映画「エレファント」ガス・ヴァン・サント)の美しさ('04年4月13日)

開中の映画「エレファント」(ガス・ヴァン・サント監督)を見た。予告編が終わると、両側のカーテンが動いて画面の両端を隠す。すっかりワイド(1:85)に慣れているので、スタンダード(1:33)になると視界が狭く限られた感じがして、見えない部分に対する不安が生じる。これは「見せない」ことによって不安であり、「見ない」ことによって美しい映画だ。

吉田修一がプログラムで書いていたけれど、1999年4月20日にコロンバイン高校で起きた事件の時にTVに映されたおびえる生徒たちは、アメリカの青春ドラマを見慣れていた人にはびっくりするほどダサかったという。アメリカの青春ドラマに暗い私にも、だらしなくトレーナーを着込んだ肥満した子たちや、日本の高校生たちに比べておよそしゃれっ気のない彼らの格好に驚いた記憶がある。

だから吉田の指摘にとても同意するのだが、その後の論旨が反対に別れる。彼は、美しいとはいえない生身の若者たちが、実は美しいことを示す映画だというのだが、私の印象は全く逆である。ミッシェルを除いて、カメラが注目する男女の生徒たちの役にはみんな美しい少年・少女たちがオーディションで選ばれている。ちょい役の生徒たちもみんな小ぎれいな子ばかりだ。

冒頭や最後にたっぷりと映される微速度撮影された空模様の詩的な映像。美しく整備された緑豊かな住宅街、見苦しい落書きの散乱など見られない美しい学校。終始滑らかに流れるように移動するカメラ(トリアーの手持ちカメラとはまったく異なる質感)・・・この憂いを含んだ叙情的な物腰。そして、静かに流れるベートーヴェンの「月光」第1楽章。ここからは醜いものや醜い様子は、意図的に限りなく排除されている。酔っぱらっているというジョンの父親は、外見からは酔っぱらいらしさがあまり窺えないので、ジョンが指摘するまでそうは見えなかったくらいだ。殺人のシーンでも血こそ映るものの、「同性・異性愛会」クラスから廊下に出た少年など、腹を撃たれ後、もがき苦しむこともなく静かに居眠りでもしているようにただ横たわる。傷口も見えず僅かばかりの血が床を汚すだけだ。

そう、ドキュメンタリー風と言われたりするけれど、この映画はおよそリアリズムではない。この世界の美しい面だけを見ていたい、表面的な美しさに心を委ねたい、そうした意志に貫かれている。そこへ、そうした意志には全く理解不能なこととして銃乱射事件が唐突に起こる。そして、にもかかわらずカメラは事件の結末を見ずに現場を去ってしまい、再び美しい秋の空を映して終わるのだ。なんと皮肉な映画だろう。監督の意図にかかわらず、ここには、9.11が生じたときに「どうして我々が憎まれるのか理解できない」と言ったアメリカ人の問題が、別な形で表現されている。「エレファント」と言うタイトルは、「理解不能なのではなく、理解したくないだけだ」と指摘しているように思えてならない。

そのことを示唆するのが、事件のあった時刻に「同性・異性愛会」が行われていたという設定だ。同性愛の問題のように社会的に認知された事柄については、公平でありたいと考える彼ら(舞台となっている学校に子供を通わせるような層)の姿勢が現れている。彼らの倫理観の限界はきわめて素朴に限定されていて、それは彼らが想像力を及ばせる範囲内である。

一方で、無関心でいられる事柄については、無いものとして振る舞おうとするのだ。そちらの面は、この映画では直接的には映し出されないが、彼ら自身の精神的荒廃や、彼らの生活の豊かさが自分たちの社会の外に強いている犠牲などといった事柄への抑圧的な無関心は、この映画の撮り方そのものに現れている。

「エレファント」が美しいのは、実際に高校生たちが美しいからだと考えるスタンスは、イラクの人々の生活を破壊しながら、「彼らを自由にしてやるためにやっている」と平気で思える人々(勿論アメリカでもある層の人々だろうが)のスタンスにつながっている。そうした態度に激しく苛立って、彼らに自分たちイラク人が置かれている現実をしっかりと考えさせる手段として、テロに走る人々がいるとしても不思議ではないように思う。わたしたちは「エレファント」の美しさに見惚れると同時に、そこから排除されているもののことを考えて戦慄するべきなのだ。

ところで、プログラムではアレックスとエリックの関係は親友と言うことになっているが、彼らは兄弟ではないのだろうか? 彼らは一緒に朝食を採りながら、自分たちの両親をこっそりと嘲っていたように見えた。
(2004年4月13日記)