砂連尾理+寺田みさこ『loves me, or loves me not』――じゃれみさのデュエットとは何か ('05年6月8日)

2005年2月12日(土) 15:00 シアタートラム
振付・演出・出演:砂連尾理+寺田みさこ
舞台美術:池田ともゆき
照明:吉本有輝子

じゃれみさの現在的意義
本日、世田谷パブリックシアターで初日を迎える『禁色』の公演を前に、伊藤キム朝日新聞のプレビュー記事で「僕は今でも自分を舞踏家だと思っている。でも、今の舞踏はコンテンポラリーダンスの周辺に見え隠れして存在感が薄くなった。自分のルーツである土方の『禁色』を通して自分の今を再確認したい」と語っている(*1)。

彼が今でも自身を舞踏家とアイデンティファイすることにちょっと驚きを覚えたが、彼の発言には、先日、ブログの方に「ダンスカルチャーが曖昧になり、複数の振付家たちの公演を渡り歩くダンサーたちの身体が見えにくくなっている」と書いた事態と関連する部分がありそうだ。

『禁色』はこれから見る予定だが、伊藤は自分のダンスが曖昧さの中に紛れてしまう事態に危機を抱き、それを回避しようとしているのではないか。

「今の舞踏、ひいては自分に活を入れるつもりで挑みたい」とも語っている。舞踏もまた同様の危機にあるというのが彼の認識なのだろうか。舞踏とは何か、というややこしい定義の問題は脇においても、舞踏がモダンダンスやバレエなど西洋のダンスカルチャーへのアンチとして登場してきたことは確かで、対抗関係にあるそれらのダンスカルチャーに出自をもつはずのダンサーたちが現況のコンテンポラリーダンス・シーンにおいて曖昧になってしまった以上、舞踏の方もアンチとしてのアイデンティティを超えるものを強く打ち出していかなければ、曖昧にならざるを得ない。もし、舞踏からそうしたものが打ち出されてくるなら、それは日本のコンテンポラリーダンスの現況への批判にもなることが期待される。

同時に、西洋のダンスカルチャーで自らの身体をチューンナップした振付家=ダンサーも、やはり出自を再確認し、それを自分たちなりに咀嚼し解体していくことは、曖昧化の現況に対して同様に有効であると思う。そのことを実に10年以上前から実践しているデュオがいる−−砂連尾理+寺田みさこ(通称、じゃれみさ)のことだ。よく知られているように、砂連尾はバレエ・テクニックも学んでいるが、モダンダンスを通して自らの身体をチューンナップしてきており、現在でも、モダンダンスの規制の下にあり、寺田は幼少時よりバレエを習い、現在でもバレエ教師として活動している(*2)。

『loves me, or loves me not』のことを書こうとしているのに実に前置きが長くなってしまったが、それは、「モダンの男とバレエの女が作るコテンポラリー」というまるで日本の(日本だけに限らないけど)コンテンポラリーの来歴を凝縮したかのようなこのデュオの現在的な意義を考えたかったからだ。

ここで、じゃれみさは単にバレエダンサーとモダンダンスのダンサーを舞台上で遭遇させたものではないことを確認しておきたい。そのためには、逆に「単に遭遇させたもの」の例を出すとわかりやすい−−2003年12月に青山劇場で来日上演された、カンパニー・モンタルヴォ=エルヴュ/クレテイユ - ヴァル・ドゥ・マルヌ国立振付センターの『パラディ(楽園)』がそれだ。『パラディ(楽園)』は実に楽しい舞台であった。バレエ、アフリカンダンス、ブレイクダンスのそれぞれを修得したダンサーたちが自分の踊りを踊ることで、多様なダンス様式の共存共栄をアピールした。そこでは、バレエはバレエという記号として機能していた。そして、よく練られたシーン構成や隙のない場面転換、ダンサーの動線のデザインなどに、舞台上では不在の存在でありながら、舞台全体を支配する演出家の意志がはっきりと感受できた。『パラディ(楽園)』では、各ダンス様式はいわばパレットの上で混合されるを待つ絵の具であり、ダンサーたちは自分のダンスを踊っているとはいえ、この意味では演出家のコマであったのだ。

