バレエ・プレルジョカージュ「ヘリコプター/春の祭典」――インタラクティブ・ビデオアートの応用に注目('03年11月12日)

2003年11月8日(土) 18:00 新国立劇場中ホール
振付:アンジュラン・プレルジョカージュ
『ヘリコプター』
音楽:カール・シュトックハウゼン
映像美術:ホルガー・フェルタラー
初演: 2001年

春の祭典
音楽:イーゴリ・ストラヴィンスキー
美術:ティエリー・ルプルースト
初演:2001年

『ヘリコプター』の価値はインタラクティブ・ビデオアートを使ったこと
『ヘリコプター』を見て、思い出したことがある。3年前、参加していたあるダンスのワークショップでのことだ。その日たまたまWSに加わった振付家兼ダンサーの人が、他の参加者たちに「これからはダンスだけではもうダメ。映像やマルチメディアを取り込むべき」と熱弁を振るうという場面に遭遇した。どうも、彼にそう強く思わせるような出来事が近い過去にあったようで、その衝撃の冷めやらぬゆえ、自分を説得する意味でも語らずには居られないといったふうであった。そして、「我々は歴史の終焉に立ち合っているのだ」と言わんばかりの勢いで、私たちにマルチメディアなどの要素を取り込まないダンス公演の可能性の死を宣告するのだった。

私は同意できない気持ちを押し隠して黙って聞いていた。すぐに、前年(1999年)に新国立劇場で見たフォーサイスの『Workwithinwork』(1998)が心に浮かんだ。それに、「まだまだダンスがやり尽くされたということはないはずだ」と信じてもいた。確かにバレエをベース(彼はバレエ出身だった)に新しいムーブメントを考案するといったことに限定すると、それはだんだん困難になってきたのかもしれない。近年さいたま芸術劇場で見るキリアン作品を思い起こしても、どうもそんな気がしてくる。

しかし、もう少し広く考えれば、基礎に据えられるダンスはバレエだけじゃないはずだ。日本舞踊でもフラダンスでも良い。まだ来日していないが、ロンドンで活躍するAkram Khan(アクラム・ハーン(カーン?))という若手(1974年生)は、今年のモナコ・ダンスフォーラムでニジンスキー賞振付新人賞(Nijinsky for an emergent choreograph )にノミネートされるなど欧米での注目株だが、彼の振付はインド古典舞踊カタックをベースにしている。

あるいは、ミクロに見てムーブメント自体に新規性がなくても、ダンスやダンス公演に対するスタンスの取り方次第で、十分に新鮮味で魅力的なダンスができるはずだと思う。それは別に演劇的要素に席を譲ると言うことではない。その良い例がローザスの『レイン』(2001)だ(「「レイン」から「ワンス」を読む」参照)。あの作品では照明・舞台装置・音楽・衣装のいずれもが従来のダンスの舞台に範疇に収まる範囲のもので、ダンスこそがその中心で輝いていたのだった。それとも、舞踏系の公演へ行ってみるとよい。そこでは、そもそも振付の新規性など問題にすらなっていない。個々のダンサーが自分の肉体の歴史性を探索することで、十分に舞台の独自性が獲得できると信じられているように思われる。

しかし、『ヘリコプター』におけるホルガー・フェルタラーの映像の技術的な素晴らしさと、その上で踊られたダンスの平凡さから想像するに、プレルジョカージュはきっと私がワークショップで出会った人と同じ認識なのではないかという気がする。舞台の頭上から投影しているCG映像が水の流れや水面を描き、6人のダンサーたちの立ち位置の下流に流れの乱れが生じたり、ス彼らがテップを踏むと波紋が生じたりする。8日の午後に行われたプレルジョカージュを迎えてのトークで、司会の安田静氏がしてくれた解説では、4台の赤外線カメラでダンサーの位置を割り出してリアルタイムで画像を計算しているのだという。

今後、インタラクティブ・ビデオアートのダンスへの応用は、舞台芸術にさまざまな可能性をもたらしてくれるだろう。その先進的な事例であることが、この作品の意義のすべてだと言っていい。ただ、難点は床面に投影された映像を見せるために舞台が薄暗くなってしまうことで、ダンサーが見辛かった。今回の場合、見辛かったのは暗さのためだけではなく、ダンサーたちの動きよりも生成変化し続ける映像の方が魅力的で、ついついそちらに視線を奪われてしまうからでもあったが。

