タンツテアター・ヴッパタール「過去と現在と未来の子どもたちのために」――ソロダンスの魅力「うまさ」と「淀み」('03年11月28日)

2003年11月15日(土) 13:30 新宿文化センター大ホール
振付:ピナ・バウシュ
美術:ペーター・パプスト
衣裳:マリオン・スィートー
出演:ライナー・ベーア、アレクサンドル・カストレ、ルッツ・フェルスター、ディッタ・ミランダ・ヤジフィ、メラニー・モーラン、ドミニク・メルシー、パスカル・メリーギ、ナザレット・パナデロ、エレナ・ピコン、ファビアン・プリオヴィーユ、ホルヘ・プエルタ・アルメンタ、瀬山亜津咲、ジュリー・アン・スタンザック、フェルナンド・スエルス
初演: 2002年4月25日

衣装は従来路線のままでいいのか?
中だるみなところもあったけれど、やはり楽しかった−−総括して今回の公演を一言で言えばそんなところだろうか。「さすがにうまい」と思わせるところと、過渡期ゆえの危うさなのか、惰性と半端な新規性の入り交じったような「淀み」を思わせるところとがある。「さすがにうまい」と思ったのは構成で、特に導入部の作り方。そこで、第1部の始めの方を順を追って具体的に説明しながら、その「うまさ」について言及し、同時に「淀み」の方にも触れていく形で書いていきたい。

今回の舞台装置は、三方を囲む壁と天板が作る白い部屋。奥の壁には大きな窓があり、その向こうに見えるのは黒一色だ。左右の壁には戸口が開けられている。まるで空虚であることが強調されているような舞台で、大きな自然的造形物が存在感を持って据えられていたり、敷き詰められていたりすることが多いこれまでの舞台とは大きく違っている。

舞台は実にゆったりと始まる。それでいて飽きさせることがない。気がつけば、いつの間にか「ピナ・バウシュ温泉」にどっぷりと使っている自分が居る。このさりげない「うまさ」はどこから来るのだろう。

フェルナンド・スエルス(小柄で髪を短く刈り込んだ男性)(*)が窓の向こうを通りかかるところから舞台は始まる。ダンサーが舞台に駆け込んで登場する場合もあるが、悠然と歩み出てくることの方が多く、その落ち着き払った物腰は、バウシュの舞台の一つの特徴だと思う。

スエルスは一旦上手に引っ込んで、ファビアン・プリオヴィーユ(もみあげの長い男性)と一緒にテーブルを取り出してきて、舞台の中央に置いてその上に2人で並んで座る。上体を真っ直ぐにしたまま真横に倒れるスエルス。彼がテーブルから落っこちそうになるギリギリのところで彼の足を押さえるプリオヴィーユ。

こんなありふれたアイデアなら、他のいろいろなカンパニーでもやりそうなことだ。たとえば伊藤キムと輝く未来の作品にこんなシーンがあってもちっとも不思議はないと思う。それがタンツテアター・ヴッパタールがやると、まさに彼らの舞台だなと思わせるものに仕上がる。ポイントは、2人の男性が、黒いズボンに白いYシャツという「普通の大人の社会人」の服装を着ていること、そして余計な色気も見せずにまじめに淡々と(ケレン味をみせたりはしないで!)やっていることだろう。これをコンテンポラリーダンスでよく見るようなカジュアルなTシャツや、ましてや意味ありげな創作衣裳でやってしまうと、全く別のものになってしまう。

ここで衣裳の問題へと寄り道するが、良く知られているように、タンツテアター・ヴッパタールではモダンダンス用向けに作られた衣裳ではなく、パーティードレスなどのパブリックな場で着る服が一貫して使われている。そうした衣裳が選ばれる理由は、よく言われるように、男女のジェンダーを強調するためであると考えられるが、同時に「大人」の記号的な表象も意図されている。男女間の悲痛な関係性が暴力的なまでに反復された80年代までの作品では、当然、衣裳は前者の戦略を担う面が強かったが、90年代くらいから男女間のそうした暗い緊張感が薄らいでいくと、後者の役割の方が主に効果を発揮するようになる。つまり、子供じみたことをして遊んでみせるシーンにおいて、彼らが「大人」としての記号を背負いつつそれをやっていることが、観客に一層の解放感を与えるのだ。

