鈴木ユキオ『言葉の縁』を観て

以下は、7月下旬にシアタートラムで上演された鈴木ユキオの『言葉の縁』を見て、「ああそういうことなのかな」と自分なりにちょっと納得したことを少し整理してみた覚書。劇評ではない。

実は、鈴木ユキオのどこがいいのか、自分にはよく分からなかった(だから、熱心にフォローもしてきていない)。2005年にトヨタ・コレオグラフィーアワード「オーディエンス賞」を受賞したあたりからだろうか、鈴木は振付家パフォーマーとして高い評価を受けているようである。

なぜだろうか? 理由を知りたくてネットで検索してみたが、鈴木が優れている理由を説明する文章は以下の2つくらいしか見つからなかった。あとは、ただ「凄い」とか「研ぎ澄まされた」とか、情緒的な評価ばかり。

グランプリを受賞した2008年のトヨタ・アワードの評では、「『卓越した構成力と空間処理』、『妥協を許さない、力強い創作姿勢』、『沈黙を巧みに取込んだ効果的なサウンドの処理』などの諸点で、各審査員より高い評価が集まり、【次代を担う振付家賞】に決定した。」とある。狭義の振付よりも舞台作りの総合力が評価されたということだろうか。

批評家の木村覚は、artscapeのサイトに『言葉の先』のプレビューとして、「あっちとこっち、どっちにも行こうとして結果どっちにいくか定まらない、そんな拮抗のスリルが腕、足、首など各所で同時発生する。鈴木の身体に表われていたのは既存のスタイルの洗練を目指す類のダンスとは次元を画する高純度のダンスだった。「あっちへ」と「こっちへ」とが共棲する体は、いつも速すぎて遅すぎる。必然として起こるズレ。不意打ちのリズムは、見ないことを許さない力を観客に感じさせた。後半、一個の身体内部に宿されていた拮抗は、不意に現われた若い男にどつかれることで、外側との拮抗へとスライドする。」と書いている。言っていることはわかるような気がする。けれど、これはかなり見巧者というか上級者の鑑賞作法であって、これによって鈴木が広く評価されているとは考えにくい。

そんなわけで、鈴木ユキオ、あるいは彼が評価される現況ってなんなのか、というのが『言葉の縁』を見に行った時の自分のなかの課題だった。

で、観ながら、ふと、かつてシーンの中心的な存在だった「伊藤キム+輝く未来」との対比で捉えたらわかりやすいのではないか、と気づいたのだった。それが鈴木の正しい評価法だと言いたいのではない。鈴木が評価される現況、あるいは鈴木が体現しているものについてヒントが得られる補助線の発見だ。

伊藤キム+輝く未来には95年以来、10年ほどの活動期間があるが、最も勢いがあったと主観的には思う90年代後半の彼らに限定してゼロ年代後半の鈴木と比較すると、いかにこの10年でシーンが変化したか、舞台上に現れる身体、自意識、社会性(関係性)が変容したかが、感得されるように思う。そのような参照項になりうるのは、鈴木が今をよく体現する振付家パフォーマーだからであり、それゆえに彼は評価されるべき存在であり、実際、評価されているのだな、と自分なりに納得したわけだ。

*    *    *     *     *

さて、90年代後半の「伊藤+…」と言った時に、自分のなかで象徴的イメージとして想起されるのは、97年にセッションハウスで行われたスタジオパフォーマンス『伊藤キムのやりにげ』だ。遠田誠のソロ『10分王子』、伊藤の新作『3SEX』のプロトタイプ、ワークショップ参加者たち(その中に森下真樹がいた)との1回限りの祝祭的パフォーマンス『サリー!』の3本で構成された公演だった。

若いパフォーマーたちの、観客の注視する中で演じるというヒリヒリするほどの強烈な自意識や、それが反転することで生じる露悪的な衝動、自己を解放しきれないもどかしさ……あの晩、そうしたものを強烈に感じ、彼らの生の感情に文字通り触れる思いがしたのだった。もしも伊藤の求心力が弱まれば、パフォーマーたち一人一人が好き勝手な暴走を始めて、収拾がつかなくなるのでは、という緊張感すら覚えた(実際、遠田はかなりアブナかった)。

フルイブニングの作品として調整されていない、荒削りなパフォーマンスであったという点も大きいが、劇場の舞台に立った彼らからも、同じようなエネルギーの放射は十分に感じられたのだった。