一方、じゃれみさはどうかというと、寺田はバレエの規制を隠そうとはしないものの、バレエを記号的に扱ったりはしない。バレエ・ダンサーとして作品に参加しているわけではないからだ。砂連尾もまたしかり。

『loves me, or loves me not』の始まり近くでは、これがバレエとモダンダンスの混合などではなく、紛れもなくコンテンポラリー・ダンスなのだと確信させる時間が登場する。冒頭、上手から、黒いワンピースを着た寺田が膝を抱えるような格好でしゃがみ込みながら、チョコチョコと歩み出てきて、その後ろを砂連尾が従うというシーンがあり、その次。砂連尾が舞台中央奥に客席に背を向けて立ち、寺田は、砂連尾の体を衝立のようにして陰に隠れ、ワンピースを脱いでビキニスタイルになり、足の指に先ほどボトボトと天から落ちてきた二体のバービー人形を挟み込む。この間、観客は背中を向けて準備をしている彼らをじっと待っている。モダンダンス的にはありえない間である。服を脱ぐにしろ、床に転がるバービー人形を拾って指に挟むにしろ、踊りながら、動きで観客を楽しませながらやることは十分可能なのだから、そうするはずだ。

つまり、二人のダンサーはそれぞれのダンスカルチャーの規制を引き受けているが、作品としては、そのどちらにも属さない−−踊らない時間、日常的な時間を許容するコンテンポラリーダンスの美学によって構築されているのだ。

二人が掃けることで生じた長い間を挟んで、後半、砂連尾が掃除機を唸らせながら登場する。作品の冒頭では、舞台に細かく粉砕したゴム片によって砂絵のように十字を描かれていたのだが、それが前半の二人の大暴れでかなり舞台に散乱した状態になっている。だから、まるでダンスが終わった後、後片づけのために砂連尾が登場したかのような錯覚を一瞬与える。しかし、そんなことはあり得ないわけで、これもまたダンスの一部なのだと観客はすぐに悟る。日常的な時間とダンスの融合−−まさにコンテンポラリーダンスらしいと言える。

ダンス上演中における、日常的な時間とはなんだろうか? それは、ダンサーからダンスカルチャーの規制が外れた時間と言うことだ。こうした時間を許容するのは、コンテンポラリーダンスが「日常の身体」の規制のレベルでの身体が美学のベースになっているからだ。となれば、じゃれみさの舞台においては、砂連尾のモダンダンスの規制や寺田のバレエの規制は、それはもはやダンスカルチャーの規制というよりは、彼らが踊り始めた時にだけ現れる、いわば、「パーソナリティの規制」とも言うべきものに包含されていると見なせるだろう。この点こそ『パラディ(楽園)』のダンサーたちとの違いの要である。また、『パラディ(楽園)』的なやり方がジャンルを強化する方向なのに対して、じゃれみさは、引き受けてしまったダンスカルチャーを再確認し、それを咀嚼し解体する可能性へと開かれている。

ここで、「パーソナリティの規制」とは、個人的な身体の発達史、運動能力の獲得の歴史が与える規制のことを指す。パーソナリティを規制と呼ぶのは少し奇妙に響くかも知れないが、本人がそこから逃れようとしても逃れられないという点で、規制と言えるだろう。私たちは、遠くからやってくる人物を、その人物がよく知っている人間であれば、顔を見分ける前に歩き方で識別することが出来る。最近、バイオメトリクスの一手法として、"motion signature"による個人の識別が研究されている。個人の動いている様子をビデオに撮り、それをコンピュータで解析することで、その人固有の"general movement style"と呼ぶ数学的記述を導出することが出来るという。ひとたびその記述を得れば、その個人が任意の動作においてどのようにその行為を遂行するかが予測できるという(*3)。つまり、どんな振付を踊ろうと、その人の個人的な身体の発達史、運動能力の獲得の歴史によって決定された"general movement style"は彼を規制し続けることになるのだ。