しかし、今回の作品のようにソロダンスが前面に出てくると、ソロダンスを観ながら、衣裳に違和感を覚えることもある。特に女性の衣裳。あんな風に胸が透けてしまうようなシースルーである必要はあるのか? どうしてあんなに古風なファッションなのか。音楽には新しい曲を積極的に採用しているのだから、衣裳ももっと今風のお洒落着でよいのではないか。むしろ、ソロダンスの時はその方がしっくりくることはないだろうか。これが「淀み」のその1。

作品構成におけるバウシュの美学
さて、話を戻して、スエルスとプリオヴィーユのシーンでは、上述のやり取りを繰り返し後で、プリオヴィーユが床に横向きに倒れ込むと、すかさずスエルスが袖から椅子を持ち出してきて、プリオヴィーユの尻にあてがう。すると床に転がりながらも彼が椅子に座った状態が出来上がって、彼はその姿勢を維持しながら起きあがる、というちょっとしたくすぐりのような部分がある。

これは1回限り行われるごくささやかなパフォーマンスで、繰り返されることもなければ、ここから何かを発展させていこうという発想もない。こういうごくささやかなアイデアを刈り込みもせず、かといってそれを利用してどうにかしようという余計な色気も見せない、というところがバウシュらしいセンスだと思う。第2部では、たとえば、ボールの上に立ち続けるディッタ・ミランダ・ヤジフィ(褐色の小柄な女性)の横で、アレクサンドル・カストレ(小柄で黒髪をなでつけた男性)が台座の付いた長いパイプを取り出してきて、パイプの一方の端から息を吹き込んで他方の端にある風船を膨らませては、それを掴もうとするというパフォーマンスがあった。2回だけ繰り返して、カストレは大急ぎで道具を撤去して去る。彼が居なくなってから「あれは一体何だったのか?」と思わず苦笑してしまう。

バウシュは「最小限の材料で最大限の効果を引き出す」というモダニスティックな方針とは基本的に無縁なのだ。今更指摘するようなことではないが、この点に関しては彼女の美学が「1980年−−ピナ・バウシュの世界」(1980)の頃と比べて変わっていないことを今回の作品で確認しておくことは意味のあることだと思う。というのも、演劇的シーンが減った後に際立ってきたダンスシーンは、干潮時の浅瀬に現れてくる石ころたちの佇まいのように、みずみずしく新鮮でありながら、潮が満ちる以前のことを思い起こさせるからだ。例えば、ヤジフィの最初のソロを、私たちが日本で見ることができた最も古い作品「タウリスのイフィゲネイア」(1974)に入れても−−衣装は別にして−−それほど違和感がないように思われる。ソロダンスの振付には、バウシュの昔ながらのテイストがしっかりと残っていることは確かだ。一方で、「タウリス・・・」の頃とは作品作りの美学が変わっていることも確かで、変わっていくものと回帰したもの、そしてずっと残り続けるものとが「過去と現在と未来の子どもたちのために」では折り重なって、重層的な光景を見せているのだ。

付随して言えば、第1部には私の見る限り、シーンやアイデアの反復が一度もなかった。第2部になってようやく、第1部に登場した幾つかのシーン(後述のメリーギとプリオヴィーユのシーンなど)やアイデア(巨大なブラシで髪を梳かすなど)が少しだけ再帰してくる。こうしたシーンの回帰の減少は、過去の作品構成とは違ってきている点の一つだと思うが、重苦しい作品には効果的であったシーンの再帰も、明るく開放的な作品にはあまり馴染まないからだろう。

さらにもう1点、作品構成における美学ということで付け加えると、第2部の最後のシーンが気になる。盛り上がる音楽の中、パフォーマーたちが交代で走り出てきてはソロダンスをつないでいき、次第に舞台が暗転していくという終わり方。ピナ・バウシュでもこんなベタな終わり方をするのかとちょっと驚いた。彼女はもはや、その演出方法が古いかどうかいった意識は超越してしまっている。周囲の価値観に抗って自分のやり方を押し通す必要もないし、ことさらに先頭ランナーであろうとする必要もない。ただ自分の打ち立てたジャンルを深耕していけばいい。こうなってくると、若い振付家にとっては重大なポイントとなる演出やアイデアの新規性といったことも、それほど大きな問題ではなくなる。しかし、そこには巨匠が陥りがちな罠も待ちかまえているのだが・・・

