Noism04「SHIKAKU」――旗揚げ公演で垣間見た金森穣の新しさ('04年6月21日)

2004年6月17日(木) 19:30 パークタワー・ホール
Noism04:「SHIKAKU」
演出・振付・出演:金森穣
美術:田根剛
出演:Noism04=青木尚哉、井関佐和子、木下佳子、佐藤菜美、島地保武、清家悠圭、高橋聡子、辻本知彦、平原慎太郎、松室美香

振付・衣装・演出が融合してみせる「見たことのない身体」
コンテンポラリー・ダンスの領域では日本初のレジデンシャル・カンパニーNoism04の旗揚げ公演である。Noism04は金森穣が今年4月にりゅーとぴあ新潟市民芸術会館舞踊部門の芸術監督に就任して結成されたカンパニーで、レジデンシャル・カンパニーを作ることは、金森が芸術監督を引き受けるにあたって新潟側に提示した条件だったそうだ(*)。メンバーは東京、大阪、新潟でオーディションを行い、190名の中から選んだという。日本で新しいことを始めるぞ−−そんな金森の強烈な勢いを感じさせる素晴らしい公演だった。

日本のダンスカンパニーを見て、こんなに血が騒いだのは本当に久しぶりのことだ。こんな興奮はいつ以来か・・・そう、例えば伊藤キムと輝く未来や珍しいキノコ舞踊団の公演を初めて見たときの興奮を思い出す。金森穣とNoism04がそれ以上の存在になる可能性は十分にある。少なくともダンサーのレベルは高い。最近は日本の若いカンパニーを見に行っても、感動することはまずない。例えばニブロールのダンスとアニメとのコラボは面白いと思ったけれど、作品構築の核になるものが彼らの世代の心象風景に依存しすぎていて、世代のズレる私には共感しにくいところがある。それで良いというのが彼らのスタンスなのかも知れないが、もっと掘り下げれば間口の広いものになるのではと思えて残念だ。その点、金森の舞台の間口はずっと広い。そうでなけりゃ、レジデンス足り得ない。また、先日見た枇杷系に至っては、いったいどこがそんなに良いのか皆目分からない。注目株とされる天野由起子はよく動くけれど、テキパキと振付をこなしているだけで、彼女の身体から踊りが生まれているようには見えないし(もっともそういう新しいタイプなのかもしれないが)、山田せつ子の振付の身体の使い方が平板なのは、金森穣の振付と比べてみれば明らかだろう・・・まあ他のカンパニーのことはもういい。金森とNoism04についてだけ書こう。書きたいことは一杯ある。


観客はホワイエに開演ギリギリまで足止めされていて、入場後の注意事項がアナウンスされてからホールへの扉が開く。まるで遊園地のアトラクションに入っていくような気分だ。平土間のパークタワー・ホールの床には四隅を残して全体に白いリノが敷かれ、その部分には、白い発泡スチロールの板を張り合わせて作られた壁が天井から吊されて一筆書きで迷路を作っている。あるいは不完全な形で4つ(5つ?)の部屋と廊下に仕切られていると言ってもいいだろう。壁には穴が沢山開いていて、隣の空間を覗くことが出来る。各コーナーには、白い立方体が置かれている。これは全部で10個あり、舞台の道具として最後まで活用される。また壁の上からメガフォンタイプのスピーカーが見下ろしている。

昨年の伊藤キム「劇場遊園」(参照)もそうだったが、こういう形式の公演では観客の人数をどこまで制限するかがジレンマだ。開演15分前に到着したときにはすでに「当日券は完売しました」という表示が出ていた。だから明らかに人数を制限していると思うのだが、会場内は観客で混み合っていて、少なくとも普通の速度で歩行できないほどの密度にはなっている。

こんな状況で踊れるのだろうかと思っていると、人だかりの向こうに金森を発見する。ハニーブロンド(プラチナブロンドと書いていたのを訂正しました;June22)に染めた髪をみじかく刈り上げて、ちょっとモヒカン気味にしている。衣装は上下薄いベージュ系のアースカラーで、あちこちに穴が開いていたり、布がわざと非対称に縫ってあったりして、国籍不明のパンク青年、もしくはお洒落な浮浪者?といった風情だ。「劇場遊園」の輝く未来たちが普段着で観客に溶けこんでいたのとは反対に、異質な存在として演出されているわけだ。その異質さは、例えば聖飢魔II(キッスを挙げたいところだが古すぎるので)みたいな反日常=ハレをアピールするものではない。そのような異質さはそれがお祭りだけの一時的なものであり、化粧の下に私たちと同じ人間が潜んでいることをかえって想像させてしまうが、金森の風貌と衣装は、それが彼の常態であり、彼自身が本質的に観客たちの中にあってはっきりと異質な存在なのではないか、と私たちに思わせる。

