過渡期を生きる家族の再会−− Mariana de Althaus "El Sistema Solar"

Mariana de Althaus(1974-)は2003年から現在までに10作品を発表し、それらを自ら演出し、精力的に活動している注目の中堅劇作家だ。昨年2012年は、2つの新作を上演。そのうちのひとつ、10月から12月にかけて初演された最新作《El Sistema Solar》はEl Comercio紙が選んだ2012年の劇作品ベスト5の一角を占めた。好評につき、翌2013年4月から5月にかけて再演されたが、それと時を重ねるようにして、別会場では他の演出家によって彼女の処女作が舞台に掛けられている。さらに同じ頃、彼女の戯曲集《Dramas de familia》(Aflaguara,2013)も出版された。

彼女の主要な関心は戯曲集の題名に示されているように、家族の問題にある。以前このブログで取りあげた演出家Diego López(1977-)は、テロリズムの吹き荒れた「暴力の時代」を暗に反映させた《Números Reales》(1991)という家族劇を取りあげて、ペルー社会が現在なお抱えている「社会における父親の欠如、アイデンティティを形成するモデルの欠如」という問題を問うたが、《El Sistema Solar》は別の角度からペルー社会(というよりリマの都市社会というべき)の家族の問題に焦点を当てている。

実は、再演を観ようと会場に出かけていったのだが、入場券は完売していて当日券はなく、目的は果たせなかった。初演も再演も、ある邸宅の一室を使って上演されており、入場者数が極度に限定されているという特殊事情を甘く見ていた(初演時は客席が40席しかなかった)。入場券は一般販売ルートに流通していないため、直接会場で購入するか、料金を銀行振り込みして、関係者にメールで領収書のスキャンを送るという手続きを取るしかなかった。私同様に無駄足を喰った人たちのなかには、事前に電話で問い合わせたのに、完売とは知らされなかったと怒る人たちもいた。ペルーではしばしば知らされてしかるべき情報が知らされないことがある。ともあれ、今回は上演ではなく、戯曲を対象にして記事を書く。

戯曲集《Dramas de familia》の表紙を飾るのは《El Sistema Solar》の登場人物たち

■クリスマスイブに家族が和解する話
《Números Reales》が薬局を営む中流階級の家族を扱っているのに対して、《El Sistema Solar》はかつてアシエンダ(大農園)を所有した大地主の家系を扱っている。ペルーには征服者たちに端を発する寡頭支配の歴史がある。その寡頭ぶりは「40家族の支配」とまで言われたほどであった。この社会構成にメスを入れたのがベラスコ将軍の革命政権で、1969年6月から南米最大規模の農地改革に着手し、1976年までにアシエンダは完全に解体され、農地のほとんどは社会所有の協同組合に転換された(*)。

作品ではかつての大地主であったソラール家の家族内の葛藤が描かれる。農地改革に直撃されて失意の晩年を送った大地主はすでになくなっており、その息子レオナルドは推定50歳代に達している。彼には35歳の娘エデュルネと30歳の息子パヴェルがいる。エデュルネは未婚だが、パヴェルには8歳の息子プリがいる。その子の母親はすでに亡くなっている。エデュルネとパヴェルの母親(つまりレオナルドの妻)は登場せず、言及もほとんどされないが、存命しているものの離婚してすでに長いものと想像される。
エデュルネは、弟のパヴェルとともに、クリスマスイブにパーティを企画し、長らく会っていない父を自宅に招く。彼女は妊娠しており、出産後の未婚の母としての生活に備えて、父に遺産の生前贈与を請うため、父と和解する機会を作ろうと考えたのだ。

娘に招待されてやってきたレオナルドは若い愛人パウラが押す車椅子に乗って登場して、皆を驚かす。レオナルドと息子たちの会話はのっけからぎこちない。エデュルネには下心があるので、はじめは愛想良くするのだが、父のほうで挨拶を返さないなどそっけない。パヴェルはパヴェルで、パウラが自分の元彼女であり、父に彼女を奪われたと思っているから、このような家族の再会に居心地の悪さを感じている。しかし、父は父で、この機会に息子たちと和解したいという動機を持っている。医者に余命数カ月の末期がんと宣告されているのだ。

