勅使川原三郎『KAZAHANA 風花』――美学的基盤をシフトさせる勅使川原('05年5月15日)

2005年2月5日(土) 18:00 新国立劇場中劇場
構成・演出・振付・美術・衣装・照明:勅使川原三郎
選曲・演出助手:宮田佳
ダンスミストレス:佐東利穂子
出演:宮田佳、佐東利穂子、吉田梓、大野千里、ブリス・デソルト、ブルーノ・ペレ、クリストフ・ドッズィー、ホセ・ティラード、バスラフ・クーニェス 、ジュナイド・ジェマル・センディ

整備され隔離された時空の中で
『風花』を見ること−−それは、大空に舞う儚いものではなく、閉ざされた空間の中に蜻蛉のように立ち現れては消えていく、身体の幻影を眺めることだった。すべては勅使川原三郎の美意識によって隅々まで調整され、『Raji Packet II』(2002)の相撲シンガーや動物たちのような意図的に導入された異物や、『Luminous』(2001)のスチュアート・ジャクソンのような他者はどこにもいない・・・かのようだ。

かつて『真空』(1996)を見た熊倉敬聡は、KARASメンバーの身体が勅使川原の美学の犠牲体のように見えてきたと指摘して、「その美学的専制は、自らを突き詰めれば突き詰めるほど、「マニエリスム」へと(中略)自らを追い込んでいく危険性をはらんでいた」(*1)と書いた。『真空』はその危機を克服する兆しと見なされたが、『風花』ではその危惧が現実のものとなったのだろうか。

ダンサーたちへの美学的専制−−それは『風花』においては、第一に身体の外側から身体を閉じ込めるようにして現れていた。

舞台の前面に垂直に無数のロープが張られ、すべてのパフォーマンスはその向こうで行われる。ロープは見る上でほとんど邪魔にはならないが、客席と舞台の境界に空間的な仕切りのあることは、常に意識させられる。ロープの境界面は舞台の四方を囲み、いわば象徴的に閉鎖された空間の中でほとんどのパフォーマンスが行われる(ときおり奥のロープの後ろにもダンサーが立つが、それは結界の中での行われるパフォーマンスを彩る副次的なもの、という印象が強い)。

そして音楽も、コンピレーションアルバムでも聴いているかと錯覚に陥るほどに、シーン毎に整然と曲が並び、舞台上の時間の流れを、ロープのセノグラフィさながらに外部から隔離している。

照明はほとんど常に暗く、舞台全体が見渡せることは少なく、薄暗がりの中にダンサーの身体が浮かび上がるように調整される。上半身裸の男性の蠢く肉体が柔らかい光を受けて色彩を放つ。勅使川原ではお馴染みの単色のストレッチパンツのようなコスチューム(私は、勅使川原の美意識を高く評価するけれど、衣装だけは他の要素に比べて見劣りを感じることが多い)に身を包んだ身体が、スポットと感じさせないようなグラデーションを帯びた光の輪の中で飛び跳ねる。実に繊細に調節された照明。フォーサイスのような斬新さはないけれど、照明の調整の完璧主義には感嘆するばかりだ。

このように少しの破綻も許容する隙もないほどに整備され、隔離された時空の中で、ダンサーたちの身体は、シーン毎に現れては、ある形象を残して消えていくゾンビのように見えた。もう少し具体的に言えば、演出・美術・衣装・照明−−いうまでもなくすべて勅使川原本人がやっている−−のせいで、それぞれのシーンで踊り始めた身体が知覚されてから、それが誰が踊っているのか識別するのに少し時間を要するのだ。シーン毎に提示される特徴的な身体の動きが前景化して、誰が踊っているのかは、その背後に隠れてしまっているからだ(佐東利穂子の締めくくりのソロや、狂言廻し的に登場する宮田佳は別だが)。

