日常まったり機械(チェルフィッチュ)

8月23日、新宿パークタワーホールで「We Love Dance Festival 東西バトルAプロ」を見た。一番ウケたのは、まことクラヴ [ ニッポニアニッポン ] だったかもしれないが、初めて見たチェルフィッチュ [ クーラー ] が一番興味深かった。ばかばかしくて笑えて、それでいて自分の中に潜んでいる感覚にダイレクトに接続されるような怖さがある。

先週はたまたまアテネオリンピックと重なって、精密機械としての人間の凄さを見せつけられた日々だったのだけど、普通の人間の日常的な行動も、突き放した視線で改めて観察すれば、そこには人間の機械っぽさがそこら中に現れているのだろうな−−[ クーラー ] で流れ続けるシーンに似つかわしくない大袈裟なクラシック音楽が、そうした視線の在り方を誘導する。機械的という意味は、学習したことを無自覚に反復しつつ活動しているということ。会話しながら人々が行う無意識的な動作をやたらオーバーにして、しかも特定のフレーズに特定の動作を固定的に対応させる。そして、一組の男女の登場人物が、互いに自分の話題(女性はオフィスのクーラーの設定温度、男性は日曜日朝のTVの討論番組)を間欠的に反復し続ける。

そんな光景を20分も見せられていると、「外界にいちいち反応したり、他者をおもんぱかって行動するよりも、自分が身につけてしまったことを反復している方が楽だし、おそらく迂回せずに快につながるよな」という、確かに自分の中にもある怖い感覚が浮上してくる。たぶんそれは人間が本来的に持っている危うい面であり、そういう面(セルフィッシュな感覚?)がじわじわと顕著になってきていることへの演劇的レスポンスではないか。バカバカしいだけで済ませられない公演だと思った。

途中、ポーズを取る女性だけにスポットライトが当たり、男性が影で腕の動きを反復するシーンがある。これが、当日チラシに書かれている「ほんの一瞬ではあるがはっきりとしたダンスでもある」という部分なのだろうか。ぼくはあのシーンは蛇足だったように思う。だいたい、あの公演をダンスとして評価することには、何か積極的意味があるとは思えなかった。やっている方も、別にダンスであることに拘るものではないだろう。たまたま、いまナンデモアリ状況が生まれているために、「We Love Dance Festival」の企画に混ざることになったパフォーマンスだと思う。

ダンスということでいえば、[ クーラー ] [ ニッポニアニッポン ] の間あたりに、なにか新しいダンス領域がありそうな気がした。[ ニッポニアニッポン ] は、日常的な行動がだんだんオーバーになっていき所謂「ダンス」になるという、コンテンポラリーではお馴染みのパターン。[ クーラー ] では、日常の無意識的な動作が強調されている点と、それがオーバーになった後で「ダンス」へ回収されてしまわない点がお馴染みのパターンから外れている。そこで、[ クーラー ] 的な「日常まったり機械」的状態から始まって、[ ニッポニアニッポン ] のように「ダンス」へ回収はされることなく、しかしどうみても踊っているのではないか?と思える状態−−機械的反復ではなく外界へ開かれた回路をもちつつ、主体と非主体の狭間にいるような状態?へとシフトできたら、それは凄く微妙で面白いものになりえるかもしれない。と言うのは、踊っている人には必ず機械的側面がつきまとい、それが日常以上に強調される状態でもあると思うが、同時にそういう状態を越えなければ踊りとして駄目なんじゃないか、と思っているので、そういう意味で、[ クーラー ] [ ニッポニアニッポン ] の間は「凄く微妙で面白い」と思うのだ。ただし、それはおそらくチェルフィッチュのやりたいこととは相反してしまうのだろうけれど。

蛇足。Aプロはこのほか、岡山のズンチャチャと大阪の北村成美の公演があった。ズンチャチャは技術不要論という点で面白くなりうると思うのだけど、テーマが「夏休みへのノスタルジー」というのはあまりに情けない。北村成美は、ツボにハマル人はハマルみたいだけど、ぼくは全然ダメ。Bプロは所用で見られず。