この家族がクリスマスの一夜を過ごしながら和解の糸口を探っていく過程がこの作品のすべてである。対立を繰り返しながらも、途中、クリスマスに家族が行う習慣−−サンタクロースに扮したレオナルドが子どもや孫たちにプレゼントを配ったり、最後にクリスマスの飾りナシミエント(キリスト生誕の場面を人形で再現した置物。25日午前0時に幼子キリスト像を設置する習慣がある)に幼子キリストを置いたりといったシーンでは対立が中断され、家族は協力し合う。しかし、だからといって対立が解消したわけではなく、またすぐに再燃してしまう。それでも、「対立を抱えながらも絆で結ばれて生きていくのが家族というものである」――そう悟ったかのように、最後には父と娘は一緒にダンスを踊るのである。クリスマス・イブのほろりとさせる家族劇で、多くの観客に好まれることに納得がいくというものだ。


■農地改革以降の大地主の子孫たち
感動的ではあるが、これだけなら、やや陳腐と言われても仕方がない。しかし、この作品がそれだけのものに終わらないのは、移りゆく社会を生きる家族の抱える問題を掬い取っている点にある。

この劇の基調トーンとなっているのが、Los Iracundosというグループ(60年代グループサウンズ風の歌謡曲を歌うウルグアイのグループ)の1973年のヒット曲《Te lo pido de rodillas》(君にひざまずいて請う)。「君に電話したのは、もう一年もぼくらは話をしていないから。あのときの別れの誓いを破るため。僕は君に請うよ、ひざまずいて。僕のもとへ戻ってきて・・・」というような歌詞の歌だ。冒頭で舞台となる部屋に置かれたオーディオ機器から流れ、途中で2度、休戦を印象づけるように登場人物たちがギターに合わせて歌おうとしては中断され、そして、大団円で父娘はこの曲に合わせて踊るのだ。

演出家としてのMarianaは初演・再演ともに古い邸宅の一室を使って上演することにこだわった(初演と再演は別の邸宅を使っている)わけだが、観客は会場となる邸宅に入り、開演とともに上述の歌が流れると、それこそ1970年代前半へタイムリップした気分になったのかも知れない。しかし、オーディオ機器から流れる歌を停止した後に始まるエデュルネとプリの会話は、2006年に国際天文学連合総会で惑星の定義が定められ、惑星の条件を満たさない冥王星準惑星に分類されたという話題から始まる。プリが「冥王星から惑星の称号を取り去った」と伯母のエデュルネに教えると、彼女は「悪い子だったの?」と反応する。

こうして、芝居が始まってまもなく、戯曲の読者(およびMariana演出の上演の観客)は、時代設定が現在であったことを知るのだが、その認識は、「子どもの頃は太陽系に惑星が9つあった」と言うエデュルネに寄り添ったものであるなら、喪失と処罰の感覚を伴う。その感覚はそのまま、アシエンダを失う前のソラール家と現在の彼らとの暮らしの落差に重なるだろう。

この作品に舞台転換はなく、エデュルネが一人で暮らす家のリビングに固定されているのだが、その部屋の(従って舞台の)奥の壁には、大地主としてのソラール家最後の家長である、エデュルネとパヴェルの祖父の肖像が飾られており、劇中のすべてのできごとが、この紳士の肖像の下で繰り広げられる点を見逃してはならない。すでに死去しているものの、ソラール家の孫たちにとって権威であり続けているのだ。

祖父の肖像を祖母の家から持ち出して自分の部屋に飾っているエデュルネとって、祖父は理想の男性である。パヴェルは自分の飼い犬が祖父の生まれ変わりであり、祖父の若い頃の思い出を人間の言葉で語るという幻想をもっている。彼らの心には祖父が棲みついており、かつ精神的に成熟できないでいる。エデュルネなどはまるで反抗期の少女のように父に抗ったり、泣いたりするのだ。

彼女は鬱病で、ロンドンの音楽学校に留学したものの自殺未遂をして、数カ月でリマに連れ戻された過去があり、現在、彼女は自ら生計を立てる状態ではなく、彼女の住む家も父に与えたものであると思われる。経済的には完全に父に頼った状態であるにもかかわらず、そのことをすっかり忘れて、生前贈与を請うにあたって、「私はもう何年も何もお父さんに頼み事をしていない」などと前置きをしたため、父を激怒させる。

