ランコントル・コレグラフィック・アンテルナショナル・ドゥ・セーヌ・サン・ドニ2004横浜プラットフォーム第2日('04年1月12日)

2004年1月11日(日) 15:00 横浜赤レンガ倉庫1号館
横浜プラットフォーム(旧バニョレ国際振付賞)第2日
岡登志子「ECHO」
伊藤郁女「a person」★
康本雅子「脱心講座〜昆虫編〜」★
★・・・ナショナル協議員賞
このイベントの性質とナショナル協議員賞
1日目については、見たその日の晩に書いてWeb公開までしたのに対して、2日目については、1カ月も経過してからパソコンに向かうことになってしまった。メモを採っていないし、かなり忘れてしまったから、もはや細かいことは書けないのだが、それとともに、開催直後にはあった臨場感や、ある種の高揚感も失われ、「結局なんだったんだろう?」という醒めた気分で回想することになる。

2日目、最初の岡作品は、フォルクヴァング芸術大学舞踊科卒という彼女の出自をはっきりと感じさせる作品で、今回のラインナップの中で、前日の小浜とは別の方向性で異彩を放っていた。小浜が西欧のダンスの歴史など、もはや考慮する必要もなく、せいぜいおちょくりの対象でしかないというスタンスに立っているときに、岡は西欧のダンスの歴史の中に自らを投じ、その歴史を日本人であることを自覚しつつ継承する意志を示している。終演後にナショナル協議委員を代表して三浦雅士氏が述べた講評の中で、「もう一度60年代、70年代まで遡って考えているような・・・」というコメントは、そんな彼女に対する、敬意と懐疑の入り交じった感想のように私には聞こえた。

しかし、岡から小浜まで、このラインナップはなんだろう。私がこのイベントを見始めた98年も、現代舞踊協会系と勅使川原モドキが混在しているようなラインナップだった。このイベントの選出の基本方針が、「日本のダンスシーンのさまざまな位相からサンプルをピックアップしてきて、やってきたフランス人に見取り図を与える」ということだと理解すれば、6年間で、日本のダンスシーンがこれだけ多様化したということなのだろう。日本にいる私たちも、シーン全体の変化を大まかに感じとることができるという意味で、横浜プラットフォームのような場は貴重だと思った。選者の美的判断を停止して、岡から小浜までをラインナップに揃えるという芸当は、他の登竜門的イベントやコンテストではなかなかできないだろうからだ。

このような横浜プラットフォームの特徴が、世界中から特色のある上演作品をピックアップしてきて、一箇所に集めて見本市的なイベントを開催するというSDD国際振付賞の性質に対して、運営上整合性が取れていると思われる一方で、便乗して行われる「ナショナル協議員賞」なるものは、果たしてどれほどの価値のあるものなのか、大いに疑問だ。三浦氏は講評の冒頭で「議論が分かれて大変紛糾したが、とにかく選ばなければいけない」とやや弁解口調で語っていたが、こうした選抜のされ方の後で、一等賞を選ぶのが苦しくなってしまうのは当たり前だと思う。例えば、小浜と伊藤を比較して、伊藤を表彰するというプロセスに、いったいどんな意味があるのか。そこにメッセージを読むことさえためらわれるような曖昧な儀式である。いっそ、「三浦雅士賞」とか「榎本了壱賞」などいった名称でそれぞれが勝手に表彰すればいいと思う。そして、一番集客の見こめそうな公演に主催者サイドが「横浜市芸術文化財団賞」を贈り、来年の上演権を与えたらよいだろう。

2日目の3作品について
以下、この日の3作品について簡単に感想を付記する。岡作品は、上演時間が55分にも及んでいて、十分これだけでフル・イブニングの公演になりうるものだった。私の知る限り、バニョレに出展するときは、オリジナルが長い作品であっても30分程度の短縮版が上演されることが常だったように思う。聞くところでは最近ルールが変わったのだそうだ。上演する作品をピックアップするという観点からすれば、短縮版を見せられるより作品全体が見られた方がいいに決まっている。だが、そうなると、15分程度しかなかった伊藤作品などは、フランス行きの切符を獲得するには不利になってしまうのではないか。「長い作品を作る能力がまだ無い」というネガティブな捉え方をされかねないからだ。