彼は腰を落として両脚を開いて踏ん張るような格好で立ち、ヒップホップを参考にしたとおぼしき奇妙なダンスを踊る。アイソレーションを多用しているがよくある人形振り的なもの(枇杷系にもよく見られた)ではなく、腕の筋肉、胸の筋肉、背中の筋肉が日常生活ではあまり見ないような協働を見せる不思議な動きなのだ。私はその”蠢く身体”に釘付けになった。人間のようでいて人間ではないが、人間ではないようでやはり人間・・・見たことがないから言葉が見つからない−−「そうだ、思い出した。私は見たこともない身体に出会いたいと思ってダンス公演に来ていたのだった!」。これは勅使川原三郎を初めて観たときの驚きにも近い。

ところが、一瞬の感動と同時に、私は二三年前にTV(「たけしの誰でもピカソ」)で金森が似たようなダンスを踊るのを既に見ていたことを思い出した。あの時は、「珍しく大きな動きよりも、細かい動きを精密に振り付けることに興味が集中している人だな。あれだけ細かい動きを作り込める人は日本のコンテンポラリーではあまり観たことがないけれど、全体としてはごちゃごちゃ動いている印象ばかりでつまらない」と思って感心しなかったのだ。

しかし、いま人垣越しに間近に踊る彼を見て、彼のダンスが自分の身体にダイレクトに働きかけてくるのを感じた。私はアートスフェアや新国立劇場での公演にも行かなかったので(いくらキャリアが立派でも新人にしてはチケットの値段が高いと思ったからだ)、そのせいで発見が遅れてしまったのかも知れないが、少なくともこの「SHIKAKU」では、彼のダンスが美術・衣装・演出と有機的に結びついて、ひとつの作品世界が形成されて、それを私はその中にすっぽりと入り込んで体験していると感じられた。

ということは、身体の動きだけを取り出せば、決して「見たことのない」ようなものではないのかもしれない。ただ、美術・衣装・演出が作り出すこの場、この関係(観客である私との)の中で、彼の身体の中に見たことのないものを見てしまったということなのだろう。でも、錯覚だったというつもりはない。彼の身体には、その部分と部分の動かし方の相関において何か捉えがたい新しさがあり、TVでは判らなかったそれが、そこに意識が向かうような場作りが行われたことで見えたのだ(この点については後でまた触れる)。

しばらくすると、私を興奮させた金森は、人混みに顔をつっこむようにして分け入っていき、観客の群れの間をすり抜けていった。それを追いかけて彼を見続けることは難しかった。

Noism04のポジションを問うギリギリの実験
金森を見失って暫くすると、Noism04のメンバーたちが次々と登場してきた。金森同様全員がハニーブロンドで、男性はドレッドへア、女性はベリーショート。眉も同じ色に染めたり抜いたりしている。彼らは金森同様、観客の群れに紛れ込んだ異質な部族だ。

会場内を歩き回って見るのは困難だが、ダンサーたちが踊るのは主に部屋の角や壁際の辺り(しばしば立方体が置いてある)であることがわかったので、もっぱらひとつのコーナーに居座って見ることにする。ダンサーたちは頻繁に移動するので、同じ場所にいてもいろいろなダンサーが見られる。各コーナーのスピーカーからは違う音響が出ているようだった。主にノイズ系だ。照明もコーナーごとに演出されているようだ。

アフタートークでの金森の話によると、ダンサーたちの移動はきちんと決められているのだそうだ。ただ、観客がいるので移動の所要時間までは制御できない。「観客はお天気のようなものだと思っている。雨が降ったら当然遅くなる」と言う。平原慎太郎は「今日のお客さんは近づいても全然たじろがないので、ムカツいたり、ムカツかなかったり・・・」と語った。実は入場前の注意で、壁に触るなとは言っていたが、ダンサーに関する注意は一切言わなかったことが私は気になっていた。まるで観客を挑発するように「自由に見て欲しい」と強調してすらいた。ダンサーも踊りの途中で観客の一人に迫っていき、抱きつかんばかりに伸ばした両腕で客の頭を挟んだりする(触れはしなかったが)。あるいは壁の窓から覗き込んでいる観客に対して視界を遮るようなそぶりを見せる。アフタートークで観客との関係について訊かれた金森は「言いたくない」と言っていたが、ダンサーに任された要素の中には観客との絡みも含まれていたようだ。こうしたシーンでの即興は完全に自由な即興ではなく金森が「すべてシステムを決めてやっている」とのこと。

