ガブリエル・ブラントシュテッター講演「歩行とダンス/動きの型──マース・カニングハムからアンナ・フーバーと同時代の女性振付家まで──」('03年10月27日)

2003年10月24日(金) 特別講演「歩行とダンス」
早稲田大学演劇博物館21世紀COEプログラムの企画として行われたガブリエル・ブラントシュテッターの講演「歩行とダンス/動きの型──マース・カニングハムからアンナ・フーバーと同時代の女性振付家まで──」というものを聴講(通訳:長谷川 悦朗(早稲田大学)、アドバイザー:貫 成人(専修大学))。Prof.Dr.phil. Gabriele Brandstetter女史はベルリン自由大学演劇学研究所教授。過去にも日本で講演をしているようだ。この日は、(1)B女史のドイツ語での講義、(2)日本語訳、(3)アドバイザーが解説を加えつつ言い直すという三段構えで、親切なようでいて、B女史本人が正味に言っていることはなんであったのかドイツ語のわからない人には曖昧であった。勿論、私の理解力の問題もあろうが。以下、ごく簡単なメモ:

  1. 冒頭、カントなどの哲学者や文学者の歩行に関するコメントが引用される。
  2. バレエを見れば、ダンスが歩行の芸術であったことがわかる。。一歩一歩の歩みであるステップ=「パ」にはすべて名前が付けられている。ただし、「普通の歩行」ではなく、「反省された歩行」である。
  3. ダンス作品で「普通の歩行」を取り上げた例として、カニングハム「How to Pass, Kick, Fall and Run」(1965)などがある。この作品では、ダンサーたちがただ歩いて横切ったり、走ったり倒れたりする。(マラン「拍手は食べられない」はこの作品のパロディかも知れないね、とのこと)
  4. フォーサイスは「gaenge」(1982)で「パ」そのものをテーマとし、「パ」の名前を言ったり、カウントしたりしながら寝転がって「パ」をやってみせた。メタ・バレエと言える。
  5. ポスト・モダンダンスでは、芸術と日常の垣根を取り払うことが課題となり、ダグラス・ダン(ジャドソン教会派)が、「振付と地図の作成はパラレルではないか。街の中を地図を持って人々が歩くことは振付に従って踊るようなもの」といった趣旨の発言をしている。
  6. ドイツの演劇にはタンツテアターの影響で演出に歩行を頻繁に取り入れる演出家たちがいる。
  7. 最近では、アンナ・フーバー「等しいものと異なるもの」(1999)、ジェローム・ベル「Last Performance」(1998)、トーマス・ハーウェルト「Verosimile」(2000)と言った作品に歩行に注目する態度が見られた。
  8. 歩行への注目のされ方を見ると、(1)芸術と日常の境界を問題とする場合の素材としての関心、(2)むしろ歩行が歩行として機能しない場合が興味の対象になっている、などの傾向が見られる。これはデリダのオースティン批判と重なっている。
  9. ローリー・アンダーソンは、「人は歩きつつ転んでいるのだ。歩を進めると言うことは、転んでは身を起こしていることなのだ」という趣旨のことを言っている。
  10. 最後にアンナ・フーバーの「フリューゲル(翼、あるいはピアノ)のある作品」(2000)からの抜粋がビデオ上映された。(前半は、2枚の白いリノリウム・シートの合わせ目に両足をつっこんで歩きにくそうに動いているパフォーマンス。後半はそのリノシートの下に潜り込む)
と、こんな感じだった。ざっと西洋舞踊史を振り返って、歩行にまつわるネタをいくつかピックアップしてみた・・・そんな内容だ。カントへの言及などの辺りに、歩行とダンスの関係に対する彼女の問題意識がちらっと見えているような気がするのだが、その辺、どうなのかよくわからない講演だった。面白い議論はその後の質疑応答にこそあったのかもしれない。しかし、残念ながら見に行く公演があり、参加できず。


フーバーの作品を見て、デリダ的と面白がれる知性は私にはない。歩行に限らず、日常的な行為が非常に困難になる状況や、簡単なことを多大な努力を要して遂行する、という設定で、私にも面白がれるようなパフォーマンスは、もっといろいろあったような気がするのだが、ちょっと思い浮かばない(水と油?ジョセフ・ナジ?)
(2003年10月27日記)