ヤジフィとフェルスター:作品世界を作る対極的存在
さて、パスカル・メリーギ(長身のややくすんだ金髪の若い男性)が、スエルスの持ち出した椅子を片づける形で登場し、メリーギとプリオヴィーユの次のシーンへ移る。2人は走り寄って抱き合おうとするかように両手を広げて相手に向かって突進し、激しく胸をぶつけ合っては、よろめいて分かれる。次はヤジフィとメリーギのシーンである。ここまではリレー式にパフォーマーが入れ替わって2人でシーンを作っている。メリーギはヤジフィを自分の腕に乗せてあやしてやる。ここで初めて「飛行願望」というテーマが控えめに顔を出す。ヤジフィは舞台の中央奥に立ってワンピースの裾をつまみ上げる。メリーギが手を入れて腰を掴んで彼女を持ち上げる−−大人が幼児に「高い高い」をするように。彼女がメリーギにするお返しがほほえましい。彼の足の膝の下辺りを両手で抱えて、揺すってやるのだ。

やがてメリーギはヤジフィを舞台の中央に残して去るのだが、去りながら何度も彼女を振り返る。「飛行願望」のテーマは、解放された状態への憧れ、自由の象徴、変身願望などとも結びついていると考えられるが、同時にそれらと矛盾するような、庇護を求める気持ちも裏側に隠されているように思う。自由に羽ばたきたいが、同時に見守っていても貰いたい−−親子の関係で子どもが抱く素直な気持ちだ。冒頭のスエルスとプリオヴィーユのシーンで、まずこの裏テーマが先に暗示され、メリーギとヤジフィのシーンまで来て、表のテーマと結びついたシンプルな形で示されるという段取りになっているのだ。

こうして、ヤジフィのソロダンスが準備される。乱暴に言えば、この作品の主人公は彼女だと言いたいくらいに、数回登場する彼女のソロシーンは作品全体を通して印象的だ。この後の男性ダンサーたちのダンスが身体の外へ外へと向かっていくのに対して、彼女のダンスは彼女の小さな身体の内へと向かっている。自分の身体の輪郭をなぞったり、表面にまとわりついたりする手の動きは、立ち位置を変えないまま手の動きを中心に踊るルッツ・フェルスター(長身の壮齢の男性)の動きとも明らかに違う。フェルスターの手は、身体の他の部位に対して操作的に振る舞うが、ヤジフィの手は、身体の内と外との媒介者のように振る舞っている。

ヤジフィのしなやかで弾力のある動きは、彼女の身体の脆さを連想させつつ、同時に、彼女を行動へと駆り立てる衝動が身体の内に宿っていることを感じさせる。身体の脆さとそれを危険に晒しかねない衝動についての暗示は、後半、彼女が死体か人形のように横たわっていて、男性パフォーマー(メリーギだったか?失念)が「ディッタ!ディッタ!」と叫びながら揺さぶり起こそうとするシーンや、彼女がボールの上にバランスを取って立ち続けている背景で、三方の壁が動いて大騒ぎが繰り広げられるシーンなどで、繰り返し行われる。

さて(と繰り返すが)、ゆったりとしたサックスの調べに乗って、フェルスターがこれまでに登場した3人の男性(スエルス、プリオヴィーユ、メリーギ)を伴ってやってくる。「気をつけ」の姿勢をしたフェルスターの身体を3人で持ち上げて、逆さまにして振り子のように揺すったりする。メリーギとヤジフィのシーンの変奏=大人バージョンだ。

ここまでが導入部、あるいは最初のブロックだと思う。ここまでに使われた3曲はすべてスローで、最初の曲などは伴奏だけが流れているようなシンプルなもの。初めての観客でも楽に覚えられるように、パフォーマーの登場も一人ずつゆっくりと行われる。ゆったりとした気持ちで彼らに馴染んできた観客は、もうすっかり「ピナ・バウシュ温泉」に浸かっているというわけだ。

