鹿殺し『電車は血で走る』が気になる

劇団鹿殺しの公演『電車は血で走る』を見た。とても気になる公演だった。
本公演を見るのは初めて(今夏、オルタナティブVol.3と銘打った公演は観ている)。
とりあえず、以下思いつくままのメモ。

歌舞伎と大衆演劇とロックとつかこうへいと宝塚歌劇が混沌とミックスされている劇中劇。
なんなんだろう、これは。ジャンルの規範を破壊する快楽と、もともと親和性の高いものを掛け合わせていることから生じる妙なまとまり良さが同居している。そして、ヘタウマ的な衣裳センス、ギリギリのところでパロディに寄りかからない音楽、グタグタではないが規律も程々の体育会系の身のこなし。このショーを単純にスペクタクルとして楽しむことも不可能ではないかもしれないが、そうするにはひっかかるところが多すぎる(だから、一層、面白いのだ)。

現実レベルの物語(弱小工務店で働く若者たち)、菜月チョビ演じる幽霊の「鉄彦」と丸尾丸一郎演じる「轟フルシアンテ」の小学生時代の切ない回想、鉄彦の空想(電車魔神7000系の話)、何度も挿入される劇中劇が作る祝祭的な時間……幾重にも重なる物語のレイヤーを自在に行き来し、演劇らしい体験が提供される。

時は1984年/2008年、場所は宝塚線庄内駅付近。そのように時と場所を現実と関連づけて限定しているのだが、それはなんのためなのだろう? 当時と今の庄内を知っている人にはいろいろとピンとくることがあるのだろうか。私が知らないからか、この年、この場所でなければいけない必然性は見あたらない。どうも、脚本を書いた丸尾丸一郎のプライベートなこととの関連性を印象づけようとする身振りのようにも思えるのだ。そんなことでリアリティを補強しなくてもいい。

終盤、現実レベルで工務店倒産の危機という事態に陥りながら、その事態を打開する方向ではなく、現実レベルと劇中劇の祝祭を融合させることで、虚構へと逃げ込むような終わり方をしている点。救いがない。でもひとつ抜け道があって、メタレベルでは、この芝居の全体が、轟フルシアンテが書いた、鉄彦との約束を果たす芝居であるという解釈も成り立つ。その場合、この公演の成功自体が登場人物たちの救済ということになり、観客もその物語の中に取り込まれることになる(うーむ)。

この物語構成なら、ナレーションを受け持つのはフルシアンテにするのが最も収まりがよい。けれどそうすると、すべてが彼のナルシシズムに回収されてしまう。だから、鉄彦にナレーションを分担させているのは重要なポイントだと思うが、小学二年生の彼女が、舞台となる庄内という地域について経済的な分析を踏まえた紹介をしたり、のちに幽霊と判明する存在でありながら「これは、これから×週間に渡って・・・見ることになる・・・たちの裏情報」(科白の記憶は曖昧です)というような語りかけを観客にしたりする点は、鉄彦という存在の解釈を混乱させる。
青山円形劇場で明日、3日まで。)