こうした心理的な関係には経済的な関係が反映されているに違いない。実際のところ、レオナルド以降の世代は、最後の家長の残した資産の恩恵に預かるところが非常に大きいであろう。レオナルドは親の代でアシエンダを失ったとはいえ、省庁(あるいは関係機関)に勤務し、随所に経済的に豊かであるようすがうかがえる。ペルー政府が農地を接収する際、土地・機械・家畜に対して金銭的な補償が行われたし、それ以前に蓄えた資産もあったことであろう。ペルーには相続税がないから、レオナルドは非常に高額な遺産を相続したはずである。そして、その恩恵は息子たちにも行き渡っていることは想像に難くない。したがって、この家族の一人ひとりを惑星に喩える――題名の「太陽系」(El Sistema Solar)がソラール家に重ね合わされていることは明らか――なら、彼らを照らしている太陽の光とは、ソラール家が大地主時代に蓄えた富のことではないか、と考えたくなる。


■大団円の底にある課題
ソラール家の表面的な和解にファンタスティックな雰囲気を与え、「これは幻想なのかもしれない」という保留をつけたエンディングは秀逸である。一度は首が取れてしまったキリスト像をエデュルネが修復しナシミエントに飾ると、何かを聞きつけてパティオに出ていたパウラが戻ってきて報告する――「亀(エデュルネの飼っている亀。パティオへ逃げ出していた)が『月に旗を立てろ』と言ってるわよ」。そして最後に、車椅子からレオナルドが立ち上がって、娘と踊り始める。

ここに登場する「月に旗を立てろ」というフレーズも両義的だ。末期がんのレオナルドに対して、未来に向かって鼓舞する言葉のようでもあるし、同時に、懐古的なニュアンスも持っている。ケネディ大統領が「人間を月に着陸させる」と演説したのは1961年、そしてアポロ計画の成功により人類が月に旗を立てたの1969年7月のことだ。したがって、このフレーズが流布し始めたであろう時期は、まさにペルーで農地改革が始まる直前である。だから、「未来への挑戦」を唱えるフレーズは同時に「過去の栄光」というトーンも帯びるのだ。父と娘の踊っている音楽が《Te lo pido de rodillas》であるのだから、この解釈は決して強引ではなかろう。

このような両義的な幕切れが示唆するのは、家族内の葛藤の背後にある、彼らが取り組まなければいけない真の課題ではないか。それは、肖像画の人物がいまだにソラール家の人々に働かせる引力から自由になることだろう。幻想的なエンディングの直前に、自分の父親がパウラとキスをしている場面に遭遇したプリが怒って、ピザを曾祖父の肖像画に投げつけるシーンがある。この行為は大変示唆的だ。その直前ではレオナルドがエデュルネに向かって、実はアシエンダを失った後の父は、現実を受け入れず、書斎に籠もって酒を飲むアル中であったと暴露している。最後の家父長の権威は失墜した。若い世代は、時代にふさわしい家族のモデルを探さなくてはいけない。それまでは、ソラール家は、いまだ農地改革ショック以降の過渡期を歩んでいるといえるのではないか。

劇場にやってくる多くの観客にとって、大地主の家系は自分たちとは別世界に住む特殊な存在だ。しかし、この劇作品の評判が高かったということは、大団円の口当たりの良さだけでなく、社会の変革を経験しながら、過去への懐古から未来志向へ転換し、新しいアイデンティティ・モデルを発見するという課題が、より多くの人々に共有される普遍性を備えているからかもしれない。

(*)細谷広美編『ペルーを知るための62章』(明石書店)p.159

四半世紀を超えて活動するリマの身体パフォーマンスグループ Íntegro

■意志を持った体と物体としての体の狭間で

バケツの水をぶちまけると、レモングラスの香りが客席に仄かに匂ってくる。舞台の一角にできた水溜まりの上で、先ほど衣装を脱いで短いショーツ一枚になった中年女性パフォーマー(Ximena Ameri)が両脚を前後に伸ばしてゆっくりと腰を落としていく。濡れた床の上で片方のつま先ともう片方のかかとだけで立っているのだから、いつ滑って体勢を崩してもおかしくない。観客がハラハラしながら見守る中、股間を床面に着地させることに成功する。

するりと脚を抜いて体の慣性に従って臀部で回転。そして、再び脚だけで立ち上がるべく、転んでしまうリスクに緊張しながら体をゆっくりと制御していく。こうした行為を休みなく繰り返していくパフォーマーの身体は、鍛え抜かれたダンサーのそれには見えなくて、加齢による衰えも目立ち、コントロールしきれないで床に体を打ち付けるなどのハプニングがいつ生じてもおかしくないように見えた。実際、途中からショーツの前を手で押さえるようにしていたのは、滑った拍子に脱げてしまうのではないかと不安になったからであろう。

