ROSAS:「レイン」から「ワンス」を読む('03年10月21日)

2003年10月4日(土) 15:00 さいたま芸術劇場大ホール
アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル:「Once」
振付・出演:アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル
音楽:ジョーン・バエズジョーン・バエズ・イン・コンサート パート2」(ライブ収録アルバム)
初演: 2002年11月27日 ブリュッセル ローザス・パフォーマンス・スペース )
2003年10月11日(土) 15:00 さいたま芸術劇場大ホール
Rosas:「Rain」
振付:アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル
音楽:スティーヴ・ライヒ「18人の音楽家のための音楽」(1976)テープを使用
衣装:ドリス・ヴァン・ノッテン
初演:2001年1月10日 ブリュッセル モネ劇場

『Once』における謎めいたケースマイケルの態度
暗がりの中で、古ぼけた戦争の映像(いったいいつの時代のものだ?)の前に仁王立ちになり、自らの裸身を浮かび上がらせているアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル。その鬼気迫る姿に圧倒されつつも、『Once』(2002)を見終わった後で、なにか腑に落ちない感覚が私の中に残った。

彼女が作品の中で見せた、作りかけの振付でも見せているようなラフで断片的なダンス。ラストにおける決然たる彼女の態度とあれはどうつながるのか? あるいはこんなギャグめいたシーンがあった−−舞台の下手手前にレコードプレーヤーがあって、彼女が自分でLPに針を落とす演技をすると「ジョーン・バエズ・イン・コンサート パート2」が流れ始める。演技を見抜いた観客も、彼女が舞台の上で掛けたレコードに合わせて踊るというシチュエーションが想定されているのだと、当然このときは思う。それからはボリュームが絞られたりする部分はあるもののだいたいはレコードを掛けっぱなしにした状態であり、これがこの作品の音楽の全体となるのだが、途中でケースマイケルが慌ててプレーヤーに駆け寄り、LPをひっくり返すシーンがある。おそらく、気がついたらB面の曲が流れていた、ということなのだと思う。少し遅れて音楽が急に止まる。ボリュームを絞らずにテープを止めたときのように、キュンと瞬間的な音高の下降を聴かせながら・・・。ジョーン・バエズの歴史的意味性を利用しながら、同時にそれを利用している自分を笑うようなそぶりだ。この彼女の態度をどう受け止めたらいいのだろうか?

割り切れない気持ちを抱えたまま、翌週『Rain』(2001)を見に行った。こちらは実に気持ちの良い、ダンスを見る快楽に溢れる舞台だった。しかし、ここにも、そのままには受け取れない仕掛けらしきものが見受けられる。それは、一昨年、『Drumming』(1998)の上演を見たときに気になっていたものと同じような要素だ。

この仕掛け−−『Rain』、『Drumming』における戦略(おそらくもっと以前の作品『Achterland』(1990)などにもそれは現れていたと思うが、とりあえず、記憶に新しいものについてだけ語ることにする)について考えることで、『Once』におけるケースマイケルの韜晦めいた態度を自分なりに読み解けるのではないかと思った。以下、それをやってみようと思う。

『Rain』などに見られる「装われた個人の層」
『Rain』や『Drumming』から私が見取ったことは、ケースマイケルの作る舞台は、どうやら3層構造くらいになっているということだ。最も表面に見えている層は、振り付けられた身体たちのムーブメント。振付家、ダンサー、そして観客が共同で作り上げる仮想された身体とその活動であり、一般的にモダンダンスなどの舞台が見せているものがこれである。

そして、普通ならば、その下に生身のダンサーたち自身の層が存在している。観客は、振付家とダンサーたちが提示しようとしているものとは別に、その踊りを踊っている個々人を一人の人間として見ることができるわけである。具体的には、例えば、ダンサーが踊りの過程で思わず見せてしまう表情−−出だしや難所を前にした緊張感、次第に滲んでくる疲労感、そして安堵感など。あるいは、舞台の袖などで素に戻った彼らが見せる仕草(そういうものが見えてしまった場合)。さらには、観客が事前に仕入れているダンサーに関するさまざまな背景知識−−これまで歩んできたキャリア、故障を抱えているなどの肉体的な状態、パートナーとの恋愛関係がどうなっているかなど−−を念頭においてダンサーの頑張り具合を見るような場合に現れてくるものも、この層に含めて良いだろう。

