Noism04「black ice」――芸術監督に拍手、振付家には小言('04年12月14日)

2004年12月11日(土) 14:00 新国立劇場中劇場
Noism04「black ice」
演出・振付・出演:金森穣
美術・映像:高嶺格
出演:Noism04=青木尚哉、井関佐和子、木下佳子、佐藤菜美、島地保武、清家悠圭、高橋聡子、辻本知彦、平原慎太郎、松室美香、中野綾子(研修生)

残念だった振付の保守化
日本で初のコンテンポラリーダンスのレジデンシャルカンパニーを芸術監督として率いる金森穣への注目は高い。周囲の期待に対して、りゅーとぴあと金森は3部構成フルイブニングの新作をもっての全国8箇所のツアー公演で答えた。カンパニー側に確かめたわけではないが、自分の見に行った日の客入りやアフタートークへの集客を見るに、反響は十分で、興行的には成功と言える成績じゃないだろうか。6月にパークタワーホールで見た時に比べて、客の年齢層が広がり(おばさんが多い?)、会場はコンテンポラリーダンスの公演とは思えない賑やかな雰囲気だった。

芸術監督としての務めは立派に果たしたと思う。偉い。でも、振付家としては一歩後退ではないかという気もするのだ。そこで今回は、金森に期待する者の一人として、あえて残念な点をぶつぶつと書くことにする。一言で言えば、作品作りにおいて保守化したと思う−−失敗は許されないというプレッシャーは相当なものだっただろうと察しもするのだが。

保守化ポイントは3つ。ひとつは特に第1部に顕著だったように、先人の影響があまりに濃厚であったこと。第1部「black wind」にはフォーサイス・アイテムが沢山ちりばめられている。池田亮司のOp.1(フォーサイスの「Wear」で同じ曲の別バージョンを今年の春に聞いたばかりだ)、舞台を横断するロープ、「BODY」などといった意味ありげな英単語の書かれたプレート、遠心力を利用したデュエットが同時多発的に集合離散すること、最後はシーンを遮るように降りてくる幕・・・それぞれは、決してフォーサイスの専売特許ではないが、しかし、独自の文脈が明確に打ち出されないままに、こうして一つの舞台に盛り込まれてしまうと、フォーサイス的なセンスやアイテムをエスタブリッシュされたものとして借用したと感じないわけにはいかない(*1)。

第3部「black garden」では、途中でスタッフが現れて舞台装置を片づけてしまうが、それをピナ・バウシュからアイデアを貰ったとまで言うのは言い過ぎかもしれない。ただ、そうしたことがいちいち気になってしまうのは、金森なりのオリジナルな美意識や価値観が作品を貫いているようには感じられないからだ。フォーサイスやキリアンからヒントを貰うこと自体は全然構わないのだけれど、そうした要素を利用しつつ、自分のダンス作品が作れていないということが問題なのだ。無論、彼の場合、振付家としてまだまだ成長の途上にあり、力量に不釣り合いな看板を背負ってしまったハンディを考慮するべきだろう。芸術家として自己に厳しくあるよりも、見栄えのする作品をとりあえず成立させることに性急でありすぎた、と私は感じてしまったのだが、それは厳しすぎる見方か。

2つ目は、(コンテンポラリー)バレエのカンパニーとしての方向性が打ち出されていたこと。メンバー全員に、バレエダンサーとしての動きの美しさが宿っていた。バレエから逸脱するような動き(例えばコンタクト・インプロまがいの)をする時も、そこには身体を幾何学的に捉えるバレエの美が保たれていた。Noism04は、バレエの身体をベースに据えて、他の身体を排除する方向で鍛え上げられていたのだ。このことは、この半年間の素晴らしい成果として称えるべきことなのだろう。アフタートークでその辺の様子を垣間見るような発言が聞けた。司会をしたりゅーとぴあのスタッフは「日々のレッスンの基本はバレエ。バーレッスンから始める」と語っていた。観客からダンスをやっていく上でのアドバイスを求められた辻本は「大好きなダンスをするだけでなく、大嫌いなバレエもやってバランスをとらなくてはいけない」と語っていた。

