マギー・マラン『拍手は食べられない』――コンセプチュアル・アートのざらざらした感触('03年11月8日)

2003年10月23日(木) 19:30 世田谷パブリックシアター
振付:マギー・マラン
音楽:ドゥニ・マリオット
衣装:シャンタル・クルペ
初演:2002年9月16日

コンセプチュアル・アートのざらざらした感触
あまり面白い舞台とは言えなかった。ヌーベル・ダンスのビッグネームだったからといって、何をやっても有り難がるような趣味は私にはない。それに、もはやヌーベル・ダンスという括りにこだわる時代ではなかろう。それでも、もし今回見た『拍手は食べられない』で一番面白かった点を挙げるとすれば、それはマランの作家としての態度だ。

『拍手は食べられない』の舞台を見る体験は、私にはほとんどコンセプチュアル・アートの作品を前にしたときの体験に近いものだった。何でもよいのだが、有名な例で考えよう。例えば、フェリックス・ゴンザレス=トレスの「1個30ドルもしない」というアナログ時計を2つ並べただけの『Untitled (Perfect Lovers)』を思い浮かべてみて欲しい(*1)

目の前にあるもの、それはごくシンプルなものだ。それがとりあえずは何であるのか、見ればすぐにわかる。別に奇異なものではない。しかし、というかそれゆえに、「どうしてこれが芸術作品として提示されているのか?」と問う地点に立ち止まって、そこからあれこれ考えないではいられない。

なるほど、これはありふれたものではあるが、ここには確かに作者の意図的な操作の跡が見られる(2つ並べる、時刻を正確に一致させる)。この点を観察して、同時に与えられた希少な手がかりである表題も念頭におきながら、作者の意図を推理してみたくなる。そして、自分なりになんらかの答えが得られると、ありふれていたはずのものが何か特別のオーラを帯びてくる。量産品でしかないはずのもののディテールが、あるいは存在自体が、汲み尽くせない神秘を秘めたものに見えてくるのだ。続いて意識のピントがもう一度素材そのものに合わせられると、今度はそれが「実にありふれたものでしかない」という事実に対して、今更ながらなんだか不思議な気分を味わったりする−−そのありふれたものをほんの一瞬前までは特別なものとして見入っていた自分自身にも驚きつつ。

しかし、コンセプチュアル・アートの魔法は長続きしない。しばらく見ているうちに退屈してきてしまう。所詮、そこにはなんの技も意匠もない。じっくりと鑑賞するに堪えるような代物ではないのだ。それでも、芸術家生命を掛けて、これを作品として社会に提示してみせた作者の姿勢はどうにも格好いい。「こういうものが作られた」ということ自体が驚くべきことで、作品はそれ自身の誕生を記念する意味をも備えていると言えるだろう。だから、魔法がすぐに解けてしまっても、これを素晴らしい作品だと思うことができるのだ。

人間がリアルタイムで演じるマランの作品と、レディメイドがぽんと置いてあるだけの美術作品では、その成り立ちがまったく違うので、そのまま当てはめるというわけにはいかないが、享受する体験の中身はだいたいこんな感じに近い。

マランの場合、『メイB』(1981)でも、部分的にしか見ていないが『サンドリヨン』(1985)や『ワーテルゾーイ』(1993)でも同様で、どれも、コンセプトとほとんど一体化したような手法の選択こそが、彼女にとって何よりも優先されている。コンセプト=手法はシンプルであればあるほどよい。観客を楽しませるような余計な意匠や技はいらない。ただ、ひたすら一つのコンセプト=手法を最後まで守り通すこと。まるで、コンセプト=手法そのものを物質として観客の目の前にドスンと置こうとしているかのようだ。彼女の舞台を見ていると、どうにも始末に負えないコンセプト=手法という物体のざらついた手触りを感じる思いがする。

物語の生成を拒否する作品構造
劇場にダンスを見に行って、こういう体験をしたことはあまりないような気がする。思いつくのは、2000年にやはり同じ劇場で見たマリー・シュイナールのソロ小品集『Les Solos 1978-1998』がややこれに近いだろうか。いや、でもあれらは一つ一つが短くて退屈には至らなかったし、しかも最もインパクトのあった『S.T.A.B.』などはコンセプトのみには還元し得ない身体に深く根差した奥行きのあるパフォーマンスだった。