暗くて見えにくかったという話ではない。身体は内側から(ただし表層において:後述)も閉じこめられていたから、誰か判別しにくいのだ。彼らはシーン毎に勅使川原が用意した身体イメージを提示する道具のようであった。身体イメージがシーンの中で変容しないという点で振付は静的であり、ダンサー間の相互作用もほとんど感じられなかった。一箇所、男性ダンサーが肩の小突き合ったり、拳法の構えで対峙するシーンもあったが、かえって、彼らが勅使川原の木偶であるという印象を強めた。(*a)

『風花』でこうした事態が先鋭化したのは、ダンサー編成の変化によるところが大きいと思う。ダンサー編成の変化とは、(1)作品を追うごとに数の減っていったKARASのキャラクターダンサーたちがついにすっかり居なくなってしまったこと(宮田佳がまだ居るが、彼女はもはやエコーのような存在だ)、(2)残された二人のKARASダンサー、佐東利穂子と吉田梓が『Raji Packet II』(2002)の頃までと比べて見違えるほどに勅使川原ダンスを見事に踊るようになったこと、そして、(3)残りはKARASメソッドで鍛え上げたダンサーではなく主にバレエでチューンナップされたダンサーたちによって占められていること、の3点だ。

おそらく、作品の制作事情(オリジナルはリール・オペラ座の制作)がこうしたダンサー編成の変化を促したのだろう。2000年にNDT1、2002年にジュネーヴ大劇場バレエ、2003年にパリ・オペラ座バレエと、近年、ヨーロッパのバレエ団で仕事のすることの多くなってきた勅使川原が選ぶべくして選んだ路線ということができるかもしれない。

端的に言えば、特権的な身体の芸術家から、質の高いダンサーを起用して自分の美意識を再現する振付家に変貌したということである。そして、この路線変更が、創作態度や作品の美学的基盤から、出自である日本のサブカルチャー的ダンスカルチャーの残滓をぬぐい去り、基盤を西洋のダンスカルチャー(即ちバレエ)へと彼を押しやろうとしてる、というのが『風花』にみる現状ではないか。しかし、この移行は成功するのか? 彼の美意識と美学的基盤の間に齟齬はないのか?

身体の規制から着脱可能な「振付」へ
今回の舞台を目の当たりにして、その美的完成度に驚くと同時に、笑い出したくなるような感覚も覚えた。それは、私が上述の事態に対応できず、勅使川原のダンスと彼の身体を分離して考えることができなかったからだと思う。

勅使川原の振付は極めてオリジナリティが高い。彼の振付はしばしば、身体のある部位から起こった波が身体の他の部位へ伝搬していくようなイリュージョンを生む。その時、媒質としての身体は鋼のように硬くなったりゴムのように柔らかくなったり自在に変化する。こうした動きを実現させる彼の身体感覚の独特さは、まるで四肢の関節を動かすのと同じ運動感覚を、脊椎の可動部分にまで適応しているような印象を与える。ダンサーの胴体は節足動物のそれのように蠢き、バレエなどでは決してみられない表情を見せる。要するに、彼の振付に現れている身体観は、バレエのそれとはまったく異質なのだ。そして、この身体観のユニークさを彼自身の身体を通してのみ目撃してきた者にとって、彼の振付と彼自身の身体は不可分のものであった。

これまでの作品でも、KARASダンサーたちが勅使川原の振付で踊っていたのだが、彼らに与えられた振付は限定的なものだった。その理由は、勅使川原自身がメインダンサーであったためもあろうが、ダンサーたちの方でも彼の要求に充分には応えられなかったという現実もあったのではないかと推察する。ともあれ、「カリスマ的な身体とその影響下にあるその他の身体たち」という図がこれまでの舞台だった。

しかし、今回は違った。ダンサーたちは、従来なら勅使川原が自分用に確保しておいた振付までを分け与えられ、それらを見事に踊りきっていた。私は、そのことに感嘆したのだが、同時に、頭の中で彼の振付と彼の身体を分離することに失敗してしまい、彼らが見事に踊れば踊るほど、何か複製を見ているような気持になった。その複製はオリジナルとは材質のまったく異なる原料を無理矢理鋳型に流し込んで作ったのに、それでいて精度の高い再現性を獲得しているという、まことに不思議な複製である。しかも、複製はたくさんいる。唯一無二の身体であったはずの「勅使川原」が、数体の複製に分身して舞台の上でせめぎ合ったり、ユニゾンを演じたりしているのだ−−この曰く言い難い違和感が、湧き上がってくる可笑しさの原因だった。

