岡崎藝術座『ヘアカットさん』〜”カラオケで自己表現”も演劇だ

冒頭の坊薗初菜の熱唱に引き込まれた。
彼女は目黒という役でまず、1人で登場。ここは新宿駅南口の紀伊國屋書店の売り場であると告げて、客席に手拍子を求めて、目黒の心境を内容とする歌を歌う。せっぱ詰まったような迫力ある歌いっぷりに心動かされた。歌詞が妙に細かい描写だったり、メロディが単調で素人臭かったりするのだが、そこがまた良い。作詞・作曲の素人臭さは計算ずくなのだろうが、1人の平凡な女性の自作の歌なのだとわかる。自分のことを歌にして熱唱せずにはいられない。そういう状況に目黒は追いこまれているのだ。

この後に続く芝居は、うんと誇張して言ってしまえば、観客が冒頭の熱唱パフォーマンスから受け取ったものが、いったいどういう文脈やニュアンスを秘めているのかを、より多面的に説明しているにすぎない。

今回の作品を見る限り(私はこれが初見)、岡崎芸術座の舞台では、俳優は、物語や登場人物たちのリアリティの醸成にほとんど寄与しない。部分的に影響を受けていると思われる岡田利規の舞台と比較すると、チェルフィッチュでは、俳優と役との関係が切断され、関係性が流動化しているが、その代わり、登場人物の知り合いらしき人物になって登場人物を語る俳優は、その語り口や所作、さらには、俳優自身の身体――もともと登場人物が俳優自身と性別や年齢、ハビタスが近く設定されている(そうでない作品もあるらしいが)ためにこういうことが起こる――によって、物語と登場人物たちにリアリティ(本当にこういうことがありそうだ、こういう人たちを目の当たりしたような気がする)を与える。これに対して、岡崎芸術座の舞台では、もう登場人物のリアリティなんてどうでいい、という荒々しさに満ちている。

たとえば、床屋のオジサンがクリスマスのサービスにお客を死に別れた恋人と再会させてあげるという展開や、その時にカードを見せてサービス内容を意味の通らない3択から選ばせるとか、そのうちの特定の1つを選ぶことが文字の大きさによって要請されているといったディテール。あるいは、マイク・ジャクソンなるスター役を演じる俳優が語るときに行う、特徴的な振りの引用なのか物真似なんだかわからないような中途半端な身ぶり。これらはどう見ても、TVのバラエティ番組(あるいはお笑い芸人の公演)のコントのノリである。別の例では、カラオケ店の店員、空桶寛子である内田慈が客に話しかける前に、いちおう手でドアの輪郭を空に描いてから、それを開けて部屋に入るジェスチャーをするのだが、そのジェスチャーは客に存在しないドアを見せてしまうパントマイムの技に迫ろうとするのではなく、「コントとかでやる、こういう手続き、知ってるよね?」的なひどくなおざりな身ぶりで済ませる。万事がこんな調子だ。

そんな調子だから、田町、大崎、目黒といった登場人物たちは、コントに登場する類型的な、記号的な人物でしかない。ちょうどショートコントを見ているように、物語や登場人物たちがどうなっているのかといったことよりも、俳優たちが〈パフォーマー〉(=社会的役割としてのパフォーマー)として何をやって見せるのかという興味がもろに前景化されるのだ。この点で、チェルフィッチュ以上に岡崎芸術座の舞台は「眺める視線」のためのものである。

そこまで突き進むことができた、あるいは突き進んでしまって構わなかった理由は、この作品が社会や人間の総体にではなく、ある種の感情に焦点を絞っているからだ。その感情さえリアリティをもって描ければ、あとは書き割りみたいで構わない。

その感情がどのようなものかというと、(1)交通事故で突然死んでしまった恋人、(2)たいした理由もなくぷっつりと関係が途切れてしまった恋人、(3)時代に取り残されたかのような近所の床屋のオジサン、(4)かつて好きだったスター歌手の引退、の4つを重ね合わせることから浮上してくる感情――「関係性の喪失」に対する気分のようなもの。そして、それを乗り越えようとする意志だ。

冒頭の熱唱パフォーマンスが、この意志を表現している。また、ハイテンションなMCを演じ、早口でナレーションをまくし立ることで俳優たちの発散するエネルギーが、空虚さに対抗しようとする感情にリアリティを与える。

そんなわけで、以下のような特徴が興味深いと思った。
(a)〈パフォーマー〉の徹底した前景化
(b)上演の動機を、社会や人間の提示ではなく、感情の共有という点に絞り込んだ。
(c)平凡な若者は自分の感情を、カラオケで熱唱するとかテレビ番組の真似をするとか、そうした形(二次創作的)で表現するという実態を風俗としてのみならず、演劇の方法論として持ち込んだ。

(b)は、一個の人間としての他者には無関心である一方、感情共有の疑似体験が重視される、ネット・コミュニケーション的なスタンスに通じるものがあるかも知れない(この辺は、実は五反田団にも通じるところがあると思っている)。

ただ、少し残念なところもある。「関係性の喪失」を構成する4つがありえないような結合をする点が面白いのだが、その認識は、俳優たちの演技には直接関係のない、劇作家の仕事のレベルで与えられてしまうのだ。例えば、終盤、目黒と空桶寛子がそうであるように、田町と大崎が実は実は同一人物(としても)見なせるのではと観客に感得させるのは、ヘアカットさんが「大崎田町さん、変わった名前ですね」と話しかける一言によってなのだ。1人語りの説明で処理される部分は少なからずある。そうした部分では、目の前の〈パフォーマー〉への関心が、背後で作家は何をたくらんでいるのか、という興味へ移行してしまうのだ。

ところで、「ヘアカットさん」という呼び方は業界っぽい。町の床屋に対してはしないと思うのだが…