天野由起子「ユメノタニマ」――夢の中の身体は、ダンスの装いを纏って舞台に立つ('03年10月17日)

2003年10月15日(水) 19:30 麻布die pratze
天野由起子「ユメノタニマ」
(演出・構成:天野由起子)
(出演:加藤奈緒子、山本彩野、カワムラアツノリ、天野由起子、北島由里香)

長いソロを終えた天野由紀子は、小さなテント(舞台装置)の入り口で、膝を抱えるようにして前屈みに座り込んでいる。したたり落ちる汗に濡れたその顔は、素のままに疲労感を浮かべ、スポーツの試合を終えた少女のように放心している。舞台の中央では博士役のカワムラアツノリと助手役の加藤奈緒子がペアを組んで、トコトコと着ぐるみ人形のような歩き方でパフォーマンスを続けている−−この稚気に満ちた楽しげな舞台は夢のエアポケットに落ち込み、踊る身体への回路を失っている。でも、心配するには及ばないのかもしれない。作り手はこの夢の中ですっかり充実感を味わい、覚醒する必要も感じていないようなのだ。

山田せつ子率いる枇杷系の天野由紀子は、2001年STスポットでラボアワード賞、02年にトヨタコレオグラフィーアワード・オーディエンス賞と受賞し、いまや若手の注目株。その彼女が、初めてグループ作品を発表するということで、この日、開場間近の劇場の前には長蛇の列が出来ていた。

私自身は、彼女の舞台を見るのは今回が初めてだ。見てみると、天野由紀子は決して上手なダンサーではないが、舞台はアイデアに富んでいて、観客を最後まで退屈させないだけの魅力的な演出と構成(クレジットに振付の文字はない。出演者と共同で考えた部分が多いからか)で、確かな才能を感じた。

  1. 滑稽で愛らしいキャラクターたち−−ピラミッドを縦に引き延ばしたような白いテントに棲んでいる彼らは、頭のてっぺんから肩までスカーフで覆い、マトリョーシカがトコトコと揺れているような歩き方をする。会話は言葉を発する代わりに歯をむき出してカチカチ言わせる。
  2. そして、お馬鹿で可愛い小ネタ−−相手に自分の頭の地肌を見せて誘惑する少女と、見るたびにクラクラ来てしまう少年。
  3. さらには、癒し系な演出−−おもいっきりロマンチックな選曲や、火を点けたお香のスティックを手にしたダンサーがキャスター付き板の上に乗ってゆっくりと滑っていくと会場に素敵な香りが漂うといったシーン。
  4. ついでに、女性ダンサーたちの愛らしさも付け加えておこうか。

こうしたアイテムを揃えている今回の公演は、珍しいキノコ舞踊団の後を襲いうる資格を有していると思った。キノコより若いダンサーが多いし、一応舞踏系の出自なのでテイストも違う。ファンができるのも理解できる。

しかし、こうした事象はすべて表層的なことである。これらを数え上げたり描写することでは、彼女のダンスを語ったことにはなるまい。踊る彼女の身体について語ってこそ、彼女を捉えることが出来、彼女がダンスシーンに登場して人気を博するといった現象の意味を考えることが出来るのだ。

「ユメノタニマ」を見て誰もが気がつくこと−−それは、所作の制限された動きが舞台全体を覆っていることだと思う。特に人形振り的な動きをベースにした振付が目立つ(それをこれまで、着ぐるみ人形とかマトリョーシカと表現してきた)。関節の使い方をぎこちないものにし、自分の身体を客体としてみせるパフォーマンスだ。これは日常的な身体から離陸して、踊るための別の身体を発見する常套手段である。

例えば今やスターとなった伊藤キムもここから出発しているように思う。90年代後半の彼のダンスでは次のような展開が見られた。人形振り的動きが始まると、一旦客体化された身体を自分自身のものへと奪回しようとするベクトルが発生する。それに抗うように客体的身体の暴走があり、客体的身体とそこから分離された主体との争いが行われ、やがて主客の一致に至り、身体=自分自身の状態を獲得してカタルシスが生まれる(*)ここには、自分の身体において踊る身体を発見するために彼の歩んだプロセスが、一つの作品の中でヘッケルの説(個体発生は系統発生を繰り返す)を思わせるような形で再現されているのではないかと思う。

話を天野に戻すと、彼女には伊藤キムには見られたこのような契機がまったく見られないのだ。この違いは、彼女が終盤、加藤とのデュオを経て踊った長いソロにおける太極拳のような動きに顕著に表れている。ここには、動きの様式に身を沿わせ、それを貫徹しようとする意志は感じられるものの、それ以上のものは何も見当たらない。伊藤キム的な契機は勿論、それに替わるものもない。つまり、日常の身体から離陸しようという意志が見られないのだ。激しく暴れるようなときですら、ただ動いているだけにしか見えない。そこには、踊ることで引き寄せてしまう狂気の影など見るべくもない。どうやら、彼女にとっては、太極拳も人形振りも、パフォーマンスにダンス的な装いを纏(まと)わせるための着物のようなものであるらしいのだ。これらを纏えば、愛らしいキャラクターも生まれる(ぎこちなさは弱さ、幼さの記号である)し、ダンス作品らしさがとりあえず成立するというわけである。

私は、この着物の下にある彼女の身体がダンスに触れないままでいることにひどく不満を覚える。それどころか、着物を剥いだらどうなるか−−そこにあるのは、それこそ「ユメノタニマ」に相応しい夢の中の身体−−肉体性もなく存在の強度に欠ける身体なのではないかと疑ってしまう(・・・これだったら、暴力的に自己の身体を発見しようとするニブロールの方がよっぽど健全ではないか?)。

彼女はまだまだこれから成長しうる人材だ。それに、バレエにしろ日本舞踊にしろ、まずは型を身につけることから始めるのだから、今はまだその段階だと考えればよいのかもしれない。だから、今回1回見ただけで彼女に対する判断を下すべきではないだろう。

それはそれでいいとして、気になるのは、このようなパフォーマンスがウケているという現象だ。私は「彼女の身体はダンスに触れないままでいる」と書いたが、もしかしたら、こう言うべきなのかも知れない−−若いシアターゴーアーの求めるダンスの内実は変わったのだと。何がダンスであるかは時代が決めている部分があり、「これはダンスではない」と言った者の方が時代から取り残されていく場合があるからだ。よろしい、これもきっとダンスなのだろう。しかし、彼らがダンスを求めるとき−−演劇でもコントでもなくダンスでなければダメと思うとき−−その時に、求めているものは本当にこれなのか?となおも問わずにはいられない。(2003年10月17日記,稲倉達)

(*) ついでながら、伊藤キムが人気を獲得した理由の一つは、このカタルシスだと思う。彼の「身体=自分自身」の発見劇に、観客は各々に「自己の獲得」や「自己との和解」を幻想することが出来たからだ。