70分とはいえ『拍手は食べられない』は確かに長い。その内容に対しての冗長さは計算づくと思われる。観客に忍耐を強いることもマランの意図に含まれているようなのだ。

作品を通して絶え間なく流れるマリオットの音楽は、延々と続くハム音のような唸りとそこに挿入される激しく耳障りな騒音からなっていて、観客に不安と苛立ちを与えることを主目的にしているかのようだ。音楽は小さな山場をいくつか作りながらも、作品の始まりから終わりまで、同じ所に留まり続けている。照明も、ときおり過剰に明るくなったりするのだが、最後には結局、元の薄暗がりに戻る。

そして、なによりも停滞感をもたらすのはダンサーたちの関係が、持続的に発展していかないことだ。色鮮やかなビニールの短冊が無数に吊されてカラフルな縦縞のカーテンを形成し、これらが舞台の三方を囲んでいる。彼らはこのカーテンの任意の場所から登場して、舞台の上でお互いに出会い、しばし関係が生まれ、再びカーテンの向こうへ去っていく。

この関係性こそがこの作品の見せ所なわけだが、例外的な幾つかのシーンを除いて、ほとんどの場合、ダンサーたちはカーテンの向こうに消えると同時に記憶を失う。つまり、次に登場するときは過去に成立した他のダンサーたちとの関係を引きずっていない。8人のダンサーはそれぞれに普段着のような格好をしていて、そこには統一性もないので、それぞれが独立した個として識別されるべき存在に見える。だから、作品全体を通して、各ダンサーに一つの人格を見ようという気が起きる。しかし、関係の度重なるリセットと役割の無個性さに、その試みは断念せざるをえなくなる。

実際、多くのシーンで8人は交換可能な存在だ。服装の面で一人だけ目立つ存在が居る。上下真っ赤な服で、男性4人女性4人の中で唯一スカートを履いている女性だ。観客を彼女に注目させる意図があるなら、きっと彼女には何か特別な役割が担わされているのではないか。そう思って注意して見ていたのだが、どうも格別他のダンサーと違う様子は見当たらないのだ。

性差に対する考慮もほとんど無いようだ。2人〜大勢(といっても8人だが)の人間関係の中に発生する暴力的関係性を見せようとしていることは明らかなので、ならば当然フェミニズム的観点から、そこには性差に対応した非対称的関係性が強調されているのではないかと思った。ところが、この点についても、それほどはっきりした非対称性は見られなかった。リフトをする場合は男性が女性に対して行うが、相手をモノ扱いして荒っぽく操作するような行為は、男性が女性に対してやる場合もあるが、その逆もある。また、同性間でのやりとりもある。8人がペアを組むとき、必ずも男女で組むわけではなく、異性のペアと同性のペアの両方が作られることが多いことにも気がついた。別に同性愛を考量しているわけではなく、ジェンダーの問題が際立つことを避けているのだと思う。

ただ、気になるのがはじめの方で、一人の女性が男性に出くわして、おびえて逃げようとすると、そこへ第二の男性が現れるというシーンだ。ここでは女性は明らかに被害者に見え、そうした意識のもとに緊張感が高まる。だが、その後に連なるシーンでは、「女性=抑圧される性」といった観点はすっかり忘れてしまったかのようだ。結局、レイプの危険を予期させるようなこのシーンも、いろいろあるパターンの一つに過ぎないという扱いだ。

ダンサーたちがカーテンをくぐっても記憶を保持する例外的なシーンの一つは、2人の男性が周囲を警戒しながらカーテンを出入りするというもので、追いつ追われつしている2人がいろいろな場所から代わる代わる絶妙なタイミングで顔を出すドタバタ映画のパターンを連想させる。例外的にちょっと笑えるシーンである。ほかには後半の方で、一人の男性がカーテンから登場すると、舞台にいるダンサーたちが床に手を着いて同じポーズを取る(写真2参照)というシーンがある。これはカーテンから出入りする男性が監視者で、舞台にいるダンサーたちは、監視されているときだけ服従している振りをしてみせる、といった状況を連想させるが、このとき監視役は明らかに暫定的に与えられた自分の役割を保持している。