こうして、意志によって制御された動きと慣性に従った動きの境界で行動していくスリリングなパフォーマンスは、《Jacobo el Mutante》 (2013)のもっとも見応えのあるシーンであった。

同じ上演のうち、最も美しく見えたシーンは次のようなものだった・・・荷台に横になった、これもパンツ一枚の顎髭の長い男性パフォーマー(Alonso Nuñez)。白衣を着たAmeriが一枚の葉っぱを彼の目の上に載せて、透明なビニールテープを乱暴に男の頭部に巻き付けていく。Ameriが男を立たせると、テープによって、まるでだるま落としの中段の円柱が左右に少しズレてしまった状態のように奇妙に歪められた男の顔がはっきりと観客に見える。

されるがままの男は舞台の中央に連れていかれ、銀色のヘッドフォンを被せられる。コードもボタンも何も付いていないので、何かを聞かせるためではなく、何も聞かせないためのものであろうか。

AmeriがNuñezの背後に隠れるように立って、両腕を脇の下から差し入れて、4本の腕による短いデュエットが演じられる。ゆっくりとした動きで4本の腕が作るいくつものポーズは仏像の印相を連想させる。Ameriの腕が視覚聴覚を奪われたNuñezの腕を先導する。列をなしてしなやかに泳ぐ2匹の魚を眺めるようで、じつに優美だ。

このときの照明の使い方が秀逸で、パフォーマーたちの頭上から照らすのだが、顔や体の前面は影になり、肩や両側に広げた腕の上面が闇の中に輝くように浮かびあがる。そしてその下には、体の輪郭だけがうっすらとピンク色に見えている。


《Jacobo el Mutante》の美しいシーン

■80年代半ばに美術系アーティストが立ち上げたグループ

上に紹介したのは、リマを拠点に活躍するÍntegroというパフォーマンスグループの最新作《Jacobo el Mutante》のシーンだ。Íntegroは、1985年――1984年とする記事もある。ちなみに、25周年イベントが実施されたのは2011年――に設立され、現在に至るまでペルー国内だけでなく、スペイン、コロンビアなどの海外での受賞や助成金獲得の経歴がある。彼らのフェイスブックを見ると、立ち上げ以来、コンスタントにほぼ毎年新作を発表しており、少なくとも近年はエスタブリッシュされた劇場や有名な遺跡の敷地などで公演してきていることから、「実験的」な表現活動にもかかわらず、舞台芸術の分野で確固たる地位を築いているグループといってよいだろう。

ただし、人気があるかというと疑問で、私が見た公演日(月曜日の夜20時)は通常のS/.30(約1050円)の入場料が1/3に特別割引されていたにもかかわらず、200人くらい入りそうな客席が1/3も埋まっていなかった。

グループはÓscar Naters(オスカル・ナテルス)とAna Zavala(アナ・サバラ)によって結成された。Natersは美術家の家系の生まれで、彼自身、造形作品やビデオ作品なども手がけ、グループの上演作品は彼が演出・監督している。

Savalaは経歴によればさまざまなダンスを修得したマルチなダンサーらしいが、これまで私が見た2公演に関する限り、今回の作品では出演しなかったし、2012年の《Intuiciones II》では、出演したものの、彼女のダンスシーンが特に要になっているようには見えなかった。長い活動のすえ、現在はもはやパフォーマンスの中心人物ではなくなっているのかもしれない。

Íntegroについては、グループ(grupo)の代わりに「創造的な核」(núcleo creativo)という表現が使われることがあるが、固定的なメンバーで活動しているのではなく、Natersの作る舞台に応じて、NatersとZavalaを核にその都度メンバーを集めるという活動形態をとっているのではないか。


25周年プロモーションビデオ

■観念主義的な創作活動に限界がある?