体験の重層化が作るデュエット
では、この二人はどのように出会い、デュオを踊ることが出来るのか。『loves me, or loves me not』のポストトークで劇団「チェルフィッチュ」主宰の岡田利規が、「初日は客席の一番後ろから、二日目は最前列で見たけれど、初日は掃除機が登場する辺りを面白いと感じたが、二日目は作品の全部が面白かった」といった主旨の感想を述べていた。最前列からの鑑賞の利点として彼は、舞台に置かれていたバービー人形のディテールが見えてくることにより、それが“人形”という記号(彼は「意匠」という言葉を使った)にとどまらない存在として感じられたこと、また、最前列では音楽の聞こえてくる位置の違いが聞き取れた(スピーカーが舞台の左右の他、奥の方にも設置されていた)ことの二点を挙げていた。

私自身は二日目の公演のみを比較的舞台に近い位置(前から五、六列目くらい)で見ていたのだが、前の方で観ることの利点として、岡田の挙げた理由の他に、「視線の往復による体験の重層化」が挙げられると思う。後ろの方から観ると、小さな舞台で砂連尾理と寺田みさこが動いている光景の全体を、一つのものとして捉えることが出来る。彼らが互いに距離を取り、別様の動きに従事しているような時は、二人の動きを代わる代わるに注視しようとして視線が彼らの間を往復することになるかもしれないが、そうした場合においても、後ろから眺める観客にとって、彼らが別様の動きによって一つの舞台を作り上げているのだという感覚はブレることがない。

これが、前の方で観るとかなり事情が変わってくる。彼らに近づくことで、二人を交互に注視するために行わなければならない眼球の運動(時には首の運動)が大きくなるということもあるが、それ以上に重要なのは、砂連尾−寺田−自分(観客)を結ぶ三角形の膨らんでくることだ。客席の前方に陣取ると、砂連尾−自分、寺田−自分の二辺の長さが、砂連尾−寺田の辺の長さに近づいてくる。つまり、二人が一つの舞台を作り上げているという感覚に対して、砂連尾、寺田のそれぞれと自分との関係性が浮上してくるのだ。じゃれみさを観る場合、この三角形の三辺がそれぞれに生きてくることが、非常に重要になってくる。

二人が別々の踊りを踊っているシーンにおいては、観客はそれぞれをソロとして見ることから始まる。一つのシーンを見てみよう。寺田がバービー人形二体を手に踊っている。舞台の上には、前述の砂絵の十字が描かれており、彼女はその十字の交差点に立っている。二体の人形が天から振ってきた男女の人形であることを考えれば、彼女は少し巫女のようでもある(最後にこの人形は十字の交差点に埋葬される)が、深刻ぶることなく溌剌と動いている。空間を切るようにして四肢を外へ大きく開くような身振りから、いわばバレリーナ的イメージを感じとっている時、彼女と自分(観客)の距離は、彼女と砂連尾の距離よりも短くなっている。そして、この時に感じた彼女の身体イメージは、例えば、前半の終わり、掃ける前のシーンでは、彼女はウインナワルツに合わせて舞台の奥を左右に行き来しつつ(やはり人形を両手に持って)、グラン・ジュテのように飛び跳ねたりしながら、ぐっとおどけた感じで踊るのだが、そうしたまったく異なる雰囲気のシーンにおいても、当然のことながら連続性を保っており、彼女はソロにおいてつねにアイデンティティを保っている。

一方、砂連尾は、観客に背を向け、両足を揃えてジャンプしては、着地する時に、下ろした毛筆の先端が紙の上を滑って曲がるように、するりと足を滑らせて、横向きに床に倒れる−−という動作を反復している。その足首をくじきそうな動きにハラハラして見ている時、自分(観客)は砂連尾とともにある。こうして、寺田のソロと砂連尾のソロをまず個別に体験し、両者の間を視線を往き来させながら、自分の体内で二つのソロが重ね合わされてデュエットが生まれる−−すなわち「視線の往復による体験の重層化」こそが彼らのデュエットの第一の在り方なのである。

ところで、上述のシーンでもそうだが、砂連尾は一つのシーンを動作の反復で埋めることが多い。彼のしなやかとは言い難い動きの質と相まって、どこか労働を思わせる節がある。じゃれみさには、そうしたジェンダーに関わる連想を喚起させるところが多々あるのだが(*4)、はっきりとそれが前景化することはない。そうならないのは、おそらく彼らがジェンダーのプロブレマティックに向かって意識的に振付を構築しているからではなく、それぞれが自分の動きを振り付けた結果、自然に滲み出てきているからなのだろう。つまり、彼ら自身がジェンダーを引き受けていることの当然の帰結として、それが舞台に現れているのだ。

それでは砂連尾−寺田の辺が短くなっていった時、彼らはどのようなデュエットを踊るのか。一つは、前述した日常的時間における共同作業である。ここではダンスカルチャーの規制は解除されているので、衝突は生じない。それでは踊りの時間においては?