早い話が、例えば、バレエ[ ロミオとジュリエット ] でディアナ・ヴィシニョーワがジュリエットの役を踊っていたら、彼女をジュリエットを演じる者(彼女なりのジュリエットのリアライゼーションの在り様)として捉えた時に見ている層と、役柄とは直接関係のないヴィシニョーワ一個人として捉えた時に見ている層があるということだ。

ところが、ケースマイケルの場合は、従来この層の要素として捉えられてきたものの幾つかを、彼女が事前に用意して、ダンサーたちに演技させるのである。実際のところ、どこまでが演出でどこからが自発的なものなのかよく判らないのであるが、彼女の作品で見られる、ダンサー同士が微笑みあったり、目配せしたり、時にはちょっとお喋りしたりふざけあったりするシーンは、「込み」で考えられているようなのだ。つまり、ケースマイケルは、従来捉え方で言う「作品の層」と、「個々人としての人間活動の層」の間に、中間的な「装われた個人の層」を挿入しているのだ。あるいは、作品層を主に考えれば、従来のダンス作品の枠組みの周縁をそうしたもので飾っていると見ることも可能だろう。

ここで、観客を幻惑させることには−−というか、それこそがケースマイケルの戦略だと思うのだが−−、ローザスがやっているようなコンテンポラリーダンスにおいては、ダンサーが具体的であれ象徴的であれ、ある特定の役柄や性格付けを背負わされることなく踊ることが多く、「作品の層」と「個々人としての人間活動の層」の境界を否定しようとしたり、あいまいにしているということだ。『Rain』の場合も、ほとんどそのような典型的なコンテンポラリーダンスとして見える。

ダンサーの表情は基本的に無表情(微笑んでいる人もいるが)で、ムーブメントだけを見てくれ−−というスタンスが、作品の主要部分を占めている。しかし、そこに彼女は演劇的要素を少しだけ導入する。『Rain』だったら、例えば上手の端の方で男性ダンサーが舞台に残っている女性ダンサーの腕を引っ張って、まるで捌けるのを忘れていた彼女をフォローするかのように舞台の袖へと連れ去る。逆に背中を押して舞台の中央へと押しやることもある。池田扶美代と社本多加が並んで歩きながら言葉を交わし合うようなシーンもあった。

こうした要素の中で、予め周到に用意されて振付に有機的に組み込まれているとしか思えない例として、次のような場面が挙げられる。社本が背の低いブラウンヘアの女性ダンサー(おそらくマルタ・コロナド)とすれ違いざまに彼女の髪を手でくしゃくしゃとやるという場面があって、その後しばらくして、社本が男性ダンサーとデュエットを試みようとしている時に、コロナド(たぶん)が仕返しに、踊りを邪魔するように彼女の背中を押して逃げるというシーン。このようなシーンを見てしまった観客は、それまで「個々人としての人間活動の層」として目撃していたディテールについても、実はケースマイケルによって周到に仕組まれたものではないか、と振り返って疑わざるを得なくなる。

ラフであることの美学
この点と関連する、ローザスの舞台の大事な特徴として、振付の実演をラフなままにしておく、ということがある。個々のダンサーが振付を遂行する際に現れてしまう動きのノイズをあえて残しているのだ。相当ハードな練習をしていると思われるし、ケースマイケルは作品にかなり細かく神経を行き渡らせるタイプの人だと思うが、だからこそ、意識的にやっているとしか思えない。例えば、歩行からソロダンスへ入っていくときの彼らの無頓着さや、デュオで見せる危なっかしさすら漂う雑な感じに、それを見取ることが出来る。非常にはっきり見えるのは、全員が一列に並んでユニゾンで踊る中で腕を挙げるようなシーン。手を挙げるスピードが人によって違うのだ。どうみてもわざとやっているとしか思えない。こういう不揃いをライヒの音楽に由来するというむきもあるかもしれないが、ライヒの音楽のように論理的に設計されたズレではなく、単なるバラバラにしか見えない(*1)