目を奪われるような新しい技術、そして風変わりな音楽の中で、振付はあまりに凡庸であった。このような物語性のない題材は、プレルジョカージュは苦手なのかもしれない。音楽のテンポが単調であることに引きずられて、ダンサーの動きのテンポも単調だった。仮に速く動くことが映像技術のトラブルを招いてしまうのだとしても、ゆっくりした動きをもっと有効に使うことは出来たはずである。

ついでながら、使われた楽曲シュトックハウゼンの『ヘリコプター四重奏曲』についても、かなり疑問に感じた。弦楽四重奏の奏者たちがそれぞれ別のヘリコプターに乗って演奏して、地上の聴衆はそれらの演奏と機械音とをミキシングした音響を聴きながら、ヘリコプターに取り付けられたカメラ映像を楽しむという作品なのだが、ヘリコプターの飛行まで含めたイベント(*1)しては何らかの意義のある作品であるかもしれないが、今回のように音だけを取り出した時には、単調なグリッサンドトレモロばかり延々と聞かされる奇を衒っただけの詰まらぬ曲としか思えぬ。しかも、失われたイベント的要素をプレルジョカージュのダンスが補完しているのかというと、そうとも思えない。

別に、「ダンスが中心でなければいけない」などとは言うつもりはない。舞台として面白ければいいのだ。フェルタラーの映像技術に感心するばかりで、舞台全体としてはそれ以上の効果が何も生まれていないということが不満なのだ。約35分。

プレルジョカージュは『春の祭典』を安っぽくした
プレルジョカージュはエロティシズムが看板の振付家のように言われたりするが、今回の『春の祭典』に関する限り、それは間違いではないかと疑問を呈したくなる。確かに作品には、全裸で踊る、カップルの性交状態を露骨に暗示するなど、エロティックな要素が盛り込まれてはいる。しかし、それらはダンスの装飾的な要素としてしか機能していないし、誰にでも思いつけるようなたぐいの趣向でしかない。性的演出を好む振付家とは言えても、エロティシズムの振付家とは言えまい。プレルジョカージュのダンサーたちは、例えばベジャールが生み出す匂い立つようなエロティックな踊る身体と比較したら、セックスに夢中になっている若者たちにしか見えないだろう。

プレルジョカージュ版では、青臭い性欲が前面に迫り出すことで、『春の祭典』が本来持っていたエロスからタナトスに至る射程の深さを失った。6組のカップルが本能に身を任せる第1部の後、第2部の冒頭では、一人の女性が生贄(選ばれし者)が選べるのだが、唐突な感じが否めない。プレルジョカージュが、さまざまな版の存在するこの曲に対して、自分の版をどのように打ち立てようとしたのか、理解することが出来ない。

春の祭典』振付史に対する批評的態度としては、02年9月にさいたま芸術劇場で上演されたヨハン・イングルの『Dream Play』(2000)の方がずっと気が利いている。イングルは「性的本能の目覚め」というポイントを継承しながら、ほとんどギャグとも言えるほどに矮小化して見せ、現代人の生活の一コマに当てはめたのだった。深読みしすぎかもしれないが、バレエ業界で伝統化した『春の祭典』へのオブセッションそのものへの揶揄とすら考えられる作品だと思う。

最後に蛇足ながら、前述のトークでの話題を紹介する。安田氏はプレルジョカージュ版に登場する女性像について、「フランスの女性はこちらに近い」とコメントし、プレルジョカージュは「女性を自立した存在として扱った。未来の女性像だと思う」といった主旨のコメントを述べていた。それほどにもフランスのバレエ業界は超保守的ということなのだろうか?これもまた疑問である。
約40分。(2003年11月12日記,稲倉達)



(*1) このWebページ[ 再録時の注:参照したWebページはすでになくなっていた ]によれば、奏者たちがヘリコプターに乗り込むまでの過程を見ることから始まって、演奏し終わった後、奏者たちがヘリコプターのパイロットと共に聴衆の前にやってきて、聴衆とディスカッションをするところまでが「上演」に含まれているようだ。ついでながら、初演したアルデッティ弦楽四重奏団の4人はシュトックハウゼンの指示で演奏時それぞれ赤、青、緑、オレンジのシャツを着たと書かれているので、ダンサーたちの衣装もこれに習ったものと思われる