ステファンとカミーユ(『愛を弾く女』)

un coeur en hiver [ 愛を弾く女 ] (1992) という映画を見た。エマニュエル・ベアールが出るクロード・ソーテ監督のフランス映画だ。2人の全く異質な男女が出会い、互いの美徳に魅せられながらも、違いすぎてうまくいかない。一言で言えば、この映画はそういう話だろう。主人公の男性がもっている傾向が、自分に似ている面があったので、とても興味深かった。

”外科医”の異名をもつ楽器製作者のステファン(ダニエル・オートゥイユ)は、工房に自分の世界をもっている。その世界に籠もって自分の技量を発揮する時間が彼の幸せだ。自分が一つの卓越した技術をもっていて、その技術によって社会が自分の価値を認め、それで生計が立てられるなら、その他の諸々のことにわずらわされるのを好まない。だからずっと独身を通して、恋人も持たない。彼を暖かく見守る父親のような老師ラショーム(モーリス・ガレル)と、異性であることを意識せずになんでも話せる兄弟のようなエレーヌ(エリザベート・ブリジーヌ)。この2人との交流があれば十分だと思っているから、ホームパーティーの席でも愛想がない。一緒に楽器工房を営み、仕事以外にも定期的にスカッシュをして遊んだりもする中であるマクシム(アンドレ・デュソリエ)についても、彼は友人ではなくプライベートを干渉し合わない仕事上のパートナーに過ぎないと言い切る。

愛について、「書かれたものは美しい」と限定する彼は、恋愛を賛美する用意はあっても、それに巻き込まれて観察者のポジションを危うくするのは趣味ではない。音楽についても、それは身を委ねるものではなく、宝石の美しさに見入ったり、精密機械の作りの見事さに感嘆したりするように、あくまでも観察者のポジションから楽しむものなのだろう。おそらく、美しい女性−−即ち、ヴァイオリン奏者のカミーユ(ベアール)に対してもそうなのだと思う。雨の中、レコード録音の合間に彼女に誘われて入ったカフェ。そこで彼はカミーユを黙って見つめた後で彼女に告げる−−「君が話しているところを見ていたい」。この言葉を彼は意識の上では文字通り意味で発したのだったと思う。当然のことだが、カミーユは彼の言葉をもっと特別なメッセージとして受け止めたのだが。

カミーユは体当たりの人である。一旦、好きだと思ったら、そして相手も同じ気持ちだろうと確信したら、ろくろくデートもしない内に、もじもじしている男性に「抱いて」と単刀直入に迫る。彼女は自分の感情を抑えない。2カ月前に知り合って恋人になったばかりの男性マクシムという存在があろうが、新しい対象が恋人の友人(マクシムはステファンをそう捉えている)であろうが、躊躇わない。自分の直感に従ってどんどん男と寝るタイプで、傷つきやすい癖に傷つくことを恐れない。

音楽に対しても観察者ステファンと違って、彼女は自身を音楽に委ね、その内側に入って自身が音楽そのものとなって生きるような、そうした深い関わり方をする人間だ。だから、彼女に掛かるとつまらないフレーズも生気に満ちたものになるのだ。このように、ステファンとカミーユは他者や音楽に対して全く対照的な態度を示す人間だ。

ところが、彼らには似たところもある。どちらも自分の内面を満たすことにプライオリティをもって生きている人間で、他人に自分の世界を多くは語らない。そうした点において、社交的に生き生きと活動するマクシムとの比較では、2人は似たもの同士と言え、互いの一面的ではあるが鋭い理解者でもある。ステファンは「彼女は言葉では語らず、演奏で感情を表現する」とカミーユの特質を見抜いて好ましく思う。彼女はステファンの音に対する繊細さと厳格な態度に、自分にはない美徳を見出し、魅了されてしまう。観察者だからこそ見抜くカミーユの美徳、体験至上主義者だからこそ魅了されるステファンの美徳−−彼らはマクシムの頭越しに、マクシムのような人物には到底感じることの出来ない特別な引力を感じ合っていた。

しかし、ステファンは、マクシムに対してもそうだが、自分自身の感情がなかなか分からない男なのである。彼がマクシムのことを「互いに利用し合っているだけの仕事上のパートナーに過ぎない」と言っても、心の底からそう思っているわけではない。現に、ステファンがカミーユとの出会いを2カ月間も黙っていたことがわかったとき、彼はそれを不満に思う。前述の「君が話しているところを見ていたい」も、彼のつもりは文字通りであっても、彼自身すら認めていない感情は彼女を求めていたのだ。ステファンのカミーユに対する思いは、むしろマクシムの方が良くわかっているくらいだ。彼は自分がこれからカミーユと住むために改装させているアパートの部屋にステファンを招いた時に、彼の様子からそれを見抜いた。

一方、カミーユと言えば、自分の気持ちが分からないなどという状態がありうることすら理解できないようなタイプの女性である。だから、彼女はステファンを理解できず、彼を困らせ、結果的に自身も深く傷ついてしまう。

激しい決裂を経ての8カ月半後の再会。このラストシーンに対する解釈は意見の分かれるところだろう。断絶の期間に、2人の共通の音楽教師であったラショームが死んだ。カミーユが「ラショームを愛していたの?」と訊くと、ステファンは「彼しか愛せないと思った」と答える。この後に続く秘された言葉は、「だが、今は違う。君を愛せると分かったから」なのか。それとも、「けれども、その彼ももはや居ない」なのか。仮に前者だとしても、カミーユの方はステファンをどう思っているのか。

