『シンセミア』(3)−−悪意の「読書モデル」

シンセミアは最後まで正体を明かさない語り手によって、基本的に三人称で語られている。無論、三人称で書かれた小説の常套手法である、登場人物の意識が入り込む部分(独白的な部分。”一人称化”している部分)は随所にある。これまで2回の記事で議論してきたのは、それ以外の地(じ)の語りの部分についてだった。しかし、この地の部分でも、その語りには、まるで登場人物に感化されたかのように、彼らの言語が入り交じっている。

例えば、「都心では様々な未知の興奮材料が絶えず供給されまくっていることは、日々のあらゆるマスメディアが報じており、それを知らんぷりしていられるほどの長閑(のどか)さなど彼らは持ち合わせていなかった」(上p.67)。また、「執拗に『バーン!』と言い続ける少年の目付きは、一人ぐらいは殺(や)ってそうな雰囲気を漂わせており、かなりのやばさを感じとらせた」(上p.204)、「隈元光博は、ショベル・ローダーの側面に手を着かせて屈むような体勢で彩香を立たせて、背後から彼女の尻を掴み、マンコにチンコを挿入してゆっくりと腰を前後に動かした」(上p.342)といった具合だ。

さらには、語り手の言語だけでなく、発想までが登場人物と同じになる箇所もある。一番顕著なのは次のくだりだろう。「強い欲求と執念が、彼の脳裏に一つの勇ましき妄想を生み出していた−−笠谷保宏はすなわち、ロボット戦隊フィスト・ファックなのだった」(上p.74)。フィスト・ファックへの固執を子ども向けTV番組のタイトルになぞらえて表現するという、笠谷本人なら思いつきそうな駄洒落を語り手自らが披露している。また、次のくだりは、語り手が登場人物たちと同じような思考の持ち主ではないかと疑わせる。「ある程度は裏社会での経験を積んだ身でありながら、三沢次郎は、自らの発言を活かす機会を悉(ことごと)く見誤っていたのだ。そんな男だから、一攫千金の好機もみすみす取り逃がしてしまうというわけだ」(下p.142)。

超越的地位から身体性を欠いた言葉で物語を語る語り手が、時折、このように登場人物たちの身体を我が身に纏おうとするのだ。一体、この語り手は何者なのか−−そういえば、語り手の正体は、インディヴィジュアル・プロジェクションでは重要なポイントであった。

実は、語り手の素性を考える上で気になる箇所が小説の始めの方に一箇所だけある。序章にあたる「田宮家の歴史」の中で、「・・・フィルが言うには、上空から見下ろすとまるでそこだけが空洞になっているかのような状態だという話だった。フィルというのは、駐留基地にて田宮仁が特に親しくしていたアメリカ人兵士の一人だ」(上p.15)というくだりがある。

単にフィルが語った内容を読者に伝えることが目的であれば、このような書き方をする必要はない。フィルを読者に紹介する意図があるのかとも思い、名前を記憶に止めながら読み進めると、なんとフィル二度と登場しない。であれば、ここでは語り手と田宮仁との関係が仄めかされていると考えるのが普通だろう。しかし、語り手は最後まで正体を現さない。

なぜフィルはファーストネームで語られるのか? この小説の文体の特徴の一つに、主語が繰り返しフルネームで登場するという点が挙げられるくらいなのに。センテンスごとに「笠谷保宏は・・・」とフルネームを繰り返すような書き方は、従来の日本文学の感覚ではない。なるべくそうした繰り返しは避けるのが普通だ。

あるいは、語り手は全知全能の存在ではなく、物語の時点よりもずっと後になって、自分が伝聞した「神町サーガ」を語り直している存在なのかも知れない(新聞配達人・星谷影生の末裔?)。この部分がサーガ的様相を文章に与えているということは出来るだろう。しかし、フィルについては田宮仁の証言を情報源とするしかなかったのに、他の諸々のことについては、各登場人物の心の奥底までそれこそ神の如く知り尽くしているというのも奇妙である。

また、論理的には語り手が登場人物の誰か−−たとえば、最後に登場する「阿部和重」であることも可能だろう。彼が知り得ないところは、彼がねつ造したフィクションだと見なせばいいのだ。しかし、そうした解釈は、この小説に対して何ら有効な視点をもたらさない。『シンセミア』は、『インディヴィジュアル・プロジェクション』とは同じレベルで捉えられるべき小説ではないのだ。

シンセミア』の語り手の素性は、小説世界内にではなく、むしろ外に求められるべきではないか。

読者は、おそらく登場人物の誰にも共感できないだろう(エキサイトブックス「阿部和重ロングインタビュー」のインタビュアーも阿部を前にそう告白している)。しかし、登場人物たちの欲望になら、身を沿わせることができるようになる。前に、この小説の読書体験は、「陰惨な出来事が次々とマニュアル的な文体で没価値的な情報として垂れ流されている−−そういう事態に自分から関与して、その退屈さに耐えつつ自身を慣らしていく」体験であると書いた。慣らしたのちに、あるいは慣らす過程でやってくるのは、登場人物の人格は度外視しつつ、彼らの欲望への局面的な共鳴である。早い話が、この小説をエログロ趣味の娯楽として読むということだ。

陰惨な出来事の連鎖を情報として没価値的に受信しつつ、登場人物たちの欲望の発動に局面的に身を沿わせる−−そのような読者のスタンスのあり方を、読者に対して自ら規範となって示しているのが、語り手なのではないか。つまり、語り手は著者によって提示された「読者モデル」であるというわけだ。

これが小説に込められた阿部の悪意でなくてなんであろう。小説を読み終えた者は、阿部の「これがお前だ」という「読者モデル」の提示を完全には退けられないだろう。なんにせよ、その者は、あの長大な物語を最後まで読み終えているからだ。「最初は嫌々でも、最後まで付き合ったんだから、お前だって、少しは楽しんだんだろう?」というわけだ(まるで神町青年団のメンバーが言いそうなセリフではないか)。そして、哀れな読者には、この「読者モデル」が『シンセミア』にだけでなく、マスコミを通じて日々受け取っている「陰惨な出来事の連鎖」に対しても適応できるのではないか、という問いが待っている。

実際、マスコミの供給するニュースに対して、暗い欲望を暴発させる者たちは確実に存在しているのだ。例えば、イラクで人質になった3人に匿名の攻撃を仕掛けるような人々のことだ。彼らはなんのためにそのような行為に及ぶのか。署名入りで言論を掲げるのならともかく、彼らの目的は社会正義ではありえず、自身のうっぷんを晴らすはけ口を求めてやっているとしか思えない。こうした行為に及ぶのは突出した人々だとしても、彼らの裾野には、マスコミの供給するニュースを消費しながら、その中に自らの欲望を重ね合わせることができるような素材をたえず探しているような人々が無数に存在しているのではないか。そして、そのことを知っていて、意図的にエサを与えようとする人々がいて、マスコミはそれがなんであれ、商品価値の高いものを売る。マスコミに限らず、Webメディアに氾濫する言説も同じだろう。それがどんな出来事であれ、マスコミと人々は、それを消費の対象として扱い、すぐに忘れ去る。

保坂和志は「小説とは本質的に『読む時間』のことだ」と言っているが、『シンセミア』は物語の内容よりも、むしろ読む時間を通してこそ、上に述べたような状況に対する批判を提出しているのだと思う。『シンセミア』は、おそらくその版元がどこであるかということまで含めて、それ自体が批判対象のカリカチュアとなるような形で提示された全方位で悪意に満ちたオブジェなのだ。