ダンサーたちが勅使川原の複製として見えることと、彼ら自身の身体との間には齟齬がある。胴長で頭の大きい勅使川原と、クリストフ・ドッズィーやブルーノ・ペレといった西洋人ダンサーのプロポーションの違いは明らかだ。そして、胴体に対する感覚。彼らの身体の外観と動きの質はバレエ的な美に奉仕しているのに、彼らはその身体を使って、バレエのそれとはまったく異なる身体観に基づく勅使川原の振付を見事に踊ってしまっている。

こうした『風花』の上演が観客に再認識させるのは、いかに優れたダンサーであっても、短期間のレッスンでは超えられない壁があるということだ。この壁は、年月を掛けて身体を調教していくことによってしか超えられない。伝統あるバレエ団なら、そのバレエ団の伝統をダンサーが体得するということ(マリインスキー劇場ならマリインスキー劇場らしい、英国ロイヤルなら英国ロイヤルらしいダンサーとなること)がこれに当たる。こうしたバレエ団間の差異は、やはり容易には超えられないのだが、大枠において同じバレエ文化を共有しているので、それほど強い違和感は生まない。これに対して、勅使川原のダンスは根本から違うのだ。

ここで、振り付けられたダンスを踊る身体を、幾重もの規制によって形成された身体として捉える見方を導入するなら、その最も表面の層に位置するのが「振付」であり、その下に上述の壁−−これを仮に、身体に働くダンスカルチャーの規制と呼んでおこう−−があると言えるだろう。この見方で言えば、『風花』の男性ダンサーたちの第一の問題は、この二つの規制の層における齟齬である(*2)。さらに、規制の階層の最下層には、身体そのものの物理的差異が架する規制があるわけだが、第二の問題は、この規制−−つまり前述した彼らのプロポーション−−と「振付」の齟齬であると言えるだろう。

身体の規制の表層をかりそめに覆おう「振付」。勅使川原の戦略は、彼が自分の身体によって練り上げてきたダンスを、そのような「振付」に変換した。バレエダンサーが自由に着脱できる衣装のようなものになった彼のダンスは、果たして今後どれほどの可能性を持つことになったのか、また寿命はどのくらいになったのか? おそらくそれは、彼の美意識がいつまで人々に新鮮さな驚きを与え続けることができるかに掛かっているだろう。そしてもし彼がマニエリスムを実践し続けるなら、彼のダンスはたちまち消費されてしまうだろう。(2005年5月15日記,稲倉達)

(*1)熊倉敬聡「勅使川原の新作『真空』─彼は“移動”を始めたのか?」戻る

(*2)こうした事態は、伝統をもたないコンテンポラリー・ダンスの世界ではごくありふれた出来事だ。突出した才能をもつ振付家は自分の身体からユニークなダンスを紡ぎ出すことができるが、それを他のダンサーに踊らせようとした時に問題が生じる。彼(彼女)が自分の訓練メソッドを用いて独自に身体感覚を育成した手兵のダンサーがいればよいが、いなければ余所からダンサーを連れてくるしかない。勅使川原はKARASというグループで独自のメソッドでワークショップを20年以上行ってきているが、自分の手兵を育成するのに成功しているとは言い難い。今回の舞台で、KARASのワークショップ出身のダンサーは佐東と吉田しかいないという事実がそのことを物語っている。それゆえに、今回のような、見方によっては複製的ともいえる身体が群れる舞台が生まれることになった−−そう考えることも出来るだろう。
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(*a)この1パラグラフは5月17日に追加された。読んだ人からの私信で「暗くて見えにくかったという話」に読めてしまうと気づいたからである。
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