「山羊 −シルビアってだれ?−」――オールビー『山羊』の含意すること('04年5月27日)

2004年5月16日(日) 14:00 こまばアゴラ劇場
青年団国際演劇交流プロジェクト『山羊 −シルビアってだれ?−』
作:エドワード・オールビー
演出:バリー・ホール
翻訳:松田弘
出演:マーティン=志賀廣太郎、スティービー=大崎由利子、ロス=大塚洋、ビリー=石川勇太
上演期間: 2004年4月29日〜5月16日

こまばアゴラ劇場で上演されたエドワード・オールビー作『山羊 −シルビアってだれ?−』(青年団国際演劇交流プロジェクト)を見たとき、これは映画『エレファント』に通じる世界だと思った(参照)。建築家として輝かしい業績をもつマーティン(50歳)。彼と完璧な夫婦を演じるスティービー(恐らく同年代)。彼らの夫婦関係、築いた家庭の完璧さは、スティービーや息子のビリーによって繰り返し語られる。社会的に成功していて、リベラルで頭が良くて・・・。ただし、ビリーはホモセクシャルで、そのことをマーティンは不快に感じているが、理解する態度を示さざるを得ない。なにせリベラルなのだから。本当は不寛容さで息苦しいほどの社会なのだが、表面上はリベラルで自由であるように振る舞う人々。これは2重の抑圧だ。

そのような抑圧の加担者であるマーティン自身が、息子以上に規範から逸脱してしまう−−山羊のシルビアに一目惚れしてしまい、獣姦するために牧場に通い詰めるのだ。この滑稽かつ悲劇的事態を、演出のバリー・ホールはもっぱら愛の問題として捉えるのだが、オールビーの作品の含意するものはもっと深いと思う。

この家族が生きている社会の抑圧の深刻さは、マーティンによって理想的な家庭像が破壊されたと感じたときに、スティービーが彼に向かって噴出する怒りの激しさを通して、強烈に私たちに迫ってくる。実際、私はスティービー役の大崎由利子の発するエネルギーに共振するようにして、涙が出てしまった。それはスティービーに対する恐怖でも怒りでもない。一人の人間が猛烈に怒りのエネルギーを発しているということに、感情抜きに反応してしまい涙が出たのだ。その後で、その人がそうならざるを得ない状態に追い込まれていることの全体に対して淡い悲しみの感情が湧き起こった。

大崎は怒るスティービーを少々バカバカしく演じてくれたので、2時間の長丁場が耐え難いものにならずに済んだ。この点に関して演出家の判断は正しかったと思うし、大崎のさじ加減もとても良かったと思う。大袈裟に怒りつつも、不快なほどにヒステリックになるわけでもなく、かといって笑いを意識してあざとくやるわけでもなく、ドライにシンプルに怒りのエネルギーを放出していた。スティービーは夫に対する配慮を欠いた身勝手な女だが、一方で彼女もまた抑圧された哀れな女でもあるのだ。

無論マーティンは誰も彼を理解しようとしてくれない可哀想な男だ。しかし、志賀廣太郎の演じるマーティンはかなり嫌な奴なのである。彼の喋り方、間の取り方は妙に落ち着いていて、「自分は自分自身に素直なだけだ。だから私は悪くない」という自己憐憫が見え隠れしている。彼は一見、妻や息子に誠実に語っているようでいて、実のところ、心の中では自分に閉じこもっているのだ。マーティンを善玉の犠牲者に仕立て上げたりしなかった演出は正しい。これは獣姦男の受難劇などではないのだから。

ところでホールは、この作品のテーマは「愛の限界」だというが、私は、マーティンやスティービーたちの直面した問題が愛の限界だとは思わない。彼らの愛が不寛容で不自由なだけだ。もちろん愛には、ある女性を愛しているのに、別の女性と唐突に恋に落ちてしまうという当事者にも手に負えないような側面はあるだろう。しかし、それが本題なら、なにもマーティンの浮気相手を山羊にする必要はないのだ。相手が山羊になった途端、焦点は別の問題にずれる。妻は山羊と地位を争う必要などないからだ。

ホールも気づいていないと思われる、マーティンたちの問題のひとつは、愛とセックスを直結して考え過ぎていることではないか。仮に山羊や父親に瞬間的に欲情することがあっても、マーティンが語った「自分の赤ん坊に勃起してしまった父親」のエピソードのように、ただやり過ごせばよかったのだ。ところが、愛の観念とセックスが直結しているために、セックスに至らないことには、自分の愛の純粋さを裏切ることになるかのように思ってしまうのではないか。50歳の夫が長年連れ添った妻に向かって、愛していることを表現するための話題として、「君は最近フェラチオしてくれない」と嘆いてみせるというのも、「セックスしたがってこそ愛している証拠」という観念の現れだろう。

小倉千加子『セックス神話解体新書』によると、西洋人と日本人ではセックス観が根本的に違うのだそうだ。日本人にとって性欲は動物的本能だが、西洋人にとっては人間のセックスは動物とは別格であり、「性愛というのは人間理性の知的な芸術的な創造物」であって、究極的には「神への愛」にまでつながっていくものだと書いてある。

昔読んだジョン・バースの小説『フローティング・オペラ』には、主人公が女の子とセックスをしながら、ふと鏡を見て、じぶんのやっていることの滑稽さに笑ってしまう、というシーンがあったと思うが(うろ覚え)、あの笑いは、小倉の言うキリスト教的セックス観に囚われていた人間がその呪縛が解けて、解放感から笑ってしまったということだったのかもしれない。それにしても、あれは50年代の小説で、その後アメリカではフリーセックスの時代が来て、こういうセックス観はアメリカでは粉砕されたのではなかったか。いや、マーティンたちのような偽リベラルのインテリ層には、まだそういう観念が残っているということか。これは「偽リベラルこそ実は超保守主義」という劇なのではないか−−というのは半分冗談だけど、そのくらいの含意はもっている作品だと思った。(2004年5月27日記,稲倉達)