それはともかく、岡作品は私には退屈だった。それは、私が、そこに視覚的な面白さがあるにせよ、関係性の妙味があるにせよ、前提条件としてダンサーの身体的魅力−−運動が与える生理的な快感や美、あるいはフィジカルな個性や存在感、場合によっては形態的な面白さ−−がないと、ダンス鑑賞として満足できない人間だからだろう。岡の振付はそうしたものを徹底的にそぎ落としていき、観念的なポーズやムーブメントを提示しようとするものだった。そして、かなり一本調子なままに延々55分間続けられたものを忍耐強く見た後で、今このような身体が探求されている理由のヒントを見つけることは、私にはついに出来なかった。

伊藤のデュオ作品(伊藤とキム・ミヤ)は、最も好感の持てたパフォーマンスだった。とはいえ、彼女のデュオは短く、オリジナリティにも欠ける。映像をかなりうまく作り上げて、踊りと組み合わせることに成功しているが、彼女がドゥクフレの「IRIS」に参加したばかりであることをすぐに思い出させるような手法であった。彼女の作品の美学は、モダンバレエからモダンダンスを経由して外挿された地点に領域にやすやすと収まる。歴史を遡って異なる系譜を編み出そうとしたり、歴史の無効性を主張するような他のエントリー作品群の中にあって、そのおとなしい優等生ぶりが一際目立っている。それでもなお、私が彼女の「a person」に好感を持つのは、創作姿勢に伸びやかさと素直さが感じられるからだ。そして、私の偏見かもしれないが、成熟した芸術家であれば落第であろうが、出発点に立つ若者としてはむしろこういう方が信頼できると思ってしまうのだ。変に流行を気にしていないし、妙にキーワードに囚われて狙っているところもない。頭でっかちでなく、自分に忠実なのだ。・・・確かにこのまま平凡に終わってしまう可能性はある。だが、伸びやかさと素直さが、彼女はこれから出会うもの次第でどんどん変わっていけると感じさせる。環境次第で、自身の内からぐんぐん未知の姿を発現していけるような、そんな植物の成長点の柔らかさのようなものが彼女には感じられるのだ。もちろん、パフォーマーとしても、この日舞台に立ったダンサーの中で群を抜いていたことも大きなポイントだ。共演のキム・ミヤも良い。

続く康本作品もデュオ(康本と三浦宏之)だったが、伊藤とは対照的で、彼女の作品は結局のところ、アイデア一発勝負だ。「通信教育のビデオ講座という枠組みで見せる」というアイデアによって成立している舞台でしかない。はじめはパロディの対象として、次に虚構の関係性を成立させる枠組みとして機能するビデオ講座という設定は、パフォーマー2人が「脱心」するためのブースターのようなものなのか。ビデオから離脱した後は、ことさらに阿保っぽく歌われる「ぞうさん」などの童謡に合わせて踊り、最後は虫になって、スクリーンに投影された花の映像にへばりついて蜜を吸う。「脱心」には時間を要すると言うことなのかもしれないが、パロディの部分が長すぎる。そして、ビデオから離脱してからのパフォーマンスがお粗末すぎる。もしも、このバランスを逆転できたなら、この作品は、単なるアイデア一発勝負から離陸できただろう。ところで、昨年暮れの「踊りに行くぜ!! Vol.4」(スフィアメックス)で見た「夜泣き指ゅ」と合わせて考えると、伊藤に比べるとずっとひねりが入っているものの、彼女の作る舞台にも、伊藤作品同様、作り手のパーソナルな世界に直接触れるような感覚を与えてくれるところがある。康本の評価できる点は、アイデアや彼女の身体的魅力よりも、その点に尽きる。
(2004年2月12日記)