こうした要素をどう考えるべきか。一つにはそういうラフさがカッコイイというケースマイケルの美意識から来ているのだろう。なぜ、これがカッコイイかというと、ダンサーが作品に対して距離を取り、作品に対する従順さを保留にして自分自身を保持しているように見えるからだ。体制に完全には順応してしまうことを拒む若者のポーズだ。むろん、そういう態度は、ある人にとってはカッコイイが、別の人々にとっては青臭いと言うことになる。ローザス創立メンバーの一人である池田扶美代は次のように発言している。


「水を飲んだり、鼻をかんだり、包帯をつけたまま踊ったり、なにもかくさない態度というか、アチチュウドというのは、Rosasスタイルに定着しましたが、どこか生意気というか若かったのでしょうか。でも今でも相変わらずやっていますけれども」
log osaka web magazine 池田扶美代インタビューより)
しかし、ケースマイケルたちはこれを単に不良っぽく粋がってやっているのでもなければ、「それがRosasスタイルだから」という自己再生産的な消極的理由でもなかろう。

このラフさは、前に書いた「個々人としての人間活動の層」を「作品の層」に抗して前面に出す態度と見ることも出来る。そして、ラフさは意識的に作品に組み込まれているのだから、実はこれも「装われた個人の層」の一つの形態なのである。

ダンサーたちのユートピア/観客が生成過程を体験するダンス
では、なぜケースマイケルが「装われた個人の層」を用意したのか? それは「個々人としての人間活動の層」を取り込んだ形で作品を成立させる必要性を、彼女が感じているからだと私は思う。というのも、彼女の作品作りには、極めてモダニスティックな面があるからだ。音楽構造から作品の構造を導出したり、黄金比など数学的な発想を作品デザインに援用したりして、すべてを鳥瞰する神のごとき視点で設計図を決定していく(スタジオでのダンサーたちとの試行錯誤のプロセスはともかくとして最終的な決定においては)。しかも、その振付においては、ダンサーたちの動線は不規則で、ダンサー同士の関係も刻々と移ろっていくというような複雑極まりないものだ。ダンサーたちは、集中力の持続といい、運動量といい、相当にヘビーな課題を背負わされることになる。

このような性質を持った抽象ダンス作品を、上述のような戦略を伴わずに提出したらどうなるか。そうすると、舞台の上では作品とその背後に居る振付家が神のように君臨し、ダンサーたちは神の意志によって用意された美の再現のためにひたすら励むというような構図が出来てしまう−−つまり、今風の好みにアレンジされたバランシン作品のようなものである。たとえ、フォーメーションからシンメトリーを排除したり、ステップでモダンダンス的なボキャブラリーを崩してみせても、これでは本質的にモダニズム信仰者と見なされてしまっても仕方がない。

もちろん、彼女がやりたいことはそんなものを作ることではないだろう(*2)彼女は、ダンサーたちを絵の具として扱って、舞台に自分を表現する絵を描きたいわけではなく、実際にパフォーマンスを行うダンサーたちの息づく活動を自分の考える理想的な形で観客に見せたいのだと思う。

思わず、ケースマイケルを勝手に代弁するような言い方になってしまったので、言い換えるよう。『Rain』や『Drumming』の舞台から立ち上がってくるもの−−そのように私が幻視してしまうもの−−は、ダンサーたちの仮想されたユートピアのようなものなのだ。振付や照明などによって構成された「作品の層」は、全体に美的調和を保証するが、同時にダンサーたちにとっては、活動するための「きっかけ」か「言い訳」のようなものでしかない(ように見えるように演出されている)。

『Rain』や『Drumming』を観ることは、私にとって、予定通りに実現されていく作品そのものの美的鑑賞体験であるよりも、ダンサーたちがそれぞれに自分のやるべきこと、他の仲間たちがやろうとすることを互いにわきまえていて、共に作品を現実化していく、そのプロセスに立ち合ってそれを共有するという体験であった。そのプロセスは辛い体験であると同時に楽しい−−過酷な要求を背負わされたダンサーたちの真剣な戦いであると同時に、遊びでもあるというふうに見えてくる。ここでいう遊びとは、ロジェ・カイヨワが遊びを指して「自律的純粋社会のイメージを与え続ける」と言ったような活動の側面のことだ。

