竹内敏晴「からだ」と「ことば」のレッスン体験記1(Apr. 3 '00)

今年(2000年)1月の「最近の私」の欄で触れたように、竹内敏晴のワークショップには、勅使川原三郎のワークショップと相互補完し合うようなところがあると直感した。それよりもまず、自分にとってとても有効な体験になるだろうと予感したからだが、とにかく実際に受講してみることにした。

初めに断っておくが、「竹内レッスン」(ワークショップという言葉よりレッスンと呼ぶことが多いようだ)は、演劇が出発点になっており、KARASのそれのように、ダンスの基礎を準備するという目的はまったくない。それは、芝居の練習中に生じたこんな疑問からスタートしている。



三郎というトラックの運転手が、下宿の押入にもぐって故郷へ帰る仕度をしていると、恋人のみどりがたまたまやってきて、裏切られたと思い込み、猛烈にどなり始めるせりふから始まる。

女は部屋の真ん中で「腰に手をあててすっくと立って」、その押入の中の男に向かってどなる。だが、どうも声がよわい。そこで男に、どんなふうに聞こえる? と尋ねてみた。すると、「別になにも感じない。あっちでわあわあ言っているな、って思うだけだ」と言う。

男はそっぽを向いて座っている。それに3、4メートルくらいの距離から女がどなる。ワッ、おれに言われた! と感じるにはどうしたらいいかという研究が始まった。芝居の稽古というより、いったい相手に声が届くとはどういうことで、どうしたら成り立つのだろうか。これが<話しかけのレッスン>の始まりだった。
(竹内敏晴『「からだ」と「ことば」のレッスン』(講談社現代新書)より)

つまり、他者に「ことば」を掛けるという行為は、音声情報を口から発するということだけでは決してないという認識がまずある。むしろ、発話者が他者に関わろうとする行為の本質は、言語情報の空間伝搬にあるのではなく、発話者の気持ちにあり、それがおそらく音声に映り、他者はそれを見取って、言語情報とは別に発話者の気持ち−−発話者本人も自覚していないような意図−−を感じるのだ。竹内は、「主体の志向性をどのように発動し相手に触れてゆくのか」(前掲書)と「話しかけ」の本質を指摘する。

普段の会話でも、相手の微妙な声の様子からいろいろなことを感じ取っていることは私たちも知っている。ところが、稽古場で「話しかけ」の探求を進めるうちに竹内がした発見によると、発話行為において表出する発話者の在り様は、私たちが日頃考えているよりは遙かに根深いところから汲み出されており、その場における相手の自分に対する気持ちといったレベルを超えて、発話者の生き方までがそこに現れ出ているということらしい。

ここで言う生き方とは、収入をどうやって得ているかという経済的な事柄ではなく、どういう主義・主張を持っているかといったことでもなく、この世に在るということにおいて、どういう心持ちを持っているか、外部に対してどのような心の構えで生きているか、というような根本的な問題である。「「話しかけ」という一つのレッスンによって、その人が生き、苦しみ、もがき、歩いて行く姿がまざまざと現れてくる」(前掲書)と竹内は語っている。

そこで、<話しかけのレッスン>は、その準備としての身体のレッスンへと発展していくことになる。何故なら、その人の在り様は身体の問題に集約されているからだ。もし、言語上でしか「話しかけ」ることの出来ない人がいたら、彼を「話しかけ」ることから隔てているものは、身体の在り様としても現れている。

心身二元論で考えれば、その人の「話しかけ」の問題と身体の問題は、その人の心の問題に由来するということになり、精神分析心理療法の領域へと話は向かっていくことになるだろう。しかし、竹内は、身体に直接働きかければ、「話しかけ」の問題とその背後にある生き方の問題は、改善されると考えた。

心にこわばりがあるなら、身体を直接揉みほぐせばよい! なんと痛快な発想だろうか。こうして身体の不要な力を抜くことを目指すKARASのワークショップと接点をもつことになる。

前置きが長くなったが、以下、私がどんなレッスンを体験したか、報告していこう。

受講者は20数人。女性より男性の方がやや多い。年齢層は高校生から白髪の熟年者までさまざま。ダンスのレッスンとはかなり様子が異なる。始めに、簡単な自己紹介をする。10人弱は私と同じ初参加のようだ。

片足を前に出して、膝を楽にして、「ららら〜」と発声したのち、全員で大きな声で「春が来た」を歌う。私は人前で歌うのが苦手なので、ちょっと戸惑う。奥歯を開くこと。

ペアを作る。経験者たちが壁際に並び、初心者は好きな人を選べと言われる。これも戸惑ったが、さっさと決める人が多かったため、みるみる選択肢は狭まって、私の相手も割と簡単に決まる。

