長嶋有『夕子ちゃんの近道』:癒しと経済の狭間で

夏休みギリギリに書く読書感想文じゃないけど、長嶋有『夕子ちゃんの近道』についてざっと書きとめておきたい。
7つの短編からなるこの連作は、大雑把に言えば、疲れちゃって何もする気のなくなった「下流志向」の語り手が働く(おそらく会社勤め)のを辞めて、ある小さなコミュニティに暖かく受け入れられて、そこで、互いに適度な距離を保ちながらも関心を持ち合う人間関係を経験し、癒される話である。

コミュニティとは、語り手が住み込みで店番のアルバイトを始めたアンティークショップ「フラココ屋」を中心とする人間関係だ。店主、店の大家、大家の孫娘姉妹(朝子さん&夕子ちゃん)、店に入り浸る瑞枝さん。あと、周辺的な人物として、向かいのバイクショップの店員、夕子の彼氏、店主の元カノのフランソワーズがいる。

以下、特徴的なことをメモる。

1.浮遊する現在
癒されたからといって、語り手が再びしゃっきりして働き始めるとか、目標に向かって活動し始めるといったような兆しは一切見られない。他のコミュニティのメンバーに関しては、なんとなく今後の変化が想像されるような動きが見られるのだが、主人公である語り手の未来のみは白紙である。

また、語り手が無気力になってしまった原因や、コミュニティへやってくる経緯も一切語られない。昔の彼女のことなど、過去を瞬間的に回想する場面もあるが、それは現在とは遠く隔たった過去であり、小説が描く時間は、それに連なるはずの過去とは完全に切断されている。

こうして、現在への意識のみが浮遊した状態で呈示される。「思考停止」あるいは「モラトリアム」などと、語り手自身が形容するのであるが、未来への投資や過去との比較といった捉え方から解放されて、「いま・ここ」への感性が息づく。また、社会的な価値よりも、身体的感覚に重きをおいた意識の分配がされるようになる。

2.成長・生産・効率の拒否
語り手は、コミュニティで関心を持ち合う人間関係に目覚めたようではあるが、ある程度癒されたら、コミュニティからこっそりと抜け出してしまい、その後、瑞枝さんから、大人のすることではない、といった批判を遠回しに受ける始末だ。主人公は癒されたが、かじかんでいた気持ちが緩み、和んだだけで、成長物語ではないのだ。

このことから、小説の描く時間は、主人公の人生のなかで、まともに働く人生の間に挿入された一時的なスランプとして位置づけられるのではなく、これこそが彼のこれからの日常であると受け止められる。

「そんなことしてどうするのって問いかけてくる世界から、はみ出したいんだよ」(「夕子ちゃんの近道」p.61)
語り手が、朝子さんの箱作り(美大の卒業制作)と妹の夕子ちゃんのコスプレを弁護して述べる言葉だが、そこには、語り手がやってきた生産性重視、効率性重視の世界への批判が込められているように思われる。

タイトルに使われた「夕子ちゃんの近道」も、近道というと効率性を求めているようだが、実はそうではなく、通学という労働を、スリルと楽しみに満ちたものにするための手段であることがわかる。途中で自転車を降りて柵を乗り越えて人家をすり抜けていくくらいなら、まともに自転車で駅まで行った方が早いのではないかと推察すれば、彼女の近道はむしろ非効率ですらあるかもしれない。

3.コミュニティの非生産性
コミュニティを経済面から見てみる。大家はすでに所有している不動産からの家賃収入で生活、孫娘たちは学生だから祖父に依存。フラココ屋はおそらく赤字(インターネット販売ではそれなりに収益を上げてはいるようだが)で、小説の終盤では店をたたむことを検討している話が出てくる。本店を実家の蔵にしているところから、おそらく親、あるいはそれ以上前の代の富の蓄積に依存することで、店主は営業を存続できていたのではないかと思われる。そして、ほとんど大した仕事のない語り手は、そのおこぼれに与る存在だ。そして、瑞枝さんはイラストレーター蒹ライターで、口振りから日々の暮らしと収入をバランスさせているような状態と想像される。

つまり、このコミュニティはだいたいが過去の富の蓄積に依存することで存続できている。そうした下部構造が、メンバーたちがまったりと生きる(学生たちは経済とは別の理由でそれぞれに生きづらさを抱えているが)日常を支えているのだ。

そんな日常が、癒しの場として一種のユートピア的に描かれているところが実に現在的である。ただし、決して無時間的な世界が幻想されているわけではない。語り手以外は動いていて、このコミュニティがいつまでも維持されることは期待されない。そこに、この小説の複雑な味わいが生まれていると思った。

4.コミュニティ内の距離感
高校生の夕子ちゃんは妊娠して結婚、朝子さんは別居していたドイツの父のところへ移住、瑞枝さんはイラストレーターとして本腰を入れるために引っ越して、別居中の夫と正式に離婚もする、と言った具合にさまざまな出来事が起こるし、そうした事件は登場人物たちを苦悩させるのだが、登場人物たちはほとんど内面を吐露しないし、語り手も隠されていることを推理したりしない。

こうした互いの内情や内面に踏み込まない関係は、コミュニティのメンバーが、語り手が参入してから半年も経過しているのに、語り手のフルネームを知らなかったというエピソード(「僕の顔」)によって鮮やかに印象づけられる。このコミュニティにおける正しい距離の取り方がそういうものなのだ。例えば、瑞枝さんの次の言葉にそうした感覚が表明されていると思う。