いろいろな点で勅使川原三郎とKARASを連想させるところもあるが、Naters自身は踊らないので、そこは大きな違いだ。そのためだろうが、一つひとつのシーンで見られるダンスの多くは魅力に乏しい(冒頭に紹介したシーンは例外的)。それはパフォーマーが淡々と振りを再現しているようにしか見えないからだ。振りそのものもごくシンプルな場合が多い。既存のジャンルダンスの「引用」として、あえて演じられていると見なすこともできる場合もある。

舞踏と見まがうようなゆったりした動きのシーンや呼吸を取り入れた振付も見られたが、私にはただゆっくり動いていたり、呼吸をコントロールしているだけのようにしか見えなかった。随所にそうした東洋趣味が見受けられるのだが、Natersの振付のアプローチは身体そのものから出発しているのではなく、スピリチュアリズムとでも呼ぶべき観念主義的なところに発しており、東洋的な意匠が援用されるのも、そうした事情からではないかと想像される。

パフォーマンスの全体はごく短いシーンをいくつも並べて構成されており、それらをつなぎ合わせるのは文学的なコンセプトであるようだ。《Jacobo el Mutante》の場合は、メキシコ生まれのペルー人作家Mario Bellatin(マリオ・ベジャティン)の同名の小説がその役割を果たしているのだろう。《Intuiciones II》では、舞台前面に紗幕を掛けて、インカ文明の世界観で「天上界/現世/地下世界」を意味するHanan / Kay / Uku という3つの言葉を順に投影することで、パフォーマンスの全体を3部に区切った。

そうした文学的背景について私がよく知らないためなのかもしれないが、40〜50分の上演が終わったとき、どちらの作品でも、まだ見るべきものを十分に見ていないような気がして不満が残った。冒頭に紹介した2つのシーンのようなものばかりを次々と見せてくれるなら、今後も注目していきたいのだが残念である。(了)

スペイン語版ブログを立ち上げました

スペイン語版のブログを立ち上げましたのでお知らせします。先日公開した"Números Reales"の劇評のスペイン語版を書いて公開することから始めています。内容的はこのブログへ書いているものと重なる部分が多いですが、読者対象としてペルー人を念頭に書いているので、ポイントの置き方などが違っています。最初のエントリについては、結果的に文章構成も全面的に違う形になりました。興味のある方はご覧頂ければと思います。

http://teatro.seesaa.net/
(Ver Es Pensar)

「暴力の時代」と孤立する核家族――Rafael Dumett "Números Reales"

■孤立したカルデナス家で起きた「父親殺し」
リマに暮らす中産階級で、高校生くらいの息子が二人いる四人家族の話。家族のことを全く顧みず、母親を愚弄し、暴力をふるう父親を長男は殺してしまう――これが物語の骨子なのだが、舞台に終始、寒々とした空気が漂っているのは、家族内の対立に加えて、この家族自体が孤立しているように見えるからだ。家族四人以外に、チョイ役も含めると10人の人物が登場するのだが、その中には、町で薬局営む一家の親しい隣人も、家族の誰かの友人も、あるいは親族も一切含まれていない。

だから、不可解な言動で家庭を破壊していく父親に、母親は孤立無援で対峙するほかない。幼い頃の息子たちを描いた情景では、近所の子どもたちと一緒に遊ぼうとするシーンが出てくるのだが、息子たちはすでにエキセントリックな父親の影響を受けているせいで、その言動は逸脱しており、結局、他の子どもたちと仲良く遊ぶことはできないのだった。別の人物からの影響によって、狂った父親の影響を希釈できればいいのだが、孤立する兄弟にはそのチャンスがない。彼ら、カルデナス家(los Cárdenas)は救いのない孤独を生きているのだ。

この作品の不条理な設定は、父親がどうしたわけか、天文学でたえず頭を一杯にしており、それゆえに家族に対して関心が薄いという以上に、妻に対しては攻撃的に振る舞う。妻を傷つけたいがために、若い女と旅行に行ったなどとうそぶいたりする。彼のそうした振る舞いの動機はまったく説明されない。Leonardo Torres Vilarが神経質に演じるこの男は、夢見がちな男というよりも、常に現実に苛立ち、現実を破壊したい衝動に駆られている男のように見える。

ある夜、父親が完成したという望遠鏡をもって、家族は揃って、星を見に出かける。これが家族の団らんであってほしいと願う妻は、望遠鏡を覗いて「見えた!見えた!」と喜んでみせるのだが、実は、望遠鏡は完成してなどおらず、見えるはずがないのだった。妻の反応に怒り、手荒く扱う父親を見て、長男は望遠鏡を凶器に父親を強打して殺してしまう。打ち殺すシーンでは、長男と父親は逆光に照らされて、何もない舞台にシルエットとして浮き上がる。下手で棒状のもの(望遠鏡)を何度も振り下ろす長男、上手に離れて立つ父親はそれに応じてよろめき、ついには倒れる。このシーンの演出は秀逸で、行為を象徴的に見せ、オイディプス王の物語を連想させるほどの広がりを与えている。