しかし、時代は変わった。最近の伊藤の下に集う若者の中に、もはやあのような過剰な熱気や鬱屈は見られない。伊藤の新制カンパニー「輝く未来」の「試演会」なる場を見ればそれは明らかだ。試作やオケージョナルな作品で構成するスタジオパフォーマンスという点で、試演会は97年の『やりにげ』に似ている。が、それ故に両者の違いは鮮烈だ。試演会は、07年12月に一度だけ見に行ったことがあるが、メンバーの余りの大人しさ、優等生的な作品作りにズッコケた。偶然だろうが、どちらもクライマックスにアニメ主題歌を使用していて、両者の落差をそのアニメのヒロインの差で揶揄してみたいという誘惑に駆られる。すなわち、超自然的存在である魔女(『魔法使いサリー』)から、人間機械論的存在であるアンドロイド(『キューティーハニー』)へという推移。これが、社会が抱く身体観の推移の反映だと主張したら、こじつけになるだろうか?

話を鈴木に戻す。『言葉の縁』で観たパフォーマンスは、上述の「伊藤+…」とは対照的だったというわけなのだが、例えば、印象的だったことの一つは、パフォーマーが舞台に登場する際の振る舞いだ。全力で走り込んできたり、這い出てくることはなく、静かに歩いて現れる。といっても、ポストモダンダンス的な日常的動作としての歩行ではない。「のっそりと」という表現がぴったりくるような、素ではないある構えを持った動きなのだ。けれども、「ハレ」では断じてない。これから観客の前で演じるのだという高揚感が、少なくとも表面的には見事に消し去られている。こういう登場の仕方があたかもデフォルトであるようなダンス公演というものを、自分はこれまで見たことがないと思う。

また、男性パフォーマーたちの活躍するシーンに見られる暴力的ではあるが形骸化したやり取りはどうだろう。様式化といえるほどには洗練されていないが、基本的な進行は取り決められているらしい気楽さは見受けられる。この微妙なニュアンスはなんであろうか。この選択ゆえに、荒々しいコンタクトと駆け引きによってパフォーマー間の直接的なコミュニケーションが発生しているとは感じられなくなっている。代わりに、コミュニケーション基盤が共有されているかのように振る舞うことへのパフォーマーのうっすらとした安堵が見える。

女性パフォーマーたちのシーンでは、自分の身体の一部を片方の手でつかんで、道具を動かすように操作する。あるいは、バランスを失い重力に身を任せて床に崩れる。といった所謂「舞踏的」な振付が顕著だ。このような振付を6人のパフォーマーたちがカウントに合わせてユニゾンで踊ったりする場面もある。制御不能性と完全な制御が奇妙に同居している。もはや自己の身体の始末の悪さ・手に負えなさは、工学的に利用される複雑系のカオスみたいなもので、その自律性すらも振付に組み込み可能なモジュールでしかない、という感じだ。こういう振付は鈴木の専売特許というわけではないだろうけれど、90年代後半の「伊藤+…」ではありえなかったのではないか。彼らだったら、数人のパフォーマーが集まって同じ振付を踊るシーンがあった場合、各自勝手なバラバラのタイミングで踊ったのではないだろうか。この変化はやっぱり、「サリーからハニーへ」なのだろうか。

それから、観客の前で踊ることに対する意識も変質しているように思う。「伊藤キム+…」は、露骨な客いじりはしなかったけれど、「見せている/見られている」という意識が舞台上のパフォーマーに横溢していた。一方、鈴木のパフォーマーたちは、目の前の観客に対してどこか意識が切れているように見える。上演というシステム経由でしか観客を感じていないような…

*    *    *     *     *

以前、伊藤のダンスについて以下のように書いたことがある。

例えば今やスターとなった伊藤キムもここから出発しているように思う。90年代後半の彼のダンスでは次のような展開が見られた。人形振り的動きが始まると、一旦客体化された身体を自分自身のものへと奪回しようとするベクトルが発生する。それに抗うように客体的身体の暴走があり、客体的身体とそこから分離された主体との争いが行われ、やがて主客の一致に至り、身体=自分自身の状態を獲得してカタルシスが生まれる。ここには、自分の身体において踊る身体を発見するために彼の歩んだプロセスが、一つの作品の中でヘッケルの説(個体発生は系統発生を繰り返す)を思わせるような形で再現されているのではないかと思う。(原文

こうした伊藤のダンスとの対比で見れば、鈴木のパフォーマーたちは、身体を主体に再統合すべきものとして捉えていないし、身体を通して自己を表現しようという意識もない。身体と自意識の間に分裂はあるのだが、そのことを気にしない。自分の身体を他人のそれを見るように、どこか醒めた目で見ている(手塚夏子的?)。かといって、精神と身体の二元論に陥っているわけでも、意識に対する身体の劣位を確信しているわけでもない。

