マレビトの会『島式振動器官』――イメージのパッチワークの中に埋め込まれたある心情('04年6月3日)

2004年6月2日(水) 19:30 こまばアゴラ劇場
作・演出:松田正隆
出演:犬男=枡谷雄一郎、サチ(その妻)=山本麻貴、砂男=田中遊、ミカ(その妹)=武田暁、医者=F・ジャパン
上演期間: 2004年6月2日〜6月6日

『島式振動器官』の舞台を見て、つげ義春の「ねじ式」を想起した人は少なくないと思う。海のそばというロケーション。動物に傷つけられて、医者の手当を必要としている主人公。どこかノスタルジックなイメージを伴って、汽車が唐突に登場すること。ねじくれた性的イメージ。夢の世界のように飛躍が多く意味のつかみにくい展開。登場人物たちが静止して、書き言葉を朗読するような思弁的な長セリフを話し相手も見ずに独白する様子は、動きのないタッチで描かれた人物がフキダシの中の長文を語る「ねじ式」の中のいくつかのコマを連想させる。タイトルの類似性から考えても、松田があのマンガを意識した可能性は高い。

コマを追いかけながらマンガを読んでいると、コマからコマへと時間が連続的に流れていて、描かれた人物が生き生きと動き出してフキダシの中のセリフを喋っているように思えてくるものだが、つげ作品の一部には、マンガがもっているそうした表現力を意図的に外そうとしているところがある。コマとコマの間でブツリブツリと時間が飛んでいて、一コマ一コマが一枚の絵に見えてくる。そして、フキダシは絵の中の人物が喋っているというより、その一枚の絵に添えられた作者のつぶやきのように感じられてくるのだ。

『島式振動器官』にもこれと同じような性格がある。演劇の持っている表現力が外されて、私たちは舞台装置と照明、役者たちが形成するある光景を見ている。そこで語られるセリフは、まるでその光景を挿画として同じ紙面に収められたシュールレアリズムの小説でも読んでいるかのように私たちの耳に届く。

きっと私たちは、次々と現れる光景を眺めながら、文章にちりばめられた詩的なイメージを楽しめばいいのだろう。たぶん、出来事の全て解明したり、ストーリーを把握することはそれほど重要じゃない。飛行船が水平線を引こうとする意志を動力にしているとか、姉と二人暮らしの包帯をした少年が天体望遠鏡を覗くとやはり姉と二人で寂しく暮らす少年が見えるとか、蟻は巣の穴を通して昼間でも星空を眺めているとか(以上うろ覚え)、そんな大正モダニズムの詩人あたりが書いたりしそうなイメージ。

しかし、問題なのは、セリフの言葉を咀嚼してそうしたイメージを頭に描いてく作業は、ひどく疲れると言うことだ。マンガのフキダシを読むのとは勝手が違って、セリフを聴き取るのは疲れる。特に、理解を助ける文脈もあてにならず、言葉に生きた意味を与えてくれるはずの語り手の感情や身振りもすっかり取り除かれた状態では。私は途中からぐったりして、セリフを半ば聞き流しながら、光景を鑑賞する方に意識の焦点を移した。ときおり、セリフには長崎の方言が混じる。その時だけ注意していれば良いのではないか。なんとなくそんな気がした。書き言葉は光景の付録のようなもので、方言だけが、それが犬男の口から出たものなら犬男自身の言葉だ、というように。

そんな風にして聞いた犬男のセリフから浮かび上がってくるのは、意外にも妻への恋情だ。妻は鳥に孕まされ、夫の前で医者を露骨に誘惑し、激しく求める。最初に産んだ子は死産で、その子の顔には、妻が砂男を愛していたことと犬男が砂男の妹ミカを愛していたことが刻印されていたという。そして犬男は今でもミカのことを想っているのだが、そうしたことの一切にもかかわらず、彼には妻に対して愛しく思う感情があり、自分の妻として生きてくれたことに申し訳なさを感じてすらいる。そこには、どうにもならない人生に対する諦念があり、これまで自分の人生に付き合ってくれた妻に対する感謝と、いま関係が途切れてしまうことへの悲しみがある。全体的にはイメージの実験的なパッチワークみたいな作品だが、ここのところにはなにか真摯なものを感じた。

ところで、松田は普通なら避けるような説明的なセリフも意図的に書いている。それによってナンセンスな笑いを企んでいる気配さえある。砂男がはじめと同じように登場しても、犬男が彼を「ホログラフィだ」と呼べばホログラフィであり、「幽霊だ」と呼べば幽霊となる。それで一応ストーリー上の辻褄が合うわけだが、しかし実のところ、この芝居では彼が実体なのか、それともホログラフィや幽霊なのかということは、ほとんど意味をなさないのだ。なぜなら私たちが見ている世界は現実的な因果関係から逸脱した世界であって、彼が唐突に存在したり、あるいは存在を止めたりしようが、遠くからワープして来ようが、どうであってもそれを受け入れるしかないからだ。にもかかわらず、ホログラフィなどという言葉を使って上辺の辻褄を合わせてみせることはかなり可笑しい。だから、私は笑いたかったのだが、実際には笑えなかった。客席が笑うにはまったく相応しくない雰囲気になっていたからである。これは演出家のミスだろう。

砂男を演じた田中遊は黒目の小さい目と真っ直ぐに見る強い眼差しが印象的で、つげ義春ではなくて大友克洋あたりが描きそうな冷酷そうな男に見える。彼なしには、私たちが体験したようなこの作品の強度はあり得なかったと思う。徹底して受け身であり続けなければいけない犬男役は難しい。枡谷雄一郎は長いセリフをテンションを保って語りきってみせたが、身体はもっとショボくれていた方がよかった。鳥に開けられた胸の穴を風が吹き抜けていく、そんな抜け殻のような身体を提示して欲しかった。F.ジャパンのキャスティングも面白いと思ったが、なにより残念だったのは、妻サチを演じた山本麻貴がごく普通の女の子にしかみえなかったことだ。これは彼女の責任と言うよりミスキャストだと思う。ミカ役の武田暁も地味だった。(2004年6月3日記,稲倉達)