ランコントル・コレグラフィック・アンテルナショナル・ドゥ・セーヌ・サン・ドニ2004横浜プラットフォーム第1日('04年1月11日)

2004年1月10日(土) 15:00 横浜赤レンガ倉庫1号館
ランコントル・コレグラフィック・アンテルナショナル・ドゥ・セーヌ・サン・ドニ2004
横浜プラットフォーム(旧バニョレ国際振付賞)第1日
高野美和子「匿名トリップ」
岩淵多喜子「Be」(完成版)
岡本真理子「ききみみ塔」
小浜正寛「BOKUDEX」
演劇の補集合としてのダンス
「ランコントル・コレグラフィック・アンテルナショナル・ドゥ・セーヌ・サン・ドニ2004」(以下SSD国際振付賞)の初日の4組は休憩を挟んで、前半2組と後半2組に分かれてコントラストを形成した。前半2組の高野美和子と岩淵多喜子はラバンセンター留学組で、ダンスの振付作品として従来の枠組みの中で作品を練り上げており、ダンサーたちもダンスしている。とりわけ岩淵作品の出演者である太田ゆかりと大塚啓一の2人は、ダンサーとしてこの日の公演の中では抜きんでて高いクオリティを見せた。

それに対して、後半2組の岡本真理子と小浜正寛は、既に確立している「ダンス」というジャンルに関心がない。どちらも自作をソロで演じているが、おそらくダンスを踊ることで勝負できるほどの身体も持ち合わせていないと思われる。むしろ、そんなことは「どうでもよい」というスタンスである。この「どうでもよい」というところが、最近の一つの傾向であると思う。バレエから見れば、コンテンポラリー自体「どうでもよい」路線だったのだが、さらにそれが先鋭化しているのだ。彼らは、これまでのモダン/コンテンポラリーダンスの経緯を踏まえて、それに異議を唱えたり、それを自分たちなりに拡張しようなどという意志はまったくなくて、前の世代に対して無関心なまま、「自分たちのやれること(ダンスの基礎的技術がマスターできていようといまいと気にしない)で、自分たちの面白いと思うことをやる」というスタンスである。どうやら今、そうした人々がどんどん出てきて、彼らに対してそれなりに観客が付いてきている、という状態が生まれてきているようなのだ。「コンテンポラリーダンスの大衆化」という事態であり、SSD国際振付賞の日本の最終選考にこの2組が選ばれたことは、今や評論家たちもこの事態を歓迎していることを象徴しているのだろう。

私もこうした人たちの登場を歓迎する。自分自身がパフォーマンスをする場合も、「自分たちのやれること(ダンスの基礎的技術がマスターできていようといまいと気にしない)で、自分たちの面白いと思うことをやる」というスタンスでやってきた(と言ってもたった2回だけど)。パフォーマンスとして面白いなら(笑えればではない、興味深ければという意味)、ダンスというジャンルに拘泥するものではない。ただし、国際振付賞(ランコントルとはいえ、賞と呼んで差し支えない機能のイベントには違いない)の名において評価することには抵抗がある。

こうした傾向の作品について、それをダンスとして論じることには、じつは余り意味はないのだと思う。小浜のパフォーマンスにダンス的なものを発見することは可能かもしれないが、彼のパフォーマンスの価値はそこにはない。例えば、腕時計を見るという動作を周知のダンスの動きに重ね合わせることで彼が提示するのは、日常動作のダンス的展開でもなければ、時間を気にし過ぎる現代人へのからかいでもなく、ただひたすらナンセンスな可笑しさであろう。そのことは、誰もがダンスらしいとすぐに察知できる動きが模写の対象として指示されていること、「足首に巻かれた腕時計を見る→背中に背負っている腕時計を見る」というナンセンスな展開の仕方から明らかだ。蟹を両手に持って、ディスコミュージックに合わせて振り回す最後のシーンも、スラップスティックな可笑しさが主眼であって、ダンスはそのための素材を提供しているに過ぎない。