ここで、曲調がテンポの速いワイルドなものに変わり、舞台に駆け込んで登場する初めてのパフォーマーはドミニク・メルシー(金髪の長い髪の壮年の男性)だ。彼はこの場面に限らず、それまでの舞台の空気を一変させる役目を担っている存在のようだ。彼の全身を投げ出すような大振りなダンスには、独特な魅力がある。あと少しでも遣りすぎたら自暴自棄に見えかねない、絶妙なところで身体をコントロールしている。ヤジフィのダンスとは違って、あまり長く見ていても持たないのも確かだが、彼にしかできない、彼の身体から生まれたダンスをやっているという迫力がある。古株の男性パフォーマーの中で、メルシーは、髪をきれいに整えてベストを着込んでいるフェルスターとは対照的なアウトサイダーだ。「・・・子どもたちのために」の作品世界には、ヤジフィとフェルスターという2つの極が据えられていて、その2極が形成する場からメルシーは外れたところにいるので、やや扱いに困っている感がなくもないが、彼が居ることで作品に広がりが生まれていることも確かだと思う。

魅力的なソロダンス。一方でダンス以外は質的にも衰退
メルシーによって生まれた活動的な雰囲気は若い男性ダンサーたちのダンスによって引き継がれていく。キャスター付きの板に腹這いになって逃げるライナー・ベーア(小柄で鬚の濃い男性)とそれをキャスター付きの椅子に乗って追いかけるメリーギ。彼らが舞台の上を動き回る中、スエルス、プリオヴィーユ、ホルヘ・プエルタ・アルメンタ(褐色の男性)のソロが続く。

背後で、エレーナ・ピコン(長身の痩せた女性)とナザレット・パナデロ(ドスの利いたしゃべりを聞かせる女性)が下手や上手のドアを閉めたり開けたりする。掲載写真はその一場面だ。ソロでは長くは持たせられないパフォーマーが踊る場合は、必ず脇でほかのパフォーマンスが進行するようになっている。完全なソロを持続的に見せるのは、ヤジフィ、メルシー、ベーア、フェルスター、メラニー・モーラン(ソバージュ気味のふくよかな中背の女性)くらいではなかったか。概して男性陣の方に優れたダンサーが多い。

バウシュは、全員が必ずどこかで1回はソロを披露すると決めているようである。瀬山亜津咲(日本人女性)、ジュリー・アン・スタンザック(長身のスタイルの良い女性)、アルメンタ、プリオヴィーユ、カストレ辺りはまだよいが、ピコンやパナデロのソロになると、「あれ、天下にその名の轟かせているカンパニーのメンバーが、こんなレベルだったのか?」と驚かされる。タンツテアター・ヴッパタールで彼女たちが担うべき担当はダンスでないことは明らかだ。タンツテアター・ヴッパタールは、実は決して全員がハイレベルのダンサー集団というわけではない。そのことを実感してしまった。バウシュはどうして全員にソロを与えなければいけなかったのか? 発表会じゃないんだからそんな必要はなかったはずだ。これが淀みのその2。

この後、瀬山とスエルスの絡み、瀬山のソロ(途中モーランが登場して二人でハートの絵を描く)を経て、瀬山がプリオヴィーユの背中に乗って、両手を広げて「飛行」を楽しむシーンになる。次第に飛行機ごっこカップルの数が増えていき、6組のカップルの輪の中央で、メリーギがソロを踊り続ける。女性陣が背中から降りて、それぞれが両手を広げて歩き回るようになると、舞台はわくわくするような遊びの気分に染められる。パフォーマー14人が初めて揃い、最初のクライマックスが作られる。ここからが第3ブロックで、ダンスが中心に据えられていた第2ブロックに対して、今度は「遊び」やコント、小話などが主になる。