このシーンの前後は作品全体の中でも盛り上がりを見せる部分だが、それでも長続きはしないし、その後に何か決定的な変化をもたらすということもない。あくまでも他のシーンとパラレルな関係にとどまっている。関係性がシーンを超えて持続すれば作品に物語が生成する。マランはそれを回避しているのだろう。ストーリーに語らせるのではなく、コンセプト=手法自体で表現を成立させるというマランの意志がここに現れている。あくまでも断片集として作品を成立させるほかないのだ。

ダンスでやれることはほかにあったのではないか?
しかし、『拍手は食べられない』のコンセプト=手法は成功しているのだろうか? 私たちはこの人間関係における力学的断片集に何を見たらいいのか? マランが舞台上で見せる関係性は、その暴力性ではニブロールを、マイム的な駆け引きではイデビアン・クルーを思い起こさせるが、これらに対してマランの作品が大きく違うところは、舞台上のダンサーたちに対して人格を与えていない、というところだ。

彼らはマランの作品において、人間であって人間でない。人間から人格を引き算し、代わりに動物行動学的に抽出されたサバイバル行動を強調した抽象的生き物である。悲惨で滑稽な生き物だ。舞台の下手から上手に向かって全員がごろごろと転がっていくシーンなどは、とりわけそうした印象を強める。人間というのはある視点から見れば、悲惨で滑稽な生物なのだ、とマランは言いたいのかも知れない。だが、彼らのやっていることをこのような象徴的レベルで見た場合、それはジェスチャーゲームと大して変わらない。AがBの上に立つという社会的関係を、実際にAがBの身体の上に乗っかることで示すといったものでしかない。

だとすれば、なんという身も蓋もなさだろう! そのレベルでしか見るべきものがないのでは、ダンスを観に来た甲斐がないというものだ。それは、ゴンザレス=トレスの作品を「心臓の鼓動までぴったり合っているほどに完璧な恋人」の記号としてしか受け止めないようなつまらない鑑賞の仕方だ。当然、私たちはダンサーたちの身体の様相やムーブメントを詳細に見ようとする。しかし、そこには矛盾が待ちかまえている。そうやって詳細に見れば見るほど、彼らの間の暴力的、抑圧的関係性は消失してしまうのである。カーテンに向かって走る彼らが、突然カーテンの向こうから目の前に現れる他のダンサーとうまく鉢合わせるのは、彼らが協働してタイミングを合わせているからだ。乱暴に肩を突いた相手がきれいに崩れるのは、相手が突いてくる手をこっそり準備して受け止め、モーメントを利用して自分から崩れる動きをやっているからだ。などなど。当たり前ながら、彼らは一緒に一つの作品を踊っているのである。

プログラムにはマランによる「作品の意図」なるものが紹介されている。「空間と身体の様々な可能性を探りながら、複雑に絡み合った社会状況と権力構造、人間の社会構造を律する力関係について考えてみよう」。もしも、この通りに作品を受け止めようとすると、ジェスチャーゲームのレベルで受け止めざるを得なくなるように思える。だが、ヌーベル・ダンスの雄であったマランがそんな先祖帰り的なことをするのだろうか? とても考えにくい。

あくまでも、踊っているダンサーたちを彼ら自身として受け止めなくてはいけないのだ−−暴力的関係にも見える振付を踊っているダンサーたちとして。提示された2つの時計に「完璧な恋人」との類似性を発見しつつも、同時にあくまで2つの時計そのものとして鑑賞することで、コンセプチュアル・アートの面白さが体験できるように。けれども残念ながら、「量産品の時計」と「恋人」という出会いには感じられるロートレアモン的なものが、「ダンス」と「力関係のジェスチャーゲーム」という出会いには感じられない。「ダンス」と「力関係」を出会わせるなら、ジェスチャーゲームではない、もっと別のやり方が考えられたのではないか。

そんなわけで、『拍手は食べられない』は、ゴンザレス=トレスの『Untitled (Perfect Lovers)』のようには素晴らしい作品とは感じられなかった。それでも、マランが忍耐力の要求とともに観客に提出したコンセプト=手法のざらついた感触は確かに味わった。それは楽しい体験とは言えなかったが、彼女からしか受け取れない興味深い体験であったことは間違いない。(2003年11月8日記,稲倉達)