私の選んだコーナーにすべてのダンサーがやって来るわけではなかった。例えばスターダンサーズバレエ団で馴染みのあった木下佳子は来なかった(もっとも来てもその時は判らなかったと思うが。アフタートークで一人ずつの自己紹介があって初めて判った。女性陣はまったく風貌が変わってしまっていたからだ。フェミニンなバレリーナも今や角刈りである)。よくやって来たのは佐藤菜美、清家悠圭、辻本知彦、島地保武だった。ダンスはブレイクダンスヒップホップ系の動きが多い。さすが辻本の動きはそうした動きがいかにも決まっていて見事だった。でも、私が「いいな」と思ったのは佐藤だった。ここではヒップホップとして決まっているかどうかは問題ではないからだ。エッジのない代わりに、しなやかなようでいてギュッと密度の高い彼女の身体の動きを見ていると、鉛でできたソフトクリームに触れた時のような矛盾する感覚が湧き起こってくる。

デュオも面白い。ダンサーたちは基本的に何も見ていないかのように振る舞う。一人がすっと手を伸ばしたら、そこに別のダンサーの頭がたまたまあった、というようにコンタクトが始まる。デュオが始まっても、意識を半分くらいしか相手に振り分けないで、いつでも分離しそうな気配を残しつつ、それでいてしっかり相手の動きからタイミングやエネルギーを貰って動いている。目と鼻の先でやっているから、ダンサーの細かいところまでクリアに見えて、非常に面白い。客席から舞台を見下ろすのとは全く違う体験だ。

「(観客と)ぬるっと肌が触れ合う体験」と島地保武は言ったが、踊っているとたちまち出来てしまう観客の輪からの脱出には観客との接触を伴う。手で払ったりは絶対せずに、顔をつっこむような格好で人混みに割って入り、次の場所へと移動していく。揃いのTシャツを着たスタッフたちが随所に立っていて、どうにもならないときは、彼らが客に移動を促して道を作る。予定通り公演が進められるかどうか、これは結構ギリギリの実験だな、と思った。

観客が大胆になればなっただけ、事故にならないようダンサーたちは一層神経を尖らせなければならない。観客の群れを客観的に眺めれば、私たちは、自分の村に紛れ込んできた異人たちを物珍しげに眺める村人たちのようだ。そして私たちは異人たちに直接手出しこそしないものの、群衆として威圧的な雰囲気を醸し出している。客席から舞台を眺めているときとはまったく違う心理状態が生まれているのだ。

地毛を染めてやっている彼らは、新潟公演から東京公演に掛けての期間中、衣装以外は普段の生活もこのままの風貌だ。一目見れば判るから、新潟の町を歩いていて、「あ、Noismだ!」と声を掛けられるそうだ。レジデンシャル・カンパニーの立ち上げとして、これは実にうまい戦略だ。コンテンポラリー・ダンスという「なんか変わったダンスを踊っている奴ら」というマイナーなポジションを逆手にとって、異人としてメンバー一人ひとりを印象づけることができる。彼らのやっていることをカッコイイと思えれば、少なくとも若者たちは、異人である彼らを排除する群衆の側には自分を置きたくないと思うはずだ。そんな見る側の意識の問題に揺さぶりを掛けることが、「SHIKAKU」のもっている一つの目論見にもなっていると思う。

シーン作り、各メンバーの生かし方が課題
やがて会場全体が暗くなると、ホテルのドアノブにぶら下げる札(Don't Disturb)のような形の手持ちの行燈が10人分用意されていて、ダンサーたちはそれを持ち歩きながら踊る。そして、開演30分後には完全暗転し、予想通り、壁が上へと吊り上げられていく。四角いブロックに細かく分割された天井がブロック単位で上げ下げできるのは、パークタワーホールでのダンス公演を見てきた人にはお馴染みのこと。そして発泡スチロールの壁は、下へ半分降ろされたブロックに固定されていたのだ。

スタッフたちがロープを張って、リノの床から観客を追い出していき、後半は、観客にふちどられた四角形のスペース内でのダンスとなる(観客は最後までずっと全員立ち見である)。初めて同時に見ることになる10人のダンサー(金森はとっくに捌けていていなかった)たちが何もない空間を一斉に踊る光景は、強い解放感を観客に与えてくれる。踊りの質そのものは、今まで見てきたものとそんなに変わらないのだが、スピードが違うし、空間の使い方もぐっと広い。

観客たちは、個々のダンサーの動きはたっぷり堪能しているから、ここでは集団ならではのものを見せなくてはいけない。分散していた立方体を積み上げて塔を作り、一人がその手前に王のように座り、残りのダンサーたちがそれを軸に時計の針のように横一直線に並んで回り始める。一人残されたダンサーが行燈を手に”王”に近づこうとするが、スイープするダンサーの列に阻まれてなかなか到達できない。

