裏目に出る。女は目覚め自立してしまうからだ。ところが、アルビーは教育はするけれど、その結果生じる女の自立は望んでいないのだ。つまりアルビーはアニーに対して、弟を立ち直らせたいという態度と、雌鶏と見なすという態度の両方を示す小話の男と似たような矛盾を抱えているわけだ。さしずめ、映画の列に並びながら連れにフェリーニ批判やマクルーハン批判をぶっている男なんて、この映画を見たら、マクルーハンを目の前に連れてこられた時以上にギクっとなるんじゃなかろうか。

ところで、私は10数年前にTVで放送された日本語吹き替え版(のビデオ録画)を見たのだが、一箇所台詞でおやっと思ったことがある。二人が別れることになって荷物を分けている時に、アルビーのバッチが何枚も出てくる。「アイゼンハウワー反対運動バッチ」「ケネディ・・・」「ジョンソン・・・」「レーガン・・・」。何故かレーガンである。吹き替え台本を作った訳者の間違いだろうか? レーガンが大統領になったのは1981年だ。