南米の演劇とコンテキスト共有の問題

一度も舞台を見たことがないが、南米の演劇が面白そうだ。
2月27日、グローバルCOEプログラム「演劇・映像の国際的教育研究拠点」の関連イベント「南米演劇の研究会」(会場は早稲田大学内、参考:JanJanニュース「南米の民衆・教育演劇を考える」)に参加してみた。彼の地では、劇場内で完結しない演劇実践、観客が参加する創作、ドキュメンタリズム、といった私たちにとっての今日的な要素が数十年も前から、アーティスティックな関心からではなく、演劇を社会で機能させるという動機で探究されている、らしい(よくはわからないが、どうもそうらしい)。

理論的なルーツはブレヒトにあるという。そう言えば、岡田利規氏は平田オリザ氏との対談(前のエントリ参照)で、「日本はブレヒトの受容を誤った」と発言していたが、そうであれば(多分、そうでなくとも)、きっと私たちが南米の演劇から学ぶことは少なくないだろう。

ラテンアメリカ文学は日本でもブームになったのに、なぜ南米演劇が日本ではさっぱり上演されないのか。
南米の民衆・教育演劇の理論的バックボーンを与えているボアール(Boal, Augusto)の訳者、里見実氏が、その理由を講演で3つ挙げていた。
(1)言語の壁、(2)来日公演の資金調達の困難さ、(3)コンテキストが共有されにくい。

(2)は問題の本質というより、他の諸要因の結果として立ちはだかる直接的な課題だろう。(1)は他の諸外国の演劇が日本で上演されていることを考えれば、大きな障害とは思えない。ここでちょっと考えてみたいのは、(3)だ(以下は問題の解決方法を探すためにではなく、自分の頭の整理が目的)。

南米の文化は日本とは大きく異なり、一般的には馴染みも薄いから、コンテキストもまた多くの観客が馴染みにくく感じるであろうことは、そうだろう。そのことは大前提として、ほかに演劇というメディアの特質の問題がある。

文学や映画と比較してみると、文学は言葉のみをメディアとすることで、実は抽象度が高い。たとえば、舞台となっている場所や文化的な諸要素に不案内な私には、アルゲダスの小説『深い川』を読みながら、シーンを映像的に思い浮かべることは出来ない。けれど、もやもやとした状態であっても、ある部分に興味を持って読み進めていくことができる。描かれている世界を良く知っている人を基準におけば、私は酷く誤ったイメージで読んでいる可能性も高い。それでも私の読書体験は有益になりうるし、ペルーについてもなにがしかのことを学ぶだろう。文学にはそういう自由さがある。

映画の場合は、当然のことながらイメージは具体的であるが、カメラという視点が観客に与えられる。映されている世界のことをよく知らなくても、注目すべきものをカメラが選択してくれる。

これに対して、演劇の場合は、文学ほどの抽象的な自由さもない一方で、どこを見るかは観客任せだ。コンテキストを共有しない観客には、舞台上のどこに注意すればいいのかわからず、何が進行しているのかも把握できず、とりつく島もないという上演も、十分にありうる。

演劇は上演の1回1回の客席に向かっての営みなので、特定の観客層を前提に創作するのも当然ありだ(例えば ペルーの劇団Yuyachkaniはかつてインディオの鉱山労働者たちを対象に創作したという)。その場合、対象から大きく外れた観客の受容は当然難しくなってしまう可能性が生じる。もし、そんな演劇ばかりだったら、それは日本に持ってこられなくても仕方がないが、どうも、そういうものばかりではないようだ。Yuyachkaniのメンバーだったサセル池田氏によれば、同劇団は欧州公演を成功させており、ユネスコから助成金も得ているという。

そもそも、コンテキストを少ししか共有できない観客でも、十分に楽しめる上演を作れる点こそ、演劇の特徴だ。演劇で鑑賞するのは、基本的には身体だ。コンテキストが分からないと言っても、身体という大きな共通項を持っている。言語や文化的慣習ばかりに意味を担わせるのではなく、身体的レベルの表象を十分に活用した演出であれば、楽しめるものになりうる。あるいは遊戯性を重視するということかもしれない。里見氏がコロンビアの劇団Teatro La Candelariaについて、「労働者階級を相手にアバンギャルドな手法の芝居を見せて、あれでわかるのかと思うけれど、それでも上手くいっている」といった趣旨のことを発言されていた(注:もしかしたら、この要約は正しくないかも知れません)が、そうした演劇実践が独善性を回避できている(と推察する)のも、おそらく同じ理由からではないか。

いろいろ想像ばかり書いているが、多分「コンテクストが共有されにくい」ということ自体が問題なのではなく、それゆえに売れないんじゃないかという憶測が先行してしまうことが問題なのだろう、ということ(無論、経済的にはどちらであろうと違いはなく、劇団を呼ぶ際の障害としては同じだが)。

平田・岡田対談の2日目(結局、高い1日パスを買ってしまった)は、「ジャパネスクから遠く離れて」が副題なのだけど、欧州における日本の演劇の受容のされ方が話題になっていた。平田氏は「日本も国として成長期を終えて衰退期に入ったから、フェーズ的に欧州と同じになった。そのお陰で、チェルフィッチュのように、国内で評価されているものがそのまま欧州でも評価されるような時代に入った」というような分析を披露した(それに対して岡田氏はノーコメントだった)。もしかしたら、チェルフィッチュに関してはそんな大きな話ではなく、「若者の就職難」という状況の共通性レベルの話なのかも知れない。それはともかく、「コンテキストを共有しやすくなったから欧州公演しやすくなった」というのは、いいニュースである一面、つまらないニュースでもある。

演劇によって自分の馴染んだコンテキストが破壊されるとき、観劇体験は豊かなものになる。共有できたと思ったコンテキストに裏切られるという体験もあるし、理解できなかったコンテキストがじわじわとわかってきた、という体験もいい。極論すれば、コンテキストが簡単には共有できない演劇こそ刺激的だ。

コンテキストはローカルだけど、理解できない人にも楽しめて、しかも今の私たちにとって切実な問題を扱った演劇。そういうものこそ、海外へ行って欲しいし、逆に、おそらくはそういうものなのであろう南米の演劇にも、日本に来て欲しい。最初は、劇団まるごとではなく俳優数名によるデモ公演でもいいと思う。