あるいはこんなシーン:ごく有り触れた家庭用の赤い郵便受けがリノの床の端(四角形の一辺の中央)に設置されていて、その正面に反対の辺に向けて一直線に並んだダンサーたちが、そこから手紙をリレーしていく。「手紙」はこの作品のひとつの重要なモチーフで、プログラムでも「この手紙は過去という、未来の過去に送られる」と書いているし、まだ壁のあった前半でもダンサーが隠し持っていた手紙をそばにいる観客に手渡すのを目撃した。アフタートークによれば、ダンサーが手紙を読んでそこに書かれた文字からやるべきことを決めるという場面もあったらしい。ただ、「手紙」のモチーフと壁のアイデアは、あまり上手く結びついているように思えなかった。後半のシーンでの手紙の登場も、とってつけたような印象が強い。郵便受けが安っぽいレディメイドというのも良くなかったと思う。

ともあれ、いろいろなフォーメーションで後半40分あまりを見せていくのだが、フォーメーションのバリエーションに頼りすぎていて、振付そのものは一本調子に見えてくる。動きの質感を変えるなどしていろいろ変化に富んだシーンを作っていくのは、金森の今後の課題ではないかと思った。今の段階では、今回の前半のような大きなアイデアなしには、フルイブニング飽きさせない作品は作れないような気がする。アイデア一発に頼らずに大きな作品を創るには、「手紙」なら「手紙」といったモチーフ一つひとつをもっと掘り下げていく必要があるだろう。

音楽はほとんどノイズ系−ハウス系なのだが、一箇所、バッハの無伴奏チェロのサラバンド組曲第5番)が流れて女性がソロを踊るシーンがある。この時、音楽の示唆を受けて、ハッとしたことがある。この曲は重音も使わずにずっと単音で演奏されるのだが、単音ではあるけれど複数の声部が聞こえるように演奏して、聴き手はそこにバーチャルな複数性を聴き取るところがこの曲の面白さのひとつになっている。そうか、金森の振付も理想的にはそういうところを目指しているのではないか? 一人の人間の身体でありながら、その動きの中に複数性をみることができるようなダンス。もっともこれは実際にそういうダンスを見たわけではなく、冒頭で少しだけ見た金森のダンスと、その後のNoism04のメンバーに当てられた振付を見て、それらを頭の中で組み合わせてみたら、彼の身体から感じた新しさはそういうものではなかったかという仮定が出てきたのだ。

一方、Noism04のメンバーは皆、レベルは高いけれど、金森の振付をどこかそれぞれの出自に寄せて踊ってしまっているように見えるところがある。このカンパニーの特色は、バレエ、ヒップホップ、ジャズダンス、モダンダンスとさまざまな系統のダンサーたちが集まってきていることだ。それぞれの出身をそれぞれの個性として打ち出していくのか、それとも、各自の得意な動きは生かしつつ、それらのジャンルのどれにも属さない金森のダンスを全員に踊らせていくのか。おそらく金森は後者を目指しているのだろうが、今の時点ではまだ曖昧だ。ジャンルのレベルではない各ダンサーの個性をうまく掘り起こしていけば、カンパニーとしての魅力が増すし、パフォーマンス自体もぐっと豊かなものになる。その辺も今後の課題だと思ったが、実に面白そうなダンサーたちが集まっているので、この点は心配というより楽しみでならない。

最後は壁がまた降りてきて、再びそれぞれのコーナーに置かれた立方体の上にそれぞれのダンサーたち立って、一瞬、前半の状況を観客に回想させる(今となっては回復不能な過去だ・・・観客のダンサーを見る目はすっかり変わってしまったからだ)のだが、壁はすぐに床から2メートルくらいの高さまで持ち上がる。会場がやや明るくなると、舞台の中央を長身の島地がロープを引きずりながら、空間を横切っていく姿が見える。いままで観客をリノの空間から遮っていたロープがスタッフの手を離れて、彼の身体に巻き付いたのだ。境界を横断していく者としての島地のイメージを最後に残して暗転して作品が終わる。観客との関係に最後までこだわってみせたところが面白いと思った。

秋には新作の発表が予定されている。それを持ってりゅーとぴあのほか7都市を回るツアーをするという。東京の会場は新国立劇場だ。今回は追加公演をしても応じきれないほどの観客が押し掛けたようだ。次回は小劇場ではなく中劇場で、より多くの観客の期待に応えるべきだと思うのだが(ただ、ツアー先に高知県立美術館があるので、あそこのホールでやる規模だとすると、やはり小劇場になるのか)。(2004年6月21日記,稲倉達)

(*)AERA」(2004年6月14日号)の記事によれば、金森、メンバー10名にマネジャーを加えた12名の年俸は約4千万円だという。メンバーの拘束時間がどのくらいなのか判らないので一概に言えないが、金森にそれなりに傾斜配分されることを考えると、メンバーの報酬はあまり多いとは言えないがバイトしなくて済むくらいの額ではあるのだろう。「制作費などを含めれば1億円近い年間予算は、市の補助金やチケット収入から捻出される仕組み」とか。(戻る