身を寄せ合う寂しい家族。しかし、崩壊の日は近い

■母親、そして「外の世界」
舞台は、タイトルである「実数」についての数学的な説明が読み上げられた後、少年院にいる長男(Renato Rueda)に次男(Emanuel Soriano)が面会に来るところから始まる。このシーンで印象づけられるのは、この兄弟が父親の影響を濃厚に受けているということである。兄は弟の喋り方が父親みたいだといってなじる。しかし、後に明らかになるように、兄こそがかつては父親の妄想に夢中になり、自分の熱意でもって弟を感化していたのである。彼らにとって父親は成長過程での唯一のモデルであったのであり、父親を否定しようとしても、自己否定の袋小路に追い込まれるだけなのだ。

あとから母親(Andrea Fernández)も面会にやってきたことを察知して、弟は物陰に隠れる。ここで舞台は過去に遡って前述の父親殺しのいきさつが挿入され、その後、再び少年院での現在に戻る。さて、母親はケーキを持ってきたのだった。今日は長男の誕生日。嫌がる長男を前に、ロウソクに火を付けて、「ハッピーバースディ」を歌ってあげる母親。ペルーでは誕生日を年齢に関係なく盛大にお祝いをする。だから、ハイティーンの長男のために母親の振る舞うこの行為は決して奇異ではない。

母の去った後、彼は大きなケーキを一人で食べ始める。神話的な父親殺しのシーンのあとで、口の周りをクリームだらけにして母親のケーキを黙々と一人で食べるこのシーンには、微かに禁断の香りがする。簡潔で鮮烈な演出だと思う。そこへ、同じ少年院に入っている少年少女3人が現れて、彼をからかい、ケーキをかすめ取って食べ始める。怒った彼は、隠しもっていたナイフを取り出して、彼らの手にしたケーキを返すように要求する。そして、反抗的な一人を殺してしまい、絶望して自らも隠しもっていた毒をあおぐ

彼が毒に犯されてよろめくと、かつて一度だけ通りで馴れ馴れしく声を掛けてきた色っぽい少女(María Fernanda Valera)がどこからともなく現れて、彼をやさしく看取る。彼女は継続的な交流が成立した相手などではなく、他人とうまく関われない彼が、自分に好意をよせてくれた貴重な存在として胸の内に大事にしまい込んでいた女性なのだろう。

このシーンが象徴するのは、彼が家族の「外の世界」に微かに触れながらも、ついにはまったく抜け出すことができないままに一生を終えてしまったということだろう。この少女との出会いと前後して、ゆきずりのちんぴら風の男(Paul Ramírez)に、サングラスを渡され、マッチョに振る舞うように指導されるシーンもあったが、これもまた長男が「外の世界」の風を感じる象徴的なシーンである。


少年院で更生中の兄(右)と面会に訪れた弟

■「暴力の時代」のピークに書かれた戯曲
作品は「父親殺し」という重いテーマを扱っており、その結末には救いもないが、それでも客席からはしばしば笑いが漏れた。父親の場にそぐわない逸脱したセリフ、その傾向を受け継いでしまっている兄弟の言動、そして、Valeraの演じるはすっぱな少女、Ramírezの演じるお節介なちんぴらの存在が、舞台に滑稽味を導入している。疑いもなく悲劇ではあるが、同時に寓話でもあるのだ。

ValeraやRamírezのような持ち味の俳優は、私が日本で見てきた小劇場で既に出会っているような気がして、どこか懐かしかった。特定の俳優名で例を挙げられないのだが、たとえば唐十郎の紅テントにこんな人物に出会ったとしても違和感はなかっただろう。

それどころか、作品そのものが、現在の日本で日本人が上演してもアクチュアリティを持ちうると思われる。「家族における父親の機能不全」というテーマが現在の日本でも関心の高いものであることは、2011年にヒットしたテレビドラマ『家政婦のミタ』からもうかがえるだろう。コミュニティとの関わりの希薄な都市部に暮らす核家族が必然的に抱えてしまう、国を問わない不安定性なのかもしれない。