「嫌っていうのは……そういう嫌じゃなくて。病気で弱っている人をみると、可哀相だし、仲のいい人なら心配だけど、でもそれがどんな親友でも、少しだけうっとうしいじゃない」そして本当は、少しじゃなくて、すごくうっとうしいの。お見舞いにいくときなんか、他人の前では不謹慎になるからいわないけど、でも、うっとうしいの。(「幹夫さんの前カノ」p.96)

5.読者もコミュニティの一員
語り手は自らの過去や思考過程を語らないし、コミュニティのメンバーに生じるような前述のような出来事についてもほとんど説明されない。したがって、読者が語り手を含むコミュニティ全員に対して持つ情報量は、コミュニティのメンバー同士が相手に対して持つ情報量と同じくらい少ない。

この点もこの小説の大きな特徴で、読者は語り手を通してコミュニティの世界を覗くのであり、そのため必然的に語り手の身体を借りるほどの密着的な距離を持つのだが、一方では、コミュニティが距離を取りつつ彼を見守るような距離間を、語り手に対して感じざるを得ないようにできている。つまり、読者も、他者への関心という次元では、コミュニティの一員として語り手を含む登場人物たちと同じ地平に立たされるのである。

この小説を読む楽しみの大きな部分は、コミュニティの日常を楽しむところにあると思うのだが、それを楽しむ読者の立ち位置として、この仕掛けが大いに貢献している。全能の神でもなければ、主人公と同一化してもいないし、単なる傍観者とも微妙に違う。

反対にこの仕掛けを楽しめないと、「All About」の評者のような拒否反応が出てしまうのだろう(しかし、酷いなこの評者は)。

6.顕在化する身体感覚
では、「コミュニティの日常を楽しむ」とは?
ドラマを形成するはずの前述のようなさまざまな事件からは距離を取る代わりに、小説の記述では、日常の忘れられていた身体が顕在化している。生活のための労働(ホースで水を汲む、ガラス拭き、・・・)がもたらす身体的な快楽。意味よりも音声を優遇する言葉遊び(化粧品の名詞をSFアニメ?の名詞になぞらえる遊び、インシタンスコースー・・・)、唐突に想起される身体の記憶(学食の思い出、・・・)、身体の場に対する反応(フランソワーズのアパルトマンからの眺め)などなどだ。


 さっき夕子ちゃんがのぞき込んでいた窓から、中庭を見下ろした。
 見下ろすのは二度目なのに、もう見慣れているのが、なんだか不思議だった。(「パリの全員」p.229)

これは小説の一番最後のところ。語り手がフラココ屋に越してきた時、二階からの眺めに見慣れるのには、もう少し時間が掛かったのではないか。フランソワーズのアパルトマンからの眺めにすぐに慣れたのは、コミュニティのメンバーが作り出す空気が、語り手にそこを自分たちの場所であると感じさせたからだろう。こうした身体に生じる微細な感覚に対する感受性を生き生きとさせることが、この小説の読書の楽しみであり、同時に、語り手の癒しになっている。

0.癒しと経済の狭間で
語り手は「下流志向」を選択し、生産性・効率性と別れを告げることで、優しいコミュニティのなかで、生き生きとした身体への感受性を回復した。しかし、それは、過去の遺産に依存することで可能になっている生活である。すでに見たようにコミュニティの経済自体がはなはだ心許ないものだ。

語り手については、実はコミュニティから離脱しても、帰る家もあれば、それなりの貯金も持っているという設定だが、それがいつまで語り手にニート状態を許す資産であるかは不明だ。ある誤解から、コミュニティのメンバーは、語り手が実は大金持ちの坊ちゃんだったという想像をするシーンがある。もしそうであれば、語り手は死ぬまでこの日常を続けることが可能だろう(少なくとも経済的には)。実情が明らかにされないから、この可能性が完全には否定されたとは言い難い。けれども、これは現実の限界を暗に示すために書かれた空想なのだという印象が強い。

それなら、どうやって、暮らしを維持する経済活動と、こうしたコミュニティの持続や身体への感受性の確保とを両立させるのか−−その答えがほしいところだ。けれども、「答え」は最後の短編「パリの全員」でも見えそうで見えない。

瑞枝さんはこっちで友だちに会う予定があるらしい。店長はのみの市。僕はそれに付き添い、夕子ちゃん夫婦は新婚旅行らしく観光をし、あさってからはドイツに暮らす父親と姉を訪問する。皆、目的はばらばらだ。いつもなにかが我々をゆるく束ねている。日本では店が。フランスでは、不在のフランソワーズが提供してくれる家が。(「パリの全員」p.222)

店とか家とか、地理的な場所が与えられなければダメなのだろうか。そんなことはないような気がする。そして、やはり語り手も、何か始めなくてはいけないだろう。人間関係においても経済的にも恵まれている語り手にとって、「答え」を見つけるのはそんなに難しいことではないように思える。

しかし、そうした「答え」を書いてしまうと、この小説全体の持つ雰囲気が壊れてしまうことも確かだ。解決はこの小説には似合わないのだ。それはこの小説の外側で読者が考えることだ。

実は、この小説の重要な読書体験のひとつは、本を閉じた瞬間に得られるのかもしれない。自身もコミュニティの一員として癒された読者は、本を閉じた時に、一足だけ先にコミュニティから離脱する感覚を覚えるのだ。