伊藤キム+輝く未来「劇場遊園」――バッド・ボーイの楽しい遊び('03年12月14日)

構成・演出・出演:伊藤キム
振付:伊藤キム+輝く未来
合唱曲作曲・指揮:足立智美
楽曲提供:齋藤マコトほか

今回の作品は、世田谷パブリックシアターという上演スペースを、通常の使い方をせずに遊ぶというコンセプト。伊藤キムはプログラムに「もともと僕はダンスの世界では異端児であり、海外では「bad boy of BUTOH」などと呼ばれるが・・・」と書いている。一昨年の創設されたばかりの朝日舞台芸術賞での寺山修司賞受賞、昨年の「日韓・日韓中PAC2002」での国際コラボレーション作品振付など、いまや彼の活躍は、世代の中核的な存在と彼を呼ぶに相応しいものにしつつある。でも、伊藤自身はそんな自分にちょっと当惑しているのではないか。プログラムの文章には、「自分はセンターにいてシーンを牽引していくような柄ではない。むしろ周縁に居るトリックスターが本分なのだ」と言いたい気持ちが滲んでいるように思えてしまう。

今回の「劇場遊園」は、まさにそんな想いで作られた公演ではなかろうか。ここには特に問題提起を孕むような実験精神もなければ、志の高い戦略も見られない。自身のソロもなおざりだ。本当に遊んでいるだけなのだ。その遊びは実に楽しい時間を提供してくれたが、やはり物足りない。

ロビーやホワイエを上演スペースとした15分間の第1部は、「カラダ市場」などといった大層なネーミングが付けられていたりするのだが、実際にはただ、場所に関わらず彼らは同じことをやれるということを示したに過ぎなかった。ただし、4フロアで同時上演しているので、私が肝心なところを見逃しているのかもしれないが。それにスペースに対して観客が多すぎて、混雑して見づらく、移動しづらかった。この点、もっと企画段階で配慮されるべきだ。

ともあれ第1部は「ついで」で、メインは第2部(60分)だろう。20分の休憩時間があり、その間に観客は、舞台の上に設営された客席と、2階3階の両脇の席へ移動する。上演スペースは、劇場が本来備えている客席と、舞台と客席の間に位置するかまぼこ型の前舞台(の撤去されたスペース)になる。

包丁を逆手に持つような使用方法にも関わらず、音響と照明は良くできていた。相当の苦労と工夫がなされたのではないか。反対に、舞台に本来備わっている装置を利用して、舞台の上の観客にもっと働きかけても良かったのではないかと思った。あるいは、パフォーマンスを舞台の上にまで入り込ませても良かったのではないか。それ以外にも、上演を体制付ける劇場という装置への問いを発する試みを探ることがいろいろと出来たと思われるが、伊藤は、観客席をいわば舞台装置に見立てることに徹したかったようだ。

もしかすると、第2部の冒頭−−幕が上がったときに、舞台上の仮設席に座る観客が受けるショック、笑いを誘うような違和感に、彼はすべてを賭けたのかもしれない。幕が上がって薄暗い観客席の空間が視界に広がると、そこには、一人一人の足下からの照明で浮かび上る深紅のワンピースを着たパフォーマーたちが散在していて、彼らは速いテンポで両手を振り上げる動作を繰り返している。その時、びっしりと椅子の並ぶその空間が、なんとも奇妙な空間に見え、その奇妙さを成立させるに至った劇場一般の歴史というものを一瞬だけ考えさせられた。この効果は、上演された劇場がもっと古いものだったら一層高まっただろう。それにしても、コンテンポラリーダンスの公演に来て、プロセニアムの前(本当は背後だが)で幕が上がるのを待つなんていう体験は、久しくないような気がする。

私は「階段主義」(2003)を見ていないので、伊藤が33人もの出演者を使いこなして作品を作り上げられるようになったことに少なからず驚いた。バッド・ボーイとして振る舞いながら、遊びを通して彼は彼なりに成長しているのだろう。足立智美の指揮による即興的な合唱パフォーマンスの挿入も、彼の遊び心がもたらした収穫の一つだろう。ただ、今回は幕間の余興のような状態に留まった。足立の足下にうずくまっていた伊藤は、結局最後までピクリとも動かなかった。

前舞台で行われた伊藤のソロは、天を仰いだり、プロセニアムの壁をなで回したりして、劇場空間へ関わろうとする意志こそ感じられたが、発展性に乏しく、彼のソロにしては期待はずれのものだった。

構成面では、後半、客席を34人のパフォーマーが暴れ回り一旦カオティクになってしまうのだが、最後に冒頭のシーンへと戻っていくところが彼らしい。冒頭のブルックナーを連想させるトレモロに教会の鐘の音がかぶさるところとか、男女のデュオになってのパイプオルガンの音色(バッハのコラールで聴かれるようなストップ)のメロディーとか、音楽はクラシックな雰囲気が意識的に選択されている。彼のクラシック好みは今に始まったことではない。彼の出世作「生きたまま死んでいるヒトは死んだまま生きているのか?」(1996)ではラヴェルのピアノコンチェルトだった。その時、股間を押さえる裸の男たちが背後に並んでいても、決してお下劣にはなってしまわないのは、彼が本来持っている品のなせる技だろう。伊藤は同世代の中ではかなり古風な美意識の持ち主で、彼の本来の資質は、決してアウトサイダー的なバッド・ボーイなどではない。

にもかかわらず、彼がダンスメーカーとしてバッド・ボーイ的に振る舞ってしまうところは、ダンサーとしての彼が持っている魅力(過剰な自意識から生まれるユーモア)と表裏一体の関係にある。そして、彼のしなやかでほっそりした身体が、彼に少年的なイメージを与え、その魅力を一つのキャラクターとして際立たせているのだ。そんな彼の少年的な魅力を愛しつつ、いつまでこのキャラでやるつもりなんだろうという不安がある。1965年生まれだから、実際にはもう40近い年齢だ。そろそろバッド・ボーイというセルフイメージから脱して、持てる才能と資質に対する責務を果たして欲しい。
(2003年12月14日記)