チェルフィッチュ『私たちは無傷な別人だろうか』――新しい探索の始まり

掲題の舞台を3月7日に横浜美術館レクチャーホールで見た。『私たちは無傷な別人だろうか』で岡田利規は新しい方法による演劇的な探索を行った。導入した方法が可能にしたいくつかの手法を試した。その試み自体は面白かったが、うまくいっている面とそうでない面があったように思う。以下、それらのことについてメモってみる。

まずは方法について。
俳優が登場人物をほとんど演じないばかりか、以前の彼らの舞台でのように「登場人物から伝聞を語る人物」を演じることすら止めてしまった。今や、舞台の上に居るのは、俳優自身以外の何者でもない。こうして、俳優は登場人物たちの物語を脚本の読み手として語りつつ、語っている物語の場面や登場人物の行動に束縛されることなく、何をどう演じてもよい自由を獲得した。以下、回りくどさを避けるために、ここではこの自由を「物語からの自由」とでも呼んでおこう。

語る内容に対して、演技をどう関係させるかいろいろと探索することが可能になったわけだ。けれども、現時点では探索するフロンティアがどれほど肥沃なものなのかはまだ未知数だ。今回の上演ではまだ手探りの状態に見えた。ひょっとすると、演劇という方法そのものへの関心を持つような特殊な観客しか楽しませない酷くやせた土地だったという危惧もまだ否定できていない。

分かり切ったことだが、言葉とそれを発する身体とは切り離せない。身体は言葉を肉化する。観客の解釈・判断に影響を与える。声はもちろんのこと、身体の状態や動作は視覚的情報となって影響を与える。顔はどんな表情か、身体は緊張しているか、などなど。たとえ切迫したシーンが真面目なトーンで語られても、語る身体がダラリとしていたら、文章の切迫感は肉化し損なう。

俳優の身体に観客の身体が呼応するこうしたメタコミュニケーションは、従来ならもっぱら物語の補強材料として働いていたのだが、「物語からの自由」が導入されることで、内容に対するメタレベルのメッセージとして解釈される傾向が強まることになった。

たとえば、今回の作品では俳優たちが「幸せか?」「なぜ幸せか?」と繰り返し問うのだが、メタコミュニケーションの作用を受ける観客は、その問いをストレートには受けとめられない。「幸せ」そのものではなく、「幸せを問う態度」というメタレベルへ関心がシフトする。

私の場合、幸せかどうかを安直に判断しようとする態度が揶揄されているように感じられたのだが、そのような問題意識は自分にはピンと来ない。作品のタイトルから推察しても、主要登場人物である「幸せな男」の無自覚さそのものが問われるべきだろうし、恐らく作者は問おうとしているのだろうという意識が働く一方で、メタコミュニケーションが邪魔をして、そんな倫理的な問いを持つこと自体への懐疑へと横滑りしてしまう。

こうした作用が岡田が意図したことなのかは知らないが、この作用をどう扱うかがおそらく探索上の重要なポイントになってくるはずである。

俳優の身体の物語への関係のさせ方については、興味深い試みが見られた。一つは積極的な試み。もう一つは消極的なもの。

積極的な試みで最も顕著な例は、武田力の身体を用いて行われた。「幸せな男」がバス停で遭遇した男として、武田力の身体が提示される。赤いシャツに赤いジーンズを履き、ふてぶてしい表情で空を見つめて舞台中央に立つ。そして、ずり落ちるジーンズを両手でゆっくりと引き揚げる仕草を十分に間隔をあけながら(きっとこの絶妙な間隔を稽古でかなり調整したことだろう!)、執拗に繰り返すのだ。これには正直、イラついた。その体験を観客がした後、だいぶ経ってから、「幸せな男」が「バス停の男」に対して理不尽な憎しみを抱いていたことを告白する。ここはちょっとヤラれたな、と感じたところだ。

さらに、岡田は、観客に抱かせた武田の身体への不快感を利用して、その不快感を他の対象へ転移させようとするのだが、これはちょっと手付きが荒っぽすぎた。武田は、ミズキちゃんが公園を通りがかりに目撃するコンビニで調達した食料を食べている男としても提示される。男の近くにはブランコを立ち漕ぎする小学生の女の子がいるという設定で、このシーンの締めくくりにはとってつけたかのように「女の子はスカートを履いていました」という一文が語られる。ミズキちゃんが公園に到達する前には、電車の中で、イヤホンで音楽を聴いていて、音が外に漏れているという点で「バス停の男」と共通点を持つ人に遭遇し、さらに、車内の液晶画面の放送で、無差別殺人事件の犯人の年齢が自分と同じであることを知るというくだりもある。