該当するシーンを考察する前に、その直前のシーンをみることから始めよう。先ほど、冒頭近くに現れる”待ちの時間”について触れたが、前半の舞台にはもう一箇所、“待ちの時間”が登場する。上述の“待ちの時間”が彼らの主体性をストレートに浮き上がらせたのに対して、もう一つの方は逆説的だ。寺田が床に寝ころんで、予め舞台の上に転がしてあった黒いハイヒールを履く。脚を振り上げて、今度はダンスらしく見せながらそれをやるのだが、どうも不必要に動作を反復しているように見える。砂連尾もまたシークエンスの無限ループに陥っており、いつでも止める準備は出来ている。やがて中南米フォルクローレが勢いよく鳴り出すと二人は舞台手前に置かれた椅子に駆けつけて座って踊り始める。彼らが「音きっかけ」を待って時間を持て余していたのは明白だ。けれども、このシーン転換から受けとめるべきものは、「ダメ出しポイント発見!」ではなく、音楽によって踊らされている事態の滑稽さであり、ダンサーとして生きる彼らの自己言及的な身振りである。言い方を変えれば、振付が「振付」という規制として彼らによって指し示されているのだ。

さて、彼らが椅子に座って踊り始める時、彼らは同じ音楽に合わせて、同じ意匠による振付を踊り始める。その踊りはモダンダンスと言って良いだろう。寺田が砂連尾に歩み寄った図である。もっとも、パリオペラ座バレエのエトワールだったピエトラガラだって、カロリン・カールソンの『ドンド・ルックバック』を踊ったりしたわけで、バレリーナがモダンダンスを踊ってもそれほど奇異ではない。このような二人でモダンダンスというパターンは少なくないが、これはデュエットとしては凡庸でつまらない。

第三のパターンとしては、一方が他方の補助役として関わるデュエットがある。砂絵の十字の箇所で、砂連尾が寺田を羽交い締めにして、二人羽織状態で踊るシーンや、砂連尾が舞台上手奥で、ベートーヴェンの『月光』ソナタ第1楽章に合わせて、小さくそっとゴーゴーを踊り、それに寺田がちょっかいを出すというシーン。しかし、これも主従がはっきりしているので、このままではあまり面白くない。このシーンの中で、双方の状態がもっと大きく揺らいだら良かったと思う。

一方が他方に歩み寄ったり、あるいは一方が主役になることで成立するのではなく、二者が異質なままに協働して一つのダンスを踊るのは存外に難しい−−これはじゃれみさの課題であろう。掃除という日常の時間から始めて、徐々に踊りへ移行しながら二人の相互干渉を試みたシーンは、この課題に対する一つのアプローチであったと見ることが出来るかも知れない。(2005年6月8日記,稲倉達)

(*1)朝日新聞6月3日夕刊「三島の小説素材に新作「禁色」伊藤キム」(戻る

(*2)『loves me, or loves me not』には、彼らがワークショップで学んだ日本舞踊が振付に取り入れられているが、日本舞踊の振りこそ引用しても、寺田みさこは自分が身につけたバレエの規制に逆らってまで、身体を日本舞踊の美意識に適応させるつもりのないことが、そのパフォーマンスからはっきりと窺える。彼女は自分の出自に十分に自覚的なのだ。
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(*3)2003年10月9日付けwww.nytimes.com, "Decoding the Subtle Dance of Ordinary Movements"(ANNE EISENBERG)。興味深いことに、この研究には、舞踊譜であるラバン・ノーテーションが活用されている。
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(*4)例えば、後半、砂連尾が業務用のごつい電気掃除機を持って登場し、寺田がクイックルワイパーを持って登場するといった差異にも、ジェンダーの反映を見ることが出来る。
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