梅田宏明雑感

もう一ヵ月経ってしまったが、9月7日に新国立劇場で「DANCE EXHIBITION 2008」Aプロを見た。その中でソロ作品「Accumulated Layout」を上演した梅田宏明。彼を見るのは2002年に横浜で行われた「ランコントル・コレグラフィック・アンテンルナショナル・ドゥ・セーヌ・サン・ドニ第2日」以来。6年ぶりなのにあまり変わっていないので驚く。
(1)空間を構成すること、移動することに無関心であること。
(2)照明や特定の像をもたないビジュアルの演出に強く依存すること。
(3)身体を物理的運動と生物的環境応答を可視化するためのメディアとして捉えていること。
これらの点は基本的に変わっていない。呆れると同時に、ブレることなく同じことを追求し続けていることに敬服もする。この路線でウケたからと言って、もしいろいろ手を広げていたら、生き残れなかったかも知れない、とも思った。おそらく彼にはこれしかない。何故、そう思うかというと、彼の身体の扱いがあまりにも限定されているからだ。

曖昧な記憶だが、エッジの効いた動きは6年前よりも研ぎ澄まされているように思う。勅使川原三郎が加齢とともにエッジを鈍らせていっているときに、KARASワークショップ出身の彼はかつての(と言っても、私が知っているのは90年代半ば以降だが)勅使川原の身体が持っていた硬質さや質感の瞬間的な変化の後継者となっている。

しかし、大きな違いが二つある。
一つは、勅使川原が空間を彼の美意識で完全にコントロールしていたのに対して、梅田の舞台空間は空虚だ。彼は空間にほとんど関心がない。これはダンス・パフォーマーとして際立った特徴だ。ダンスとして貧しいと言えばとても貧しい。だが、チェルフィッチュが独自の方法論を生みだすのと表裏一体に空間構成の課題を抱えこんだように、彼の貧しさも創造的な貧しさなのかもしれない。仮に今はそうではなかったとしても、そういうものに貧しさを鍛え上げて欲しい。ダンサーの頭数や舞台美術などで安易に空間を埋めないように、と切に願う。

もう一つの違いは、彼が音ハメを追求していること。ほとんど「抽象度の高いヒップホップ・アニメーション」とでも呼びたくなるようなものに接近している。音ハメには生理的な快感があり、今回の作品の後半はひたすらその快楽を汲み上げることに専念しているように見えた。しかし、音ハメはリズムに乗るダンスとは違い、身体を音楽に完全従属させることでもある。そのことに彼は積極的な意味を見出そうとしているのか、この点はかなり疑問。生理的な快感と格好良さの追求に突っ走ってしまっては詰まらない。エンターテイナーになりたいなら、もっと引き出しを豊かにする必要がある。