ペアで、互いに落ち着いた気持ちになれるような、立ち位置関係を探せという。なんの知識もない初対面の人に対してそんなものを探せと言われても・・・と困る。相手を変えて3回やる。やっていくうちに感づいたことだが、相手のことを何も知らないから何とも思わないというのはウソで、無意識に自分のうちに相手に対するはっきりとした感情が湧いてくるのを抑えているのである。相手に対して好奇心を発動させて、あれこれ感じ取ることなど、めんどくさいし失礼だ。見知らぬ相手に対してはニュートラルでいたい、というのが自分の在り様なのだ。

続いて、相手の肩に手を置いてみる。置かれるときは、余り遠慮されると居心地が悪いし、逆に重さを掛けられても鬱陶しいものだ。置く側に回ってみると、程良い加減というのは、探り出すと難しいことに気づく。しかしそれは、私が人の肩に手をやる適切なやり方を知らないということでは必ずしもなくて、二人の間に関係の歴史がないためではないだろうか。お互いにどういう間柄かを心得ていたら、その間柄に相応しい手の置き方が自然で出てくるものではないだろうか。

休憩を挟んで「揺すり」をする。ペアを作って、一方が他方の身体のいろいろな部分を揺すって、ほぐしていくのである。揺すられる側は、寝転がってされるがままになっている。この方法に似たものが果たして他にあるのか私は知らないが、とにかく凄いと思う。KARASでは各人がひたすら自分の身体に注意を配りながら、ジャンプやストレッチや深呼吸をしながら、脱力を目指していくのだが、ここでは他人が直接相手の身体を手で揺すってほぐしていくのである。

私は横たわり、経験者の若い男性が、私の手を持ち腕を揺すり、足を持ち膝を揺すり、頭を両手に抱えて首をころころと転がす。私は目をつむり、されるがままだ。相方が熟達していたこともあり、安心して身体を預けて、気持ちよく横になっていられる。

でも下半身の固さが抜けなかった。これはKARASでも最近ジャンプをしていてつくづく感じていることだった。ジャンプしながらだと、どうやってほぐしたらいいか判らないが、ここでの力を抜く一つの方法は、眠っている状態に近づくことだ。ぼーっとなってすべてのことに無頓着になる。しかし、それでは駄目だろう。自分の身体の状態に対して感覚しながら緩んでいなければいけない。身体の部分に注意を向けることと力を入れることがどうしても一緒に起こってしまいがちだ。

それにしても、他人に身体を預けるというのは気持ちのよいものだ。それが、レッスンという仕組みによって、初めてあった人に対して簡単に出来ている。それは、竹内先生への信頼であり、この稽古場の雰囲気への信頼があり、それらによって相方に対する信頼感が支えられ、そうしてはじめて可能になっているのだ。感極まってなのか、号泣する女性−−実はただそんな声が出ているらしい。その後カラッと笑っていたから−−がいて、びっくりする。あちこちから「ホワーッ」と遠慮のない大欠伸が出ているのにも驚く。

休憩を挟んで次は「呼びかけ」のレッスン。5人ほどが目をつむって座っている前で、一人が特定の誰かに呼びかける。呼びかけ役は経験者が挑戦。「眼を開けてください」「こっちへ来てください」。誰も自分に呼びかけられた感じがしない。呼びかけ役が両手を後ろに組んでいるという姿勢が指摘された。その点を注意した上で、私に声が掛けられた。私は脇で聞いていて、目を開けているので、自分に向かって発せられたことは視線で判る。しかし、声は届いたけれども、その人のところへ行きたくないという気持ちが湧いた。彼女は顎を上につき出していて、どこか私を拒否するようなところがあったからだ。

別の人に呼ばれたときは、今度は身体が反応したけれども、彼のところへ行きたくはなかった。彼の物腰がどこかこわばっており、彼に近寄ることに安心感が湧かなかったからだ。他者に呼びかけるということ、関係を求めるということは、まず自分が心を開き、無防備になって、相手を受け入れる気持ちになっていなければいけないようだ。

最後に「春が来た」をもう一度歌う。最初に歌ったときとは全然違って、今度は大きな声が安定して出たので、自分でも驚く。自分がうまく歌えないのは、いつも身体や気持ちがどこかこわばっているからなのだろう。それがいまはすっかり安心しきっているのだ。それは、自分に対する自信と言うよりは、自分がまるごとこの場に受け入れられているという感覚に助けられて生まれてくる安心だという気がする。

腹から無理なく大きな声を出して気持ちよく歌っていたときの私の身体からは、きっと無駄なこわばりは取れていたことだろう。小集団によって生まれた場に支えられての脱力。脱力効果としては見事である。KARASの方法では、たった半日でここまで身体を緩められないだろう。勿論、ダンスの場合は、脱力した上で、さらに自分の運動のコントロールを目指さなければならないから、この脱力では駄目なのだ。それは確かだが、けれども、まったく別の地点にたどり着いた訳ではないような気がする。この状態でダンスを始めたらどうなるだろうか? それを試してみたい気がした。(Apr. 3 '00)