しかし、「遊び」の部分に関しては、どうも不発なシーンが多い。男性陣と女性陣に分かれて、縄跳びの縄を使って女性を一人ずつ順番に男性陣の方へ送り込むシーンがすぐに出てくるが、これなど見ていると、「あれ? 似たようなシチュエーションで、もっと面白いシーンが過去の作品にあったような・・・」(「1980年」か?)という気がしてしょうがない。口に水を含んだプリオヴィーユがピコンを抱きかかえ、彼女が片手を伸ばすと、その手に水を拭きかけるというシークエンスを3回繰り返しながら下手から上手へ移動するというシーンがある。これもやっぱり、「口に含んだ水を吹きかけるアイデアで、もっと面白いシーンがあったはずだよな」と思えてしょうがない。過去の作品に比べて、イマイチなのだ。第1部の終わりの砂遊びのシーンも、新鮮な気持ちで見られた人には面白かっただろうが、私には「いかにもやりそうなこと」としか思われなかった。

バウシュのダンスへの回帰。それは、作品におけるダンスシーンの量的な増大だけを意味するのではない。質的な変化も伴っていると思う。第2部の終わりの方では、フェルスターがアメリカ原住民の寓話「コウモリになったわけ」を朗読する。最後の方で作品全体を象徴するような物語を聞かせるというのは、「ダンソン」(1995)でやった方法と同じだが、これも「ダンソン」に比べてあまり成功しているとは思えない。ゲーテの「旅人の夜の歌」のエピソードを語ったメヒティルド・グロスマンに比べて、フェルスターは日本がヘタで聞き取りにくいし、話も長すぎて、語りを聞き取るのに途中で疲れてしまうのである。

ダンスが前面に出てきたときに、それ以外のシーンはどうなるのか。質的に衰退したそれ以外のシーンは、ややもするとダンスの穴埋め的な時間にも見えかねない。今までと同じ発想や処理の仕方でやっていたのでは、自己再生産という罠に陥りかねない。これが淀みのその3。もっとも、ここにはもっと別の問題もありそうだ。今回の「・・・子どもたちのために」公演では、去年の来日公演までは出演していた一癖も二癖もあるカンパニーの中堅たちが結構抜けている。そうしたメンバーの問題が、ダンスへの回帰と複合的に作用して、ダンス以外のシーンの質的衰退を招いているのかも知れない。

しかしながら、そうした傷を補って余りあるのがダンスシーンの魅力である。今回の作品を観て半月近く経った今、あの公演を思い出そうとすると、私の場合、真っ先に浮かんでくるのは「遊び」のシーンやコント的なシーン、演劇的なシーンではなくダンスシーンだ。鞠のような弾力でピョンピョン跳ねて見せたヤジフィのダンスや、自分の腕を追いかけてどこまでも疾走していくようなスエルスのスピード感溢れるダンス、ストローの袋が水を含んでビヨーンと伸びるみたいなユーモラスなベーアのダンスである。カンパニーの今後の課題−−観る側にとっては注目点−−は、メンバー構成という面も含めて、こうしたダンスの魅力を他の要素との関係でどう活かしていくか、ではないかと思う。

以上、長々と書いてきたが、このように、何かを書こうとして公演に向かうとき、ピナ・バウシュの作品は、他のダンスメーカーの作品とはまったく違うものとして立ち上がってくることに気がつく。それは、実にさまざまなアプローチや切り口に対して、作品が開かれているということだ。それゆえに、観た人は誰でもなにがしかのことを容易に語り始められるし、一方で研究者や評論家は、問題意識をどう設定するかという難しさに直面することだろう。公演評などバウシュに関する文章を読んで、「わかりきったことしか書いていないなあ」と思うことも少なくない。私は研究者でも評論家でもないが、Webに書いたものを公開している身として、果たして誰かの参考になることを提示し得たのかどうか、はなはだ心許ない。感想、反論、補足、情報(このページに鋭い評論がある)など、メールや掲示板などでご教示頂ければありがたい。
(2003年11月28日記,稲倉達)



(*1) ダンサーの同定は、舞踊団のWebサイトに載っている顔写真と、作中でダンサー同士が呼び合う名前を主な情報源として行っているが、100%正しいと言えるほどの自信はない。もし間違いを見つけられた場合は、ご一報いただければ有り難い