もっとも、現在の日本の母親はこれほどに弱くないだろう。ここまで追い込まれる前に家を出ていくのではないか。おそらく、現在のリマだって、違うのではないか。

というのも、この作品は1991年に発表されたものなのだ。ペルー人劇作家・小説家のRafael Dumett(現在は米サンフランシスコ在住)は、25歳の誕生日にこれを書き始め、1991年に足かけ7年で完成させたという(つまり、Dumettは1960年頃の生まれという計算になる)。書き始めたときには全くテーマを決めずに書いていたが、学業優秀な息子が、母親に暴力をふるう父親を殺す事件が1カ月半の間に3度も起こったことに刺激されて、テーマは絞られたのだという。戯曲は、テロリズムの嵐が吹き荒れる80年代後半当時のリマの核家族が抱える闇を扱ったものなのだ。

ペルー真実和解委員会によれば、1980年から2000年までにペルーが経験した国内武力紛争で、およそ7万人が暴力の犠牲となって死んだと見積もられている。

ただし、「当時、私たちが堪え忍んできた政治的な暴力について直接的に暗示するようなことは絶対にしたくなかった」と劇作家が上演当日のパンフレットに書いている。実際、舞台にはそうした時代を感じさせるものは全く現れない。父親の捕らわれているのは極左思想どころか、思想といえるようなものですらない。テロリズムの横行した社会そのものをテーマとしているのではなく、恐怖が人々を孤立させた結果、核家族が抱えてしまった闇をテーマとしているということなのだろうか? 当時のペルーを知らない私には判断が難しい。

■今なぜ、演出家はこの戯曲を取りあげたか?
この作品ははじめ、フランスでラジオ放送され――劇作家はフランスへ留学中だったのだ――、その後、1994年にリマで初めて舞台に掛けられた(Alberto Isola演出)が、私がWebで調べた限りでは、その後の再演記録は見あたらない。おそらく、今回、19年振りに舞台に掛けられたと思われる。1980年からペルーを恐怖のどん底に陥れていったテロリスト集団、センデロ・ルミノソの首謀者アビマエル・グスマンが逮捕されたのは1992年9月のことだった。ピークは過ぎたものの、センデロの活動が終息したわけではなく、初演当時の人々はまだ「暴力の時代」を生きていたのだった。

劇作家は今回の再演に寄せて書く――「あの時代に生まれていなかったリマの人々、自分の暮らす社会環境の酷さを堪え忍ぶのになんの苦労もない人々、「暴力の時代」を過去の物語としてしか、幸いにも無関係な悪夢としてしか見なさない人々、そんな人々は(この舞台に)なにを見るだろう? 何を感じるだろう?」。つまりは、観客が「暴力の時代」を経験しているか、いないかで、この作品の受け止め方は大きく違ってくることが予想される。そういうことだと思う。

一方で、今回のこの戯曲を取りあげたのは、Dumettよりは10歳は若いと思われるペルー人中堅演出家のDiego Lópezだ(追記:1977年生まれと判明)。新聞の記事("El Comercio", 2013年3月17日)によれば、彼はこの戯曲と「暴力の時代」の関係について、次のように語っている。
「この作品に登場する家族は、我々の社会における父親の欠如、アイデンティティを形成するモデルの欠如を反映している」。「暴力は自然には発生しない。家族、社会の最小単位の内部で発生する。90年代初頭の欠乏はいまだに存続している」。「良くなってきたね、とどんなに言い合ってみたところで、それは繰り返されるなにかなのだ。もっと深いところでは、我々の社会はひび割れたままなのだ」

つまり、この作品が扱う問題は、社会を揺さぶったテロリズムそのものではなく、「暴力」の起源を問うことにあるというのだ。そして、この20年以上前に書かれた作品を舞台に引っ張り上げることで、かつての「暴力」を発生させた病理をペルー社会は未だに引きずっていると告発したいのだ。

記事の筆者(Enrique Planas)はこのコメントを次のように解説する。
「Dumettの作品における、失墜した父親像、どこにもたどり着かない錯乱した話をする語り手、本当の役割を果たせない不能性、これらはLópezにとって、我々の時代における政治家たちの姿を明瞭に指示参照しているのだ」

この辺りにこの作品を今のリマで上演するアクチュアリティがあるとPlanasは考えるわけだが、ここで注意すべきは、人々にとって、家族における父親が、社会における政治家たちのメタファーとして機能するのであれば、そのこと自体がその社会のもつ傾向を示唆するだろうという点だ。おそらく、日本もまた、同様の傾向を持っており、そしてLópezの告発する問題を共有しているのではないだろうか。

ちなみに冒頭で読み上げられる実数(números reales)の説明は、有理数(números racionales)と無理数(números irracionales)からなるというもので、これによって、「real」(現実の)には「racional」(合理的な)面と「irracional」(非合理的)な面があるということを指摘したかったのではないか。また、父親ののめり込んでいる世界が数学の言葉に満ちていることも関連しているだろう。

