ブレヒトの影響

ラテンアメリカ演劇に詳しい里見実氏は「ラテンアメリカで、ブレヒトの思想と方法は活きた火山帯として、現に激しく火を吹きつづけている」と書いている(『ラテンアメリカの新しい伝統』晶文社刊、1990)が、イスマエルがブレヒトから受け継いだものは題材だけではない。

白墨の輪の話とは、ご存じのように、地面に白墨で輪を描いて、その中央に子どもを置き、生みの母親と育ての母親がその子を引っ張り合うという、中国の「元」の時代の戯曲に起源を持つ有名な話のことだが、イスマエルは子どもを人形に置き換えている。人形が壊れたからといって、あっさりと棄ててしまったお金持ちの女の子と、それを拾って直してもらい、大事に使っていた女の子が、互いに人形の所有権を主張し合う。大事に使っていた子は、人形が壊れてしまうことを恐れて、二度の引っ張り合いで二度とも手を離してしまう。

魔法使いの怪しげな裁判官は、拾った方の女の子に軍配をあげるのだが、その理由は言わない。代わりに観客にその理由を質問して、回答させていた。

金持ちの子は、この判定に「パパはこんな人形、いくらでも買ってくれる」と強がるが、人形が拾った方の子に、前の持ち主が恋しいとささやいたのをきっかけに、2人の女の子は仲良く人形を共有するというハッピーエンドを迎える。

ところで、この「白墨の輪」の翻案劇には額縁がある。アンデスの山で昔から暮らしていた農民たち(先住民)から、ある旦那(セニュール)によって、法律を盾に土地が取り上げられてしまうという出来事が冒頭で言及され、「山は誰のものか?」という問題提起がされる。そして、人形に置き換えられた「白墨の輪」の劇の後、再び、問いがくり返され、それを考えるのは「みんなの宿題です」と結ばれる。結論は観客に考えさせようとする姿勢が貫かれている。

この「山は誰のものか?」という問いはペルーでは非常にアクチュアルな問題である。ペルー経済を支える最重要産業のひとつが鉱山開発だからである。2011年の輸出総額の約6割は銀や銅、亜鉛などの鉱産物の輸出が占めている。現在の好況な経済成長を止めないためには、鉱山開発にブレーキは掛けられない。

しかし、日本もかつて経験してきたように、鉱山開発はしばしば土壌汚染、水源汚染を引き起こし、付近住民の生活を脅かす。ペルー政府は1994年になって、ILO(国際労働機関)が先住民の権利を保護するべく採択した196号条約(ILOは1989年にこれを採択)に批准したが、開発企業の環境配慮はしばしば近隣住民を満足させるには不十分で、激しい抗議運動を引き起こし、社会問題となっている。実際、飲料水の水源となる川から高水準の金属が検出される、奇形動物が発見されるなど、環境汚染の疑われる事実が話題にもなっている。2011年になってようやく、ILO196号を実効的なものにするべく、先住民事前協議法(Ley de Consulta Previa)が公布されたが、抗議運動はいまのところ収まる気配がない。なかでも、治安部隊との衝突により死傷者を出したカハマルカ市では7月から非常事態宣言が発出され、現在まで延長されている状態だ。

さて、それでは、「白墨の輪」の論理は、鉱山開発の問題に適応できるのだろうか? イスマエルは、人形を拾って大事に扱った子に軍配を挙げたのと同じ論理で、先住民に軍配を挙げられると主張したいのだろうか?

ごく幼い観客なら、彼の劇を見て、そのようにメッセージを受け止めるだろう。しかし、小学生も高学年になれば、山の問題を人形の問題と同じようには扱えないことにすぐに気づくはずだ。誰も人形を所有するようには山を所有できない。「問題はより複雑だ」と気づき、「では、何が違うのか?」と問い始めること。そのようにして、小さな観客がこの問題を考え始めることが、イスマエルの狙いではないかと思う。

一方、日頃新聞やTVで鉱山開発問題を知っている大人たちには、『白墨の輪のはなし』はあまりにナイーブな問題提起と感じられ、彼らは苦笑するかもしれない。しかし、どうだろう・・・観劇の帰り道、子どもたちに問われて、彼らにもわかるように、人形と山の違いを解くときに、鉱山開発で恩恵を受けるのは誰なのか、自分たちの豊かな暮らし(首都リマに暮らし、週末に文化センターへ行くような家族は中産階級以上だろう)との関連性はどうなのか、そうしたことについて子どもにどう話すべきか迷い、考えざるを得なくなるかもしれない。

イスマエルはパロサントが「子ども向け」の演劇ではなく、家族みんなで楽しめる演劇を目指していることを強調している。その理由は、子どもは必ず大人と一緒に劇を観に来るものだからという。子どもだけを対象にメッセージを送っているのではない。観客が社会的問題を主体的に考える契機を作るという態度にブレヒトの影が見える。