この選択は正しいと言える。金森の振付の想像力はバレエでこそ発揮されるのだから、コア・コンピタンスに集中するという意味で。しかし、私の勝手な期待が裏切られただけ、と言われてしまうかもしれないが、残念でもあるのだ。この選択をするなら、何故カンパニーの半分に非バレエ系出身のダンサーを採用したのか。多様なダンスの動きを積極的に取り入れた前作「SHIKAKU」の後で、方針の変更をしたのかと思う。アフタートークの時、ダンサーたちがそれぞれ好きに座った席位置を見ると、中心に金森が居て、その周りにバレエ系ダンサーたちが集中し、非バレエ系出身のダンサーたちは両端に座っていた(右端から平原、松室、左端から青木、辻本。島地だけは辻本との間に佐藤を挟んでいたが)。勘ぐりすぎかも知れないが、この席位置に、金森=バレエという価値観に対するメンバーの意識の距離感が現れているような気もした。

3つ目は、作品における金森本人の配置の問題。彼は黒いフードで顔を隠して、第1部では横切るだけ、第2部では最後の方でフォーメーションの中心で少しだけ踊り、そして第3部のラストで、舞台装置も他のダンサーも居なくなった舞台で、フードを外して短いソロを踊ってみせる。そのソロは、やはり他のダンサーとは格が違うと思わせるだけのしなやかで素晴らしいものだったけれど、同時に、自分をそういう位置に置いてしまう彼にちょっとガッカリもしたのだ。それまでのすべての展開を相対化するような自分のソロで作品を締める−−あんたはモダンダンスのお師匠さんかい?・・・とまでは思わないけれど、またこのパターンかよ、と思ったことは確か。彼には、従来の「主宰=メインダンサー」のカンパニーの典型とは違う在り方を見せて欲しかった。それはカンパニーのメンバーとの関係において、ということでもあるのだが。またもや私の勝手な期待でしかなく、彼の人気が看板を担っている以上、興行的にはこれで正解なのだろうけれど。

第2部はレパートリーになる価値がある
保守化についての繰り言はこのくらいにしよう。ところで、第2部「black ice」だけ見ると出来がよい。振付も夾雑物が少なく、5人(ラストは金森が加わって6人)のダンサーがスピーディーでスリリングな展開をみせ、カンパニーのレベルの高さを印象づけたパートだった。また、高嶺格の舞台美術の仕掛けも新鮮だ。鋭角を舞台に突き立てるようにして立つ矩形のスクリーン。その影の落ちた床の部分に接したダンサーの身体がシルエットとなって矩形のスクリーンに投影されるという面白い仕掛け(*2)。照明が切り替わって、影の落ちるエリアが変わると、それに対応した位置でのダンサーの足の裏などが表示されるという実に良くできた仕組みだ。

第1部、第3部はこれまでぶつぶつ書いてきたような点で、現在の金森や彼のカンパニーが置かれている状況が作らせたものという面が強い。全体のタイトルにもなっている第2部「black ice」だけが、彼の本当の仕事だと思えばいいのかも知れない。そういう風に考え直すと、今回の公演に対する印象も変わる。第2部は今後レパートリーとして、他の作品と組み合わせて再演していける作品だと思う。(2004年12月14日記,稲倉達)

(*1)びわ湖ホールで11月に見ていた中西さんは「中西理の大阪日記」にこう書いていた。


「ムーブメントのボキャブラリー」「作品の今ここでの現代社会への切り込み方」のどちらにも本当の意味でのオリジナリティーが感じられなかったからだ。
こうした意見が出るのもわかる気がした。(戻る

(*2)
追記:今し方知った国際交流基金 舞台芸術専門サイト「Performing Arts Network Japan」をみたら、そこに載っている金森のインタビュー記事のコラムには下記のように説明されていた。

“black ice”, which is a collaboration on the theme of points of contact (with the ground) involving dancers and special images created with the use of a thermograph
赤外線サーモグラフィを使ったということか。そういえば、去年のプレルジョカージュのヘリコプターでも、「4台の赤外線カメラでダンサーの位置を割り出してリアルタイムで画像を計算している」ということだった。同じ技術だろうか。
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