こうしたことを報告して何が言いたいかというと、つまり、観客を誘導しようとする作者の手付きが露骨に感じられてしまうということだ。あまり安直な操作や伏線を張ると、物語というバッファがない分、観客はかなり興ざめするのだ。この点も、俳優の身体が物語自体へ参画しないことに起因して発生する問題だ。観客は登場人物へコミットしないどころか、つねに語ること自体へメタレベルな視点を持つように誘惑される。岡田はその辺がブレヒト的だと言いたいのだろう。しかし、物語の内容に対する観客の批判精神を養うのではなく、批判の矛先が作家や作品の構築へと向かってしまうのだ。もちろん、そのこと自体は悪いことではない。ただ、作家はかなり周到な仕掛けを施す必要があるだろう。

一方、消極的な方の試みは、複数の俳優の身体を使うことで、登場人物の身体性を希釈するという手法だ。男性俳優が、武田にしろ、妻の妄想上の男を担った山縣太一にしろ、「幸せな男」を主に担った矢沢誠にしろ、それぞれのイメージがはっきりと色分けされて扱われていたのに対して、女性陣は、妻を主に担った佐々木幸子以外の3人(松村翔子 安藤真理 青柳いづみ)はあたかも交換可能な身体であるかのようにミズキちゃんを担った。それによって、ミズキちゃんの身体性は希釈され、彼女は誰でもない人・誰でもある人になり、相対的に「幸せな男」夫婦が浮き出てくる。これも確かに「物語からの自由」が可能にするテクニックだろう。

ところで、『ポスト*労苦の終わり』や『目的地』などを見てきて、岡田は、日常生活の中の無意識化された感覚や微細ではあるが注意に値する価値観をリアルに掬い取るのが非常に上手いと感じてきている。だから彼が小説を書きはじめた時も、非常に納得がいった。彼のそうした才能はまさに小説向きだからだ。

今回も、妻の会社の友人を家に迎えるにあたって、妻は家でワックス掛けや掃除をして、夫は購入したマンションの建設予定地を見ながら缶ビールを飲んでいるという設定に、彼らしい日常の掬い取り方を感じる。夫=「幸せな男」の行動は単純には理解しがたいものがある。しかし、夫の意識を探っていくと、たぶんこういうことだろうという推理に辿り着く。

ヒントになるのは、ミズキちゃんの訪問日を決める時の夫婦の会話だ。「今週末では突然すぎるかしら」と控えめな申し出をする妻に、「今週末でいいよ。今週末にしよう」と応える夫の言い方には、鷹揚さを装いつつ、やや恩着せがましいニュアンスが混じっていた(こうした辺りのリアリティは、俳優と登場人物が一対一対応にこそなっていないものの、従来通りのナチュラルな語りの演技によって担われている)。

これを聞いて、そういえば、『ポスト*労苦の終わり』で扱われていた夫婦の距離感もこんな感じではなかったかと思い至る。この夫の態度から分かるのは、妻の友人の訪問は”奥さんマター”であり、基本的には自分は第三者的存在であるという意識。そして、日程を妻の希望に沿わせたことで「優しい夫」の役目は十分に演じたから、この件についてそれ以上要求して欲しくないという気分である。

しかし、夫は自分のこの論理に自信がもてない。「準備は妻が一人でやって当然」と思う一方で、家に妻と居て、「あなたも手伝って」と言われたら、拒否はしにくい。かといって、自分が一緒に準備をすることにも潔さを感じていない。葛藤を避けるためには、何か理由を付けて外出することだ。だから、余り意味があるとも思えない外出をしているのではないか(こんなことを書くと、自分に引きつけて想像しすぎだ、という声が聞こえてきそうだが、ちなみに私なら手伝うことを避けたりはしないが、彼の気分はわかる。だからこのような描き方にリアリティを感じるわけだが)。

このような繊細な観察眼は、たぶん、彼や彼以降の世代の劇作家にはかなり希有なのではないか(比較にもならないが、エレベーターガールが、プライベートでもエレベーターに乗るとつい「下へ参ります」などとアナウンスしてしまう、なんていうシーンを見ると、あり得ないとは言わないまでも、センスないなあ、と思うのである:柴幸男『スイングバイ』)。

