ままごと『スイングバイ』――悪い冗談('10年3月18日)

「なんじゃこりゃ?」である。
悪い冗談としか思えない。 けれど、呆然としつつも、これに注目すべきなのだろう。今の日本にこんなものが出てきてしまったということ、そして、それを支持する層の存在を認めないわけにはいかないだろうからだ。

戯曲の基本的なアイデアは、人類の歴史をひとつの会社の事業に見立てるというもの。古今東西の歴史に参加した人類は、原人も含めて、「社員」であり、会社は巨大な一つのビルであり、その各階が、1階=1日という対応関係(例えば、2010年3月17日の公演で主な舞台となるフロアは、2010年3月17階)で、人類が歴史を築いていく営みはそこで行われている。

演出で最も印象深いのは、作・演出の柴幸男自身が舞台の隅に座っていて、彼がチャイムを「チン!」と鳴らすと、俳優たち全員(ほぼ出ずっぱり)がタイミングを合わせて一斉に跳躍し、くるりとスピンして着地するというものだ。それによって劇の時間進行に句読点が打たれる。これが劇中、百回には届かないだろうが、たぶん五十回は下らない回数繰り返された。その度に、演出家のコントロールの下、俳優たちがぴたりと息を合わせて行動する一体感が強く印象づけられる。「ナイス、ターン」「ナイス、フォーメーション」などと声を掛け合うシーンもあり、スニーカーを履いた俳優たちが、統率のとれた運動部の部員たちのように見えてくる。開演前、俳優や演出家は上演のことを「業務」と呼んでいたが、むしろ「部活」というイメージが似合う。

このような戯曲のアイデアと演出が、どうやら、時代に対する批評としてではなく、また、ありえないユートピアとして提示されているわけでもないらしいのだ。それどころか、まるで小学校の社会科の教科書のような素朴さで、「人々がいろいろな仕事をすることで人類の歴史は成立している」といった理解を肯定しているようなのだ。

「会社」=人類の歴史なのだが、「会社」の外部もあるらしい。「社員」たちは家から出勤してくる。プライベートの時間は、人類史から外れるというつもりか。小梁さん(飯田一期)という「社員」の退社の日、彼の奥さんと娘が「会社」を訪ねてくる。奥さん(能島瑞穂)は元「社員」だが、結婚して退社したらしい。娘(野津あおい)は学校に通っている(休みがちらしいが)。学校や家庭での営為は歴史の外にあるというつもりか。

芝居の基本的な流れは「社員」の一日を描くのだが、そこから、この「会社」がかなり重度の大企業病にかかった企業であることが窺える。手段が目的化しており、彼らはおよそ生産性のない行動をしている。人類の営みなんてそんなものだという達観も可能だろうが、それを言うのに、なぜこのような矮小化した喩えが必要なのか?

一方、先祖代々、入社して「掃除のおばちゃん」をやっている家系があり、20代から80代まで延々と掃除だけをやっていたりする。掃除のおばちゃん(島田桃依)は、掃除が「会社」の生産性を高めていると言われたことを忘れないと誇りに満ちた表情で言う。

こうした悪い冗談としか思えない設定やエピソードに対する批評の契機を探し出せないまま、観客はさわやかな青春ドラマ調の空気に包まれてしまう。テンポのよい軽い音楽が流れ、両側の客席に挟まれるかっこうの上演スペースを、列を作ってマスゲームのように整然と走り回る俳優たち。快活に声を掛け合いながらランニングする彼らは、放課後、「部活」に没頭するティーンそのもの。

クリップボードが一つ、走る彼らの間を目まぐるしく手渡されていく。リレーされることでクリップボードは舞台中央の同じ位置を維持する。平和な日本で、今日が昨日とたいして変わりなく生活でき、明日も今日とたいして変わらないことが期待できるのは、働く人々のリレーゲームがきちんと機能しているからだ。それはそうであろうが、わざわざそんなことを演劇で示されることに戸惑う。

この歴史認識、この社会認識はいったい何なのか? これが最近、岸田戯曲賞を受賞した新進気鋭の作家によって作・演出された新作であり、当初予定の14回に3回の追加を加えるほどに人気を集めている公演である。これに共感する層は、セカイ系流行の直中で10代を過ごした一部の若者たち(柴は1982年生まれ)に限定されるのだろうか、それとももっと厚い層をなしているのだろうか? 演劇以外の分野にも、これと共通する徴候が表れているのだろうか?