遊び心の発露を感じさせてくれるようなシーン(社本とコロナド(たぶん)のふさげ合いなど)の背後には、かつてスタジオでダンサーたちと試行錯誤してこの作品を創っていた時間があり、その過程で生じた実際のシーンをその時の楽しい気分と一緒に冷凍保存して、作品の中に組み込んでいるのかもしれない。スタジオでダンサーとケースマイケルたちが体験した創造的愉楽の時を、舞台で解凍して観客と分かち合っていると見ることも出来そうだ。

こうした素晴らしいビジョンと体験を観客に提供するために、ケースマイケルは「装われた個人の層」を挿入することで、「作品の層」を括弧に入れて、それをいわば現実に対するイデアのようなものとして、舞台の上の活動から切り離されてあることを強調したのだと思う。

このように重層化することで、作品に奥行きを与えることが出来る。もしも、他で試みられているように、即興という手段を採用することで、生成するプロセスを観客と共有しようとした場合には、今ここしかないのだから、奥行きを失うし、全体の美的調和も手放さなければならなくなる−−もちろん、それが悪いということではない。ケースマイケルは、それを望まなかったのだ。

『Once』におけるケースマイケルの挑戦
このような態度を示す作品を持っている芸術家としてケースマイケルを捉え、その彼女が作った作品として『Once』を改めて、思い返してみると、私はあの作品をようやく納得できる。
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この作品もまた、同じように多層的に構想されているのである。表層には、ジョーン・バエズが持っている歴史的意味性や「9.11以後」という現在の状況との関係("We shall Overcome")、ラストで映し出される戦争の映像が示しているように、これは反戦メッセージ、あるいはテロへの過剰防衛と引き替えに市民の権利を制限しようとするアメリカへの警告を担ったダンス作品という層がある。だが、これは実は、この作品の最大の眼目ではない。より重要なのは、その下にあるケースマイケルという個人のダンサー/ダンスメーカーとしての活動の層である。

彼女は、バエズのコンサートの録音との関係や距離の取り方をさまざまに変えながら−−時に同化するように振る舞ったり、時に批判的な態度を示したり、あるいは歌詞の内容を過剰な演技で装飾したり(突如、毛布に顔をうずめるなど)−−、少し踊っては中断してしまう断続的なダンスを見せていた。あれは今思えば、彼女が一人スタジオに居て、今まさに反戦的メッセージを込めたソロ作品を作ろうといろいろ試しているプロセスに、観客を立ち合わせようとしていたのではないだろうか。『Rain』で、ダンサーたちが作品を現実化していくプロセスを観客と分かち合おうとしたように。

考えてみれば、ケースマイケルは、政治的なメッセージを自分の作品にストレートに担わせるようなことをするタイプの芸術家ではない。こと、「9.11」に関してだけは例外かもしれない、という気もしたのだが、やはり違うだろう。彼女は過去にも政治的メッセージを明示的に含むような作品を発表しているが、そういう場合にも、メッセージに対して一筋縄ではいかないアプローチをする。例えば、初期の作品『Elena's Aria』(1984)は、社会における女性の地位について政治的発言をテキストとして含んだ作品だが、ダンサーたちの振る舞いは時にテキストに矛盾するようなものであった。


「彼女たちは、不幸で孤独な犠牲者として提示される一方で、同時に、タイトなミニのドレスにセクシーなスティレット・ヒールを履いて恥ずかし気もなく太股の上部を見せる妖婦も演じている。Rosas の女性たちは挑発的で、入り交じったメッセージを送っているのである」
(Sandra Genter, "Anne Teresa De Keersmaeker", in Fifty Contemporary Choreographers, ed. Martha Bremser, New York: Routledge,1999)
そもそも芸術家が自分の作品に政治的メッセージを込めるとはどういうことなのか。単純にメッセージを含んだテキストや歴史的意味性を担わされたオブジェクト(ジョーン・バエズライブコンサート)を取り入れることで、芸術家は自分の仕事をしたことになるのか? そうではあるまい。それなら、観客はバエズのレコードを直接聴いた方がいいのであって、ケースマイケルのやっていることは芸術家として寄生的行為に過ぎないことになってしまう。そうではなくて、メッセージがダンス作品としての成り立ちに有機的に組み込まれていて、取り入れられたテキストやオブジェクトの意味するところを超えて、その作品を味わうことが、「9.11以後」という事態に対する観客の意識変革につながるようなものでなくてはなるまい。

