自分の記録に夢中なる人々

9月22日付け朝日新聞の文化面に掲載された記事「僕の人生、まるごとパック」は大変興味深い。

日々、自分が見たもの、聞いたものを全部記録する−−。デジタル技術の発達で、そんなことが可能になった現在、「思い出」を、いつでもだれにでも見られる形で保存する人々が続々と生まれている。あふれる情報の中、本当に欲しいのは自分自身の記録ということか。

スキャナーを駆使して自分の思い出のアーカイブを作って、それをBGVのようにして日々眺めている人がいるそうだ。また、体験伝達メディア「Life Slice」というものが紹介されていて、これは1分〜60分間隔で自動的にシャッターを切っていく専用小型カメラを首から提げて生活することで自分の一日を記録するというアイデア

野村仁の《Ten-Year Photobook 又は 視覚のブラウン運動》がすぐさま思い浮かぶ。水戸芸の個展(2000)であれの展示は壮観だった。ベタ焼きをそのまま束ねて製本にしたアルバムが100冊以上ずらりと並んでいて圧倒された。なるほど、コンセプトとして面白い。

しかし、みんながこんなことをやり始めても、実際には、膨大なつまらない写真の山が築かれるだけである。記録するのはいいが、それを見るのにも時間は費やされる。よっぽど優れた検索手法がなければ使えない。google並みのものが出来たとしても、今のWebブラウジングがそうであるように、利便性と時間の浪費はセットでやってくるだろう。人生の無駄遣い。

それに、忘れてしまったことは、多くの場合、忘れてしまって幸いなのだと思う。それをこんな風に記録していると、「その気になれば、はっきりできる」という状況が生まれ、非常にやっかいな選択を迫られるハメになるだろう。延命技術が進んで喜ばしい反面、いつ死を受け容れるか(親族が)自分の責任で決断しなくてはならなくなった事態も生まれたように、忘却とは「あえて思い出さない」ことと同義になり、いちいち意志的に態度を決定しなくてはならなくなる。(「あえて思い出さない」ことが得意な政治家連中には記録を義務づけたくもなるが)

それはさておき、Life Sliceでやっていることって、ほとんど盗撮同然ではないか。撮った写真をWebで公開する仕組みも用意されている。「Life Slice」のサイトには提唱者を含め何人かが実際に公開していて、その中には朝の通学(通勤)電車の中での写真もあって、吊革につかまって立つ人々の身体や、席に座って眠りこけている人の顔などが写っている。映された本人がこれを発見したらショックだろうな。おそらく犯罪として認められるのではないか。こんなものをぶら下げて写真を撮りまくっている連中が街にうろうろするようになったら恐ろしいことだ。関心が自分に集中するあまり、他者への配慮がますます失われていっているのではないか。