妻に言わせれば、この映画は2人の恋愛の序章部分を描いたものなのだという。ステファンもようやく自分の真の感情を自覚し、恋愛を進展させる準備が整った。彼はもともとこういうことに時間の掛かる男で、別に今回の出来事で生き方を変えたとか、そういうことではない−−この解釈にはある種のリアリティを感じる。そして、最後のショットが与える印象は、この解釈を採用すると他の解釈とはぐっと違ったものになる。最後のショットは、カミーユとマクシムを見送った後、カフェに一人座って物思いにふけるステファンを窓越しに捉える。彼があくまでも自分流を貫く不敵な男に見える。カミーユは屈した。マクシムは哀れな男だ。カフェの窓ガラスの向こう側で悠然と座るステファン−−誰も彼に干渉して生き方を変えさせたりすることなど出来ないのだ。

反対の解釈も成り立つだろう。恋愛は終わったのであり、8カ月半前に2人の間に起こったことを、2人とも過去のものとして受け止めているという解釈だ。共に傷は癒えて、互いに相手に対して冷静になれて、そして以前より相手に対する理解が深まったので、寛容な気持ちになっている。マクシムがステファンに対して示す驚くほどの寛容さを、今や2人も互いに対して持てるようになったというわけだ。果たして、どちらの解釈が正しいのか。ラストショットのステファンの表情は微妙だ(個人的な事情で恐縮だが、10年近く前にTVから録画したビデオテープで見たので、解像度も悪く、余計に判断しにくかった)。

ところで、映画の中盤でカミーユはステファンに対して、「貴方のような空虚な人間に音楽が分かるわけがない」というような態度を取る。体験至上主義者カミーユらしい考え方である。ジャンルを問わず、「人生経験を積まなければ、芸術はわからない」といった言説を耳にすることは少なくない。しかし、それは嘘だろう。もしそうだったら、モーツァルトをはじめとする神童と呼ばれる芸術家たちをどう説明するのか。カミーユ的人間にはカミーユ的な芸術世界が、ステファン的人間にはステファン的な芸術世界が存在するのであり、ステファンの芸術の愛し方を否定することは誰にも許されないはずだ。

この映画でカミーユラヴェルばかり演奏するのだが、ラヴェルはむしろステファン的な人間だった可能性があると思う(いい加減な推理でしかないが)。そうだとすれば、ラヴェルの曲(ヴァイオリンソナタ、ヴァイオリンとチェロのソナタ、ピアノトリオ)を集めたアルバムに取り組んでいるカミーユが、ステファンに出会って、たちまち彼に魅せられるのは、極めて納得できる展開だ。しかし、結局、彼女はラヴェル自身になることはできない。彼女流のラヴェルを弾くしかないのだ。演奏者とはそういうものだ。ラストの解釈にもよるが、この映画に彼女がそのことを学ぶプロセスを見ることも出来るような気がする。それにしても、演奏シーンを演じるベアールは見事だ。当て振りには見えない。この人は本当にヴァイオリンがうまいのじゃないかと思ってしまう。

映画の原題は邦題とは全く違う。"Un Coeur en Hiver" (A Heart in Winter) 。「冬の心」は、カミーユ側に立ったステファンの表現であろう(彼は彼なりに充足していて、自分では冬だなどと思っていないのではないか)。そして、映画自体もカミーユ側に立っていて、「世の中にはこういう男もいるのだ」とオブジェのようにステファンを指し示しているように思われる。映画の導入部ではステファン側に立っているのだが、最後まで見ていくと、そう思わざるを得ない。

映画は最初、ステファンが自分とマクシムを紹介するナレーションで始まる。だから、これから見るものは、彼の目を通して眺めた世界なのではないか、と期待するのだが、その期待は痛烈に裏切られる。彼はそれ以降、観客に対してまったく口を閉ざしてしまうのだ。その一方で、他の登場人物たちは互いに「え、そこまでズバズバ言うか?」と思うくらい自分の思うところを率直に語り合う。そして、彼らは互いを非常によく理解し合っている。マネージャー役のレジーヌ(ブリジット・カティヨン)とカミーユはケンカをするけれど、それは不理解ということではなく、互いのことをよく分かった上でただ感情的に抑えられないだけだ。

少ない登場人物たちによるこうした以心伝心的関係によって、映画は息苦しいほどの密室的空気を感じさせる。その中にあって、ただステファンだけが、自分を語らず、周囲から不可解な人物として浮いていく。観客も彼自身の内面については勝手に想像するよりほかなくなる。そして、彼の一人浮いたイメージは、前述のラストショット−−カフェで一人孤独に座っている彼の姿へとそのまま凝縮されて、映画は終わるのだ。ステファンの内面からスタートしながら、映画はすぐに彼を外から眺めるようになり、どんどん心理的には彼から引いていき、最後に置いてきぼりを食らわせるように終わるという演出で作られているのだ。多少なりともステファンにシンパシーを感じた男性(私のことだが)が、見終わった後もこの映画が後を引くように気になってしまうのは、この演出のせいだろう。

偶然、エニアグラムを踏まえたこの映画の分析を見つけた。エニアグラムはその公理を信じることは保留にしたいが、人物を包括的に理解するときの助けにはなると思う。エニアグラム的に言うと、私にはタイプ5的要素があり、ステファンはまさにタイプ5的であると思っていたので、やはりタイプ5を自認する筆者が書いたこのテキストには共感するところが多く、示唆を受けたところも多々あった(同意できなかったところもあるが)。