『シンセミア』(2)−−枠組みと読書体験

前の記事の続き。
シンセミアでは、単語は辞書から取り出された履歴をもたない記号のように無表情であり、言い回しは語り手自身によって使い込まれたものというよりクリシェのリストから意識的に選ばれたかのようだ。だから、読者は語りから語り手の生きた存在を察知することができなくなる。まるで、マニュアルでお目にかかるたぐいの文章にも似た手応えのなさだ。言葉から語り手の身体性が消失しているのだ。

小説では、田宮家の三代目が上京した際に、渋谷の文化村通りをトラックが暴走して、多数の礫死体が道路に散乱する事件に遭遇する。彼にはこのすざまじい暴力の光景がトラウマとなって後々まで尾を引いてしまうのだが、実際にそんな場面に遭遇したら、誰でもPTSDを発症することだろう。ところが、このくだりを読んでいて、確かに記述されている内容は阿鼻地獄であろうという理解は得るのだが、ちょうど「阿鼻地獄」という言葉が今日多くの人に特になんの具体的イメージも呼び起こさないように、その場面の陰惨さが胸に迫ってくるというようなことにはならなかった。語り手の言葉に、私の身体的に反応するような共感性が欠落しているからだろう。それは感情と結びつかない単なる情報に留まっている。

この点で、阿部の文体はブレヒトの異化効果にも似た作用をもっている。けれども、ブレヒトがそれによって観客に劇内容に対する批判的な見方を促したのに対して、阿部の文体は、内容に対する無関心へと誘う。

それにしても、この小説では、次にどんな酷いことが起ころうと無感動に読めてしまう。次の一行で神町の町民が全員死ぬような事態が発生しても、「ああそうなの」という感じ。そして実際、酷いことばかりが起こって、それを淡々と読み続けるという体験が続くのである。しかも、実世界で生きていく上で必要なニュース報道をマスメディアから受け取る行為とは違って、小説を読む行為は基本的に不必要であり、いつ放棄しても構わないことを自分が好きでやっているのだから、始末が悪い。

陰惨な出来事が次々とマニュアル的な文体で没価値的な情報として垂れ流されている−−そういう事態に自分から関与して、その退屈さに耐えつつ自身を慣らしていく。『シンセミア』の読書体験とは、そういうものであり、これがこの小説の書かれた意味なのだと思った。この体験の後味の悪さと、小説が提示する「日本の戦後史の縮図」という枠組みを重ね合わせて考えるべきなのかもしれない。すなわち、読書体験がそのまま私たちの現在の隠喩だという風に。ただし、枠組みと読書体験の間には論理的な関係は存在しないのであり、それを結びつける判断は読者自身が行うことだ。

ところで、これまで、小説の文章について、語り手の身体性を欠いたマニュアル的文体と評してきたが、それは大ざっぱな評で、より詳しく見ていくと、そうとは言い切れない部分がある。そこには阿部がこの小説に込めた読者への悪意が滲んでいるようで、ますます気持ち悪いのだ。その辺が、この小説が「シンセミア」(種なし大麻のこと。効果の強いマリファナを意味する)と呼ばれる理由でもあるのだろう。