ジャンルの定義は常に曖昧で、時代と共に再定義を繰り返していく宿命にある。だが、小浜のやっているようなことを振付賞で評価することは、ダンスを舞台芸術における演劇の補集合として扱う風潮を促すことにつながるような気がしてならないのだ。勘ぐりかもしれないが、「ダンスをやりたいから」というよりも「わりとすぐに舞台に立てる」という理由で、ダンス業界が用意した発表の場に表現者が押し寄せている、というのが実情ではないかと思えるのだ。きっかけはなんであれ、彼らは日本のコンテンポラリーダンスの活性化、大衆化に寄与するだろうし、その中からシーンを激しく揺さぶる震源地となるような才能が出てくるかもしれない。しかし、傾向全般をあまり真面目に受け止めても意味はないのではないか。もしも、どんどん出てくる補集合的なパフォーマンスを振付賞のような場でもてはやすことによって、ダンスのことを真剣に考えている才能が押しやられてしまったら、それは悲しいことだ。

残り3組について
だから賞の対象として評価することには反対だが、ともあれ小浜は面白かった。さて、残りの3組についてもメモ的にコメントを書いておく。岡本は確信犯的に退屈な時間を作っている。だいたいにおいてゆったりと事を進めるし、いつもつまらないことばかりやっている。だから、必然的に動詞よりも主語に関心は集まっていくのだが、その主語はただ自分のやると決めた退屈な遊びを遂行しているだけの存在だ。終始伏し目がちな佇いが彼女のパフォーマンスに対する姿勢を象徴している。彼女の作る時間に共感しうる女性は恐らく居るだろうが、そうできるのは彼女に心情的に寄り添える層だけだろう。きわめて閉じたパフォーマンスだと思う。

高野が彼女以外の出演者(伊東歌織、河村篤則)に振り付ける動きは、メディアの中に現れる操作される身体を連想させる。いわゆる人形ぶり的なものだが、VJのスクラッチのようなギクシャクした反復、手描きアニメーションのような震えが特徴的だ。高野作品のポイントは、こうしたメディアに反映された視覚的イメージとしての身体に、触覚的な生理的な身体感覚を組み合わせたところにある。肌の表面をひっかいたり擦ったりするような仕草、客に背を向けて背中を丸めてなにやら下腹でやっている様子。わさわさした触感の喚起される小道具のウィッグ。そして、男性1名を混ぜた3名全員が同じウィッグをかむり、黒いゆったりした布で身体を包むことで体の線を隠し、まるで髪を生き物のように見せている。そうしたところに面白くなりそうな戦略が感じられるのだが、しかし、それで何をやろうとしているのかは、あまり伝わってこない。中間部の高野のソロが面白くないのも弱点だ。

岩淵作品は、男女の関係において、女性の心情や心理的距離感の移ろいをダンスで見事に描いた佳作(男性側は、女性の側から見た存在として一面的に描かれている)。幸福な関係を描いた最初のパートでは、ありがちな関係から生まれる掛け合いの中に、相手の力を利用したハっとさせる素早い動きを混ぜたりして、飽きさせない。大塚のスキンヘッドをうまく使って笑わせてもくれる。しかし、大塚が去ってから始まる太田のソロはどうだろう。垂れたお尻などボディラインの衰えを気にする仕草は良いが、それがモダンダンスのターンとつなぎ合わされた時、説明とクリシェの安易な結合を見てしまう。正座して向き合い、それから二人で互いに体重をシェアし合って客席に向かって歩くというラストも過剰に説明的だ。クオリティの高いデュオを紡ぎ出す才能はあるのだから、説明することからもっと自由になった方がよいと思う。

以上、初日の雑感。舞台を見たその日のうちにそれについて書いたり、それをすぐに公開することは基本的にしないのだが、今回はあえてそれをやって、推敲も出来ていないつたない文章を晒すことにした。
(2004年1月11日記)