チェルフィッチュ《エンジョイ》−−予防回収的態度のこと

新国立劇場小劇場で公演中のチェルフィッチュ《エンジョイ》を見た。とても面白かったので久々にメモする。(メモだから、以下、まだ見ていない人への配慮はしないのでご承知おきのほどを。)

チェルフィッチュの舞台で以前から気になっていたことだが、「だったら、○○○しろよってことかと思うんですけれど・・・」「いや、○○○ってことは全然オッケーなんですけれど・・・」といった、相手のツッコミを先回りして回収するような言葉が異常なほどに多い(仮にこれを予防回収的態度と呼ぼう)。

何故なのだろうか? 自分はこんな喋り方をしないし、自分の周りにもこれほど過剰に回収しようとする人は見あたらない。よく知らないが、若者たち(20代)の間の会話はわりとこういう感じなんだろうか? 

ここで、チェルフィッチュの舞台−−というより『エンジョイ』に限定していうべきだろうが−−に登場するのは普通の会話ではない、ということは注意しておかなければならない。大まかに分けて、(a)観客に向かって登場人物の心境を説明する台詞と、(b)登場人物間の会話の台詞がある。量的には(a)が多いように思う。(b)かなと思って聞いていると、実は(a)だったと台詞の最後の方になってわかることもある。そして、予防回収的態度が多発するのは(a)全般、および(b)では緊迫した議論になるときだ。『ポスト*労苦の終わり』ではすれちがう夫婦間の会話がそうだった。

『ポスト*労苦の終わり』を見たとき、こんな会話になってしまうのは、「夫婦とはかくあるもの」とか「家族とはこういうもの」といった価値観の共通基盤が失われているからだと思った。だから、自分の言い分を相手に説明しようとすると、原理的なことから説いて行かざるを得ず、かといって、原理的なことまで突きつめて考えたことがないから、理路整然と説明などできない。仕方なく、相手の言葉に依存して、つっこみに反論する形で議論を形成しようする。

そういう状況では自分自身に正当性の基盤がないから、よるべなくなってしまうので、不必要な身振りがやたらに多くなる。チェルフィッチュ流のだらだらした役者の身体に、私はむしろ身の置き所のなさのようなものを見る。

予防回収的態度の暴走版は、『目的地』に登場した、想像上の人物−−子供を作ることを批判する攻撃的な男−−の出現だろう。あれは、特定の誰かのツッコミではなく、『エンジョイ』のミズノ君が感じてしまっているような世の中の声である。予防回収的態度の暴走は自己を身動きできなくさせてしまう。チェルフィッチュの舞台は予防回収的態度の蔓延により閉塞感が強かった。

しかし、今回、そんな予防回収的態度に対して、「本当にそんなこと言われたの? そういう風に勝手に思いこんでいるだけなんじゃないの?」と反論するマエノさんが登場した。これは結構な進展だ。今回の作品が明るい印象で負われるのも、マエノさんのこの発言に集約されるような突破口があったからだ。

それは良いことだ。フリーターに対して卑屈になるな、楽しめというメッセージも良い。でも、シミズ君たちがカップルでいることの幸せに浸っていればいいかというとそうでもない。このままずっとマンガ喫茶カラオケボックスでバイトしていたら、親から独立して子育てをしたり、病気や怪我といった危機を乗り越えていくのは難しい。そんなことは誰でもわかっていることで、だからこの芝居の妙に明るい終わり方は、観客に割り切れないものを残すのだ。

シミズ君が何歳かははっきりしないが、彼が「ミカカ」と呼んで馬鹿にしている30歳トリオとほんの数歳しか違わない。彼が30歳トリオを年齢を理由に馬鹿にする考え方を持っている以上、彼が30歳になったときに、カワカミ君みたいにひとりビデオカメラに向かって遺書めいたモノローグをしてしまう危険性はある。結局、シミズ君だって、”世の中の声”を聞いてしまっていることに関してはミズノ君とたいして変わらない。

シミズ君は新入りのバイトが同世代だと思ったから、仲良くなろうと声を掛けたりしたが、たまたま履歴書を目にして、新入りが32歳とわかり、とたんに仲良くなりたいという意志が失せたというエピソードが紹介される。

なぜ、同じ年齢同士でつるむことしかできないのか。きっと、バックグラウンドが極めて近くないと、コミュニケーションするのが面倒くさいのだろう。相手が読めないと、予防回収的態度を取ることすらできないから、ダルいのだ。そして、ミズノ君やカワカミ君がこれまで自分を客観視しないでいられたのも、似たような境遇の仲間と連んでばかりいるからだ。境遇の異なる他者への回路を遮断しているからこそ、予防回収的態度を発達させることでそれを補おうとしているのかもしれない。

第2幕でだったか、映像でフランスの初回雇用契約(CPE)に対する若者たちのデモが紹介された。CPEが強い抗議行動に発展した背景には、それ以前から失業した移民系若者の怒りがくすぶっていたことがあると言われている。雇用調整する権力が自分たちにまで及んできたから、非移民系若者も移民系若者の抗議行動に合流したということだろう。フランスには差別と連帯とがある。日本のフリーター間の分断は、もっと隠微で深刻な状況と受け止めるべきだろう。

分断は、なぜチェルフィッチュの舞台では役者が時にマイクを手に語るのか、という問題にも関連してきそうだ。(a)の台詞の中でも、彼らがマイクを手に聴衆に語る時、あんなによるべない身体の持ち主である彼らの口調は、なぜか実に自信に満ちたものになる。例えば「ミズノ君問題評論家」とか、そんな肩書きでももった人がパブリックな場で聴衆に向かって解説しているかのような態度だ。実際、彼らは彼らの語る出来事に関してありえないほどに詳しいわけだが、彼らの語っていることは全くパブリックな関心事ではない。そのギャップが観客の笑いを誘う。と同時に、ここでは公/私の区別がなんか奇妙なねじれの中で曖昧になっていると感じる。

「これから○○○っていう話をやります」という冒頭の台詞に象徴されるように、チェルフィッチュの舞台では第4の壁が取り払われていると言われているが、厳密にはそうではない。観客ははっきりと役者にも届くような声で笑ったりするのだが、役者はそうした反応には気づいていないかのように振る舞う。役者は物語の外に立ち、観客に向かって語るが、観客の存在を無視している。あるいは応答しない。このねじれた関係によって、私たち観客は無言の聴衆の役割を担わされている。そのため、時に自分たちが、ミズノ君が聞いてしまう”世の中の声”を語る主体であるかのような気分にさせられてしまうのだ。

この居心地の悪さ、そして、先に述べた最後に残る割り切れなさの感覚・・・『エンジョイ』は実に意地の悪い仕掛けを隠し持つ演劇なのだ。