身体こそ自分が唯一無二の存在であることの拠り所。身体こそ他者とのコミュニケーションの原点。そんな認識がかつてはあったように記憶する。しかし、今はないのかも知れない。身体は交換可能であり、単なる現時点の物理的限界を規定するもの。コミュニケーションの基盤は身体ではなく外在的なシステム。身体はそのシステムにアクセスする際に、利用法を工学的に探究されるべき資源……

仮に今、そうした身体観が現れてきているのだとして、鈴木自身のダンスにもそれは刻印されているだろうか。

鈴木を初めて見たのは2001年のやはりセッションハウスでの公演だった。その時はbulldog extractというグループ名で『世界が壊れてしまう前に』という作品を上演した。その時に感じた彼の独特な動きの質感が、今回の『言葉の縁』の冒頭の彼のソロにおいてもなお保存されているのを発見した。その動きの質感は、言葉にするのがなかなか難しいのだが、あえて表現するなら、上半身が板――ある程度の厚みのあるブロックのようなもの――のように見えるように作用するのだ。分析を試みると、胸板の作る平面に平行な面内で腕や手が回転するような動作が頻出すること。その際に腕の動きが上体に対してアイソレーションされていること。また、首から上が上体の動きと独立しているように見えること。さらに、こうした動きが現れる時の運動の速度――あるいは不定型なリズムというべきか――にも特徴がある。足のステップがある場合は、それが強いアクセントになっていて、そのテンポは通常の歩行速度よりも鈍いが、スローモーションという印象を受けるほどではない。テンポが一定ではないため、滑らかな進行を印象付けることはないのだが、それでいて、この運動は何者も容易には止められないと思わせる、大きな慣性モーメントが備わったものなのだ。

頭部は大きな慣性モーメントで運動する身体の上部にあって、その運動を半ば他人事のように傍観しているように見える。頭部以外に対して半ば傍観者であるなら、身体のすることを観客に見せるという意識も、当然、醒めたものになるだろう。伊藤が目指した身体と「私」の再統合が、鈴木においては放棄されているのだ。

白状すると私はこの鈴木の独特の動きを見るたびに拭い去れない違和感を覚える。だが、この違和感は、私が伊藤(b.1965)の世代の人間であり、かつての伊藤の身体には共感を覚えるが、鈴木(b.1972)のそれは新しい身体観を反映していて若い世代には共感を呼ぶが、自分には見慣れないものであるということを意味しているのだろう。そう解釈して、改めて彼のダンスを見れば、これからいろいろと興味深い点が見つかってきそうだ。

*    *    *     *     *

ところで、伊藤から鈴木への身体観の変化を説明してくれるような言説はあるのだろうか。思い浮かぶのは、大澤真幸オウム真理教と絡めて書いた論考だ。「生権力の変容」(『〈身体〉は何を語るのか 20世紀を考えるII』収録)で、「一方で「身体の現実を排除」し、もう一方で「身体の直接性」を求める」と書き、『不可能性の時代』で「身体から逃走と身体への回帰が、同一線分上に並ぶ」と書いている。鈴木のダンスにも、身体をやり過ごそうとするベクトルと、身体の前で「私」がどんどん空虚になっていくようなベクトルとの、2つの相反する方向性の同居が見出せるように思える。けれど、何か他にもっとしっくりくる言説があるような気もするのだが。

また、こうした議論は、観劇の古い記憶に基づいて書く限り、曖昧な印象に依拠せざるをえない部分が大きいが、もし、公演の記録ビデオをデータとして科学的な計測を行ったら、二人のパフォーマンスの差異を検出でき、自分の直観は裏書きできるのではないかと想像する。たとえば、腕などの身体部位の速度、加速度を測定して、そのスペクトル分布をグラフ化してみたり、一連の動きにおける速度・加速度の時間変化のプロファイルを調べるなどして、特徴を発見することがおそらく出来るのではないか。腕と頭部の関係などの部位間の相関関係を調べても面白いかも知れない。木村がプレビューで書いていたようなことも、たぶん検証できるだろう。さらには、もしそうやって動きの特徴が数値化できたなら、同じような手法で各時代の一般人の日常における身体の動きの特徴が析出できないか、試してみたらどうだろう(TV番組などの映像アーカイブを利用して)? そうしたら、個体差を超えて時代に特徴的な身体の動きといったものが見出されるだろうか? 90年代の人々の身体の振る舞いにはこんな特徴が現れていた。それがゼロ年代にはこうなってきた、とか。実際、20年、30年前の日本映画を見たとき、その時代の身体というのはきっとあると感じる。そんな研究ができたら面白いだろう。