そのような芸術的創造性は、芸術家が「9.11以後」という問題を自分の問題として真剣に考え抜いた上でなければ不可能である。マスコミに氾濫しているようなレベルの反戦論、アメリカ批判を借りてきたテキストやオブジェクトの力に頼ってやっているような芸術家は、はっきり言って、「9.11以後」という事態を自己宣伝に利用しているのではないか、と疑われても仕方がないと思う。

自分でろくに考えもせずに、世間的に見て正しいと思われるようなことを言っているような芸術家(そして評論家も)は、まともな仕事をしているとは言えないわけで、だからこそ、ケースマイケルは、自分が「9.11以後」を問題にするような作品を作ろうとしたときに、いきなり「9.11以後」とは何か?と問うのではなく、まず自分自身に引き寄せて、自分にとってこの問題のとっかかりは何か?自分はまず何に向かい合うところから始めたらよいのか?という問いを立てることから始めたのではないか。そして、今回は「9.11以後」を直接的に問題にするような作品には到達しなかった。問題から一歩退いて、現在の状況に対して、芸術家として取りうる真摯なあがきを提示してみせたのではないか。

ところで、彼女はこの困難な課題を、同時に、自分のキャリア上の挑戦にも重ねている。再び自ら舞台に立って自分の踊る作品を創ること。もう一度原点に立ち戻って、新しい出発を目指すこと−−実のところ、このような欲求がまず先にあって、それが彼女に「9.11以後」というテーマやジョーン・バエズライブコンサートのレコードを選ばせたのではないかという気がする。

『Once』という作品が持っていた強度の源泉は、「9.11以後」というテーマの重さにではなく、そのような彼女の芸術家としての挑戦的意欲にあるのではないか。ローザスを設立してのこの20年間、彼女は十分な名声を博した。誰もが認める独自の作風を確立した。しかし、そうしたことは今の自分にとっては過去のことだ(once)。自分はそれらに寄りかかってしまうことなく、新たな創造に向かっていくのだ−−『Once』を上演する中で、靴を脱ぐことから始めてストリップのように一枚一枚身につけているものを捨てていき、ついにはショーツ一枚になって観客の前に仁王立ちになる彼女から感じた気迫は、きっとそういうものだったのだ。(2003年10月21日記,稲倉達)

(*1) それに「Music for 18 Musicians」は『Fase』や『Drumming』で使われた曲とは違うアイデアで作られた曲だ。後者が漸次的にズラしてモアレ効果(漸次的な位相変移プロセス)を聴かせる曲であるのに対して、前者はフレーズに音符単位の追加(加算プロセス)を行い、フレーズが不連続に変わっていく曲なのだ。ライヒの「Drumming」と「Music for 18 Musicians」がこのように明確に違うアイデアに基づいて作られているにもかかわらず、『Drumming』と『Rain』には、その違いに対応するような明確な違いが見られないことに注目して良いと思う。ケースマイケルというと、「音楽の構造を厳格に振付に反映させる振付家」というような言われ方がよくされるが、だからといって、作品構造を音楽構造に密着させて、一対一対応的に作るとは限らない。実際、『Rain』については、音楽が11のセクションから構成されているのに対して、「ダンスは、9つのパートからなっていて、黄金分割の比率に呼応しています。ですから、ダンスと音楽はシンクロすることもあれば、フェーズがずれていることもあります」(プログラムから)とケースマイケル自身が書いているのだ

(*2) 作品を見れば自明だと言いたいが、たとえば、今回の公演プログラムに収められた、こんな彼女の言葉を引用しておいてもよいかもしれない。「表現という点では、とりわけクラシック・バレエとのつながりを強く感じています。ところが、観客へのコミュニケーションや語りかけ、私にとっての「踊る」ということの意味、ダンスの楽しさ、その楽しさを分かち合うということを考えると、バレエでは十分に果たせないのです」(外山紀久子のインタビュー「形式と感情の邂逅」より