だが、今回はこうした彼の美徳が十分には生かさていたようには思えなかった。方法と主題にこだわる余り、やや策を弄しすぎたからだろう。実は、『目的地』でも、地に足の着いた繊細な日常観察と、そこへ強引にねじ込まれた「ニュータウン」という問題系が齟齬をきたしているように感じたのだが。新しい方法に挑戦する。今日性を持った主題がその方法に必然性を与える。そして、リアルな生活感がその今日性を裏打ちする――岡田はきっとそういうものを作りたいのだろう。これだけ欲張った挑戦をしてくれる劇作家・演出家はあまりいない。だから、困難な挑戦の結果、荒削り出来になってしまっても構わない。ますます期待したいと思う。

以下は余談的なメモ。
1)経済的に恵まれた夫婦が居る。妻がふと自分たちより持たざる者たちの反逆に怯える。続いて描かれる持たざる者の主張は実は夫婦の側の空想だった。という辺りは、たまたま斜め読みしたエゴン・ウォルフの戯曲『侵入者たち』と同じだ。共通するがゆえに、2つの作品の背景にある社会の違いが感慨深い。『侵入者たち』は1963年にチリで書かれた作品で、まさに格差社会がテーマ。富裕層が貧困層を踏み台にすることで豊かな暮らしを享受していることを告発する。『私たちは無傷な別人だろうか』が扱う社会問題はこれと似ているようで、かなり違う。無差別殺人の犯人はハケンやバイト君だったかもしれないし、正社員の「幸せ」はハケンを踏み台にすることで可能になっているのかもしれないが、彼らの犯行が「無差別」であることが端的に示すように、私たちの抱える問題は、単純に格差社会の問題ではない。階級化が進行するという問題の一方で、どこにポジショニングされる人々も、社会を意識の中で構造化することに失敗して、得体の知れない存在のように思って、「気分」で怒りの矛先を決めている。

その「気分」を自分の味方に付けようと競っているのが、自民党民主党の昨今の振る舞いなのだろう。物語を政権交代を決定づけた09年8月の衆院選挙の前日に設定した点は、かなりあざといが、「幸せな男」夫婦が投票に熱心である点を除いて、政治的心情が一切語られないのは、ズルイとすら感じる。そこを完全に観客に委ねたことで、5年も経てば、この設定の意図がわかりにくいものになってしまうかもしれない。夫婦が互いの「気分」に基づくロジックでどちらに投票するかを論じるようなシーンが、一言レベルでもあってよかったのではないか。

2)「物語からの自由」を生かす一つの道は、音楽家が楽譜を演奏するように、俳優が戯曲をプレイするような仕掛けを設けることかも知れない。俳優のその都度の自発性に委ねるということだ(後から知ったのだが、今回も即興で決めた部分が少しあったらしい)。冷ややかになりがちな観客のメタレベル指向の関心をうまく生かしつつ観客を楽しませる一つの方法だろう。コンサートでは、聴衆は作曲者の書いた音楽を楽しむと同時に、それをリアライズするプレイヤーの芸を楽しむ。それはクラシック音楽だってそうだ。

そんなことを思ったのは、今回の舞台には、現代音楽的要素が散見されたからだ。冒頭では初期のスティーブ・ライヒのミニマルミュージックの如く、少しずつ情報が追加されていった。「あるところに幸せな男がいました」→時間が土曜日に/場所が海辺に→八月の最終土曜日/海に面した通り→2009年8月29日、タワーマンション建設予定地…といった具合(クローズアップから始まって、カメラがぐーっと引いていき、最後に全体の構図がバンと一望されるような感覚は爽快だった。ただし、そのように鳥瞰し得る視点とは誰のものか、という疑問が残るが)。また、ストップウォッチでリアルタイムの時間を測定して、演技時間を規定していた。これはジョン・ケージの好んだやり方だ。

壁に掛けられた現在時刻を示す時計とストップウォッチから、物理的時間を観客に意識させようとしたのはわかる。そこまでやるなら、夕暮れや夜を暗示させる照明操作は、いっそなしでもよかったかも知れないし、どうせなら、もう、俳優が台本を時々手にしたり、上演自体に自己言及したり、上演と観客の現実を地続きにしてしまうところまでやっても、よかったのかも。そんなところに俳優のプレイする余地が広がるかも知れないからだ。