『シンセミア』の気持ち悪さ(1)

2週間前に書いた記事で、阿部和重の小説シンセミアについて書いたけれど、あの小説の気持ち悪い読後感はいまだに続いている。あの記事では、鐘下辰男の芝居[ 現代能楽集II 求塚 ] との対比で、「日本の戦後史の縮図」という取り上げ方をしたのだが、おそらくあの小説の重要性はそういうところにはないのだろう。少なくとも自分にとっては、このボディーブローのように効いてくる気持ち悪さにこそが、『シンセミア』体験の意味だと思うようになった。

あの小説の読書体験というものは、「日本の戦後史の縮図」というような予め掲げられた枠組みを頭の隅に置きながらも、その大部分の時間は、倫理観の欠片もないような青年団のメンバーたちが盗撮行為をしてはその映像を鑑賞しあって愉しんだり、リーダー格が女教師を恐喝してポルノ映画まがいのドロドロの性的関係に追い込んだり、主婦がコカインに溺れたり、ロリコン警官が女子小学生に目を付けていびつな妄想を膨らませたり、といったウンザリするようなエピソードを果てしなく読んでいく体験である。だから、途中で投げ出したくなったことは一度や二度ではないが、それでも、「ただこんな話を読ませるために書かれた小説ではないはずだ」という判断を信じて、最後まで読み続けたのだった。冒頭で「日本の戦後史の縮図」的な枠組みが与えられていなかったら、おそらく挫けてしまっただろう。

しかし、あの人を食ったような最後のオチ(そういえばインディヴィジュアル・プロジェクションもそうだった!)まで読み終わってみて、この小説が、ここまで長くなければいけない理由は何なのか、どうしてあのようなエピソードを延々と読まなければいけなかったのか−−そういう疑問というか、淀みのような思いがあとに残る。そして、その意味をいま、延々と尾を引く気持ち悪さとして私は味わっているのだと思う。

気持ち悪さの最大の理由は、たぶん文体(あるいは語り手の素性というべきか)にある。上に紹介したような内容がどのような文体で書かれているのか。適切な引用じゃないかも知れないが、極端な例として挙げるならこんな文章だ。

中でもとりわけ極端な驚駭(きょうがい)を示したのは、松尾園子だった−−生気を欠いた園子の面立ちは、唯一無二の崇拝の対象とでも出会(でくわ)したみたいに畏懼(いく)の相貌へと変わってゆき、さらには全身全霊を捧げる心算(しんざん)でいるかのごとく、赤く輝く鉱石の存する上方に両手を高々と差し出して、彼女は嗚咽を漏らし始めたのだ。(下p.256)
やたら硬い熟語が多いことに気づくと思う。多いだけではなく、これらの「驚駭」だの「畏懼」だの「相貌」だのといった言葉がもっているイメージ(辞書的意味ではなくニュアンスのようなもの)が、語られている内容に全然そぐわないのだ。

言葉のイメージは、「相貌」なら「相貌」という言葉に、これまでにどんな文章の中で出会ってきたかで形成されるのだろうが、阿部の小説は、少なくとも私にとって、これまで「相貌」という言葉に出会ってきた文章群とはまったく異質のものだ。ここでは、言葉が、その言葉の使われ方の履歴に対する配慮なしに、単に辞書に書かれた意味程度のことだけを指示する記号として取り扱われている。そのような言葉の使われ方が私にとってまず気持ち悪かった。

でも、この小説を読んでそんな風に思うのは、私が知らないだけで、官能小説なんかではこんなのはすでに当たり前なのかも知れない。それに、この「言葉の履歴の切断」の問題は程度問題で、私自身がものを書いているときにもある程度当てはまっているのだろう。ただ、『シンセミア』ではそれが意図的に極端に行われているのだ。読者が、その切断の不気味さに気づかずにはいられないように。

いや、不気味さが意図されているのかどうかははなはだ怪しい。むしろ、「これがいまや当たり前だ」という感覚が阿部に言葉に対するこのような態度を選ばせているのかもしれない。というのは、彼がこの小説を書いている頃に東浩紀と行った対談(東浩紀『不過視なものの世界』に収録)で話題にしている映画やアニメの世界で起こっている現象(東はのちにそれを物語消費からデータベース消費へのシフトと表現する)が、言葉に対する阿部のこのような態度とパラレルであるように見えるからだ。そうだとすれば、すでにこのような感覚は世界的に蔓延しつつあるのであり、それを不気味に感じるのは、少し古い感覚の持ち主なのかもしれない・・・

辞書とはすなわちデータベースであり、言葉が辞書と文法で成り立っているのなら、この事態は言葉の本質的に根差す姿であろう。だが、人は言葉をそのようには学んでこなかったし、使ってもこなかった・・・・・・ここには若者の言語感覚やコミュニケーションのことなど、色々な問題が関連してくるように思うけれど、今はこの問題はおくことにして、それよりも『シンセミア』の気持ち悪さについて、もう少し続けて書いてみたい。