戦術の素朴さとパフォーマンスの力――ヤン・ファーブル『寛容のオルギア』

先月末、さいたま芸術劇場大ホールで見たヤン・ファーブル(Troubleyn/Jan Fabre)『寛容のオルギア』について。
消費社会を批判する劇場パフォーマンス=消費対象、スペクタクルを批判するスペクタルという矛盾を放置しているように見えた。戦術が素朴すぎるのだ。
マスターベーション陸上競技、紙幣への偏愛とエアロビクス、スーパーマーケットでのショッピングと出産、人種差別と剥製コレクション、欧米至上主義とジョン・レノン(イマジン)…何と何が結びつけられ、それによって何が揶揄されているかは明白。『モンティ・パイソン』を参照したというだけあって、即物的に滑稽。観客はげらげら笑いながら、笑うことによって、揶揄されている対象から解放された一時を得ることができる。

終演後、宇野邦一ヤン・ファーブルトークがある。宇野は、終盤、パフォーマーたちがさまざまなののしりを発し、その後にダンスシーンをおいて幕としたことについて、「観客はこれで溜飲が下がってしまった」が、こういう終わり方でよいのか、と疑問を呈した。もっともな意見である。ファーブルは、ダンスは身体のポジティブなエネルギーを現す。だから良いのだ、というような回答をしていた。しかし、この回答は説得力がない。「これは新しいはじまりかもしれない」というセリフと共に始まる最後のシーンは、ロックミュージックに合わせての陳腐なダンスにしか見えず、どこが新しいのかまったくわからなかった。このエンディングのせいで、社会批判が上演の口実になってしまっている疑念は、払拭されるどころか、むしろ強化されたように感じられた。

ところで、ファーブルの作品構成とは別に、アンソニー・リッツィの存在は自分にショックを与え、観劇後も今日に至るまで繰り返し意識に昇ってくる。
彼をプライベートに知っているわけではないが、フランクフルトバレエ団の来日公演時の彼を90年代から目撃してきており、その体験を通じて、私の中で彼の個人的(プライベートではないがパーソナルな)イメージは形成されていた。性的な好みに関する月並みな噂はともかく、彼は自分にとってはソフィスティケイトされた小柄でしなやかで知的なバレエ・ダンサーだった。
その彼が下半身をむき出しにし、肛門にライフル銃の銃口をつっこみ、客席に微笑みかけながら感覚を味わうようにゆっくりと銃身でピストン運動をする。口を泡で一杯にして(口に何か仕込んだのだろう)、這いつくばって、床に垂らした自らの涎を舐めて(舌が接触していたかまでは確認できなかったが)、犬のように吠える。手鏡で確認しながら、肛門や陰嚢に生えた陰毛をシェービングしてみせる(実際にはすでに剃毛済みでツルツルなのだが)。

そんな具合で、彼は今回のパフォーマーたちのなかで最も社会コードに抵触するような過激なパフォーマンスを行った(つまり、彼にはそこまでやらないという選択肢も当然あっただろう)。ファーブルに行為内容を指示されてやっているわけではあるまい。彼が作品上の必要性を感じて発案し、自発的にやっていると思われる。だから、あのような「行為」がファーブルの設定したテーマに対する彼なりの回答なのだ。ここで言う「行為」とは作品の一部として提示された内容のことだけでなく、劇場でそれをやってみせるというところまで含めた彼の選択と実践の全体のことである。欲望を管理する社会(その体制と体制下にある観客たち)を撃とうと思った時、彼はあのようなことをやるべきだと考えたのだ。そのように考えていくとき、彼のパフォーマンスには、ファーブルの劇場作品という枠組みを超えて、トニー個人の生と、彼が生きる社会のありようを私に触覚させる力がある。

正直なところ、舞台で行われた消費と性欲を記号的に結びつけるようなパフォーマンスには笑ったけれど、他人事のように笑った。自分はゴージャスなソファでくつろぐ暮らしからはほど遠く、物欲・性欲よりも念頭にあるのは「節約」だ。そして、自分の「つつましい」生活は、格安商品の生産に従事するさらにつつましい生活をする人々によって支えられている。消費社会やグローバリズムをまな板に載せるなら、焦点を当てるべき問題はもっと別のところにあるように思えた。いったい、人々はそんなに駆り立てられているのだろうか? 欧米のある階層ではきっとそうなのだろう。でなけりゃ、リッツィがあそこまでやるはずない。という思いが、このパフォーマンスの自分にとっての辛うじてのリアリティとなっている。
たぶん、ファーブルの素朴すぎる戦術を補完する一つの道もそのへんにあるのだろう。