上演は、リマ美術館(Museo de Arte de Lima)のホールで、2013年3月15日から5月6日までの間の金・土・日・月に一回ずつ行われた(参考)。
(了)

文化集団ユヤチカニとサマースクール

■ユヤチカニというグループ
おそらく日本で最も知られている演劇グループ(そして、もしかしたら、知られている唯一のグループ)は「ユヤチカニ」(Yuyachkani)だろう。ユヤチカニは1971年に結成され、来日こそしていないが、中南米アメリカ・欧州での海外公演経験の多い、ペルーを代表するベテラン集団である。一昨年は、活動40周年を数々のイベントで祝った。

40周年記念展覧会の展示から

彼らを日本語で紹介する文章はWebでもみつかるので、ここで長く書くことはしない。ただ、彼らが自分たちを劇団とは呼ばず、文化集団(grupo cultural)と称している点には触れておきたい。彼らの活動の中心に演劇があることは間違いないが、「芝居をやるために活動しているのではない」というスタンスなのだ。

「ペルーという国は多様な文化の共存する国です。首都リマには、アマゾン文化、アンデス文化、沿岸の文化、黒人文化、中華系文化、日系文化など、さまざまな文化をバックグラウンドに持つ人々が寄り集まって暮らしています。そこで生じる問題をどうするか。文化の混合をどう生きるか。それを考えていくのが私たちの活動なのです」。メンバーの一人、アウグスト・カサフランカ(Augusto Casafranca)はそう私たちに説明してくれた。彼らにとって演劇はあくまで手段であり、手段が演劇でなければいけないとは考えていない。

おそらく外から見れば、演劇作品を通して観客に、多文化共存の問題を提起するという劇団的なアプローチが、彼らのもっとも目立つ活動だろう。しかし、その上演は、メンバーがペルーのさまざまな文化芸能を学び、それらを舞台上で共存させるという側面をもっており、そうすることで、彼らの演劇活動自体を、演劇に限定されない、ペルーの文化現象そのもののなかに位置づけようとしているのではないかと思われる。

わかりやすく言えば、彼らは舞台の上で、よく踊り、よく歌い、よく楽器を演奏する。そして、そうしたパフォーマンスは必ずしも「演劇」に奉仕するものとして演じられるのではなく、演劇の上演という枠組みを利用して、いろいろな芸能的要素を舞台上で出会わせるという意図が感じられる。

彼らは20年以上前からリマの中心部に「ユヤチカニの家」(Casa de Yuyachkani)と呼ぶ拠点を構えており、そこが主な上演会場となる。およそ800平米くらいの敷地(Google Mapで概測)で、そのなかに仮設の客席150人分ほど設置できる小劇場や、小道具や仮面、大道具を制作するスタジオやオフィス、カフェなどがある。

ユヤチカニの家(facebookから)
アウグストに聞いたところでは、ユヤチカニ助成金のたぐいは受け取っていないという。「かつて、出版をするときに少し貰ったくらい」。たしかに彼らの公演に数度足を運んだが、一度も文化省などの行政機関のロゴ、あるいは企業のロゴも目にしたことがない。彼らの活動はしばしば反体制的であるから、表現の自由を妨げうるものから距離を取る必要があるという。

ただし、拠点を維持する上での税金については、地域の文化活動に貢献することで支払いに換える方法をとっているという。地域レベル(distrito)の行政とは一定の協力関係をもっているようだ。文化活動を振興するための税制上の枠組みがあるのかも知れない。

そんな彼らの収入源となっているのが、いろいろなところへ呼ばれていって行うワークショップだという。彼らの拠点で毎年夏に行っている子ども向けのワークショップも、そうした活動の一つとして位置づけることもできるだろう。20年以上前からスラムなどへ出かけていき開催する子ども向けのワークショップを行っており、拠点での定期的なワークショップは12年間続けているそうだ。資金調達という側面はあるにしても、こうした活動もまた、前述のような問題意識によって動機付けられている。

「20周年公演のポスター」。日替わりでレパートリーを上演していることがわかる。40周年記念展覧会会場で撮影

■ペルーのサマースクール事情
ユヤチカニがスラムで行ってきたワークショップは、おそらく前の記事で触れたプクジャイ(Puckllay)やアレナ・イ・エステラス(Arena y Esteras)の