櫻井郁也「光年呆呆〜非暴力と不服従へのダンス第4番」――踊りへの愛に優る作品作りへの情熱('03年10月29日)

2003年10月24日(金) 20:00 planB
櫻井郁也「光年呆呆〜非暴力と不服従へのダンス第4番」
構成・振付・出演:櫻井郁也
美術・衣裳:櫻井恵美子

「9.11」を契機に始めたシリーズの第4弾。休憩を挟んで35分+40分の2部構成で、近頃には珍しく「言いたいことが山ほどあるのだ」と思わせる公演だった。全体を通して、絶え間なく流れる音楽と音響のコラージュがドラマを見事に形成し、長丁場の舞台を飽きさせない。空間の使い方も考え抜かれていて、決して広いとは言えないplanBの空間を見事に使い切っている。

第1部では、中央奥に帯状の白い布が天井より下がり、その下手前に水を張った四角い金属製の盆が置かれているのだが、櫻井はこの水盤の周りを反時計回りに巡って、再び反転するというシンプルな流れを立ち位置の骨格として採用した。このプランは成功していると思う。そして、観客の目前に立つときは一個の見捨てられたよるべない肉体と見え、水盤の向こうへ遠のくときはさまざまな無名の情念が生み出した幻影と見えるその様は、わずか5メートルもない舞台に深い奥行きを成立させた技のなすところだろう。第1部では水平面での移動が意識されていたのに対し、第2部では垂直方向が強調される。小石を途中に括り付けた数本の紐が天井から格子点を形成するように吊され、まったく異なる空間が立ち上がる。ダンサーの天井を仰ぐポーズも印象的。地上の煩悩にまみれた状況から、天上を志向する浄化された心境へ−−オーソドックスとすら言いたくなるような良くできた作品構成だ。

音楽・音響や空間の使い方など、作品構成において櫻井が手練の作家であることは間違いない−−もっとも、それが彼の掲げるテーマにおいて有効であるかどうかは別問題ではあるが。しかし、なにより問題なのは、最大の弱点が彼の身体であることだ。ほとんどそれだけで作品を作り上げてしまっているかのような音楽と音響のコラージュに気分を委ねてしまうのを抑制し、彼が意味ありげにやってみせる諸々の儀式的な行為−−ロウソクに火を点けて、水に浮かべる。天を仰ぐ、床にひれ伏す。などなど−−からも心理的な距離をとるとき、いったいどんな身体が見えてくるのか。

いや、ダンスに儀式的な動作があっても一向に構わないのだが、動きが十分に様式化されていないことが問題なのだ。彼のポーズやステップ自体には面白みがあるが、それを遂行する過程で現れる身体の動きそのものは実に普通である−−早い話が日常で見かける普通の身体なのだ。それは、彼が行為の意味性に強く囚われてしまっているからではないだろうか。例えば、両手を広げてみせるときは、両手を広げるという行為が暗示する意味性にもっぱら自分の表現を託してしまっているために、それを遂行する身体そのものが持ちうる可能性−−多義的な喚起力に対する注意が十分に払われていないように思われた。しかし、ダンスの力は後者にこそあるのであって、ダンスはさまざま行為を記号的に提出して意味伝達する場ではないだろう。

さらに言えば、下半身が踊りから取り残されてしまっているようなところも気になった。例えば第2部の後半で、延々と回り続けるシーンがあるが、その時の足さばきはダンサーのものとは思えないほど雑に見えた。ただ回るという行為がありさえすればよいのか。頭のてっぺんから爪先まで、身体の丸ごとが観客に提示されているのではないのか。これは推測だが、彼の場合、自分の身体を踊る身体として練り上げていくことよりも、作品を創ることへの熱意が先行してしまっているのではないか。持てる音楽や空間演出の豊かな才能がかえって災いしているのかもしれない。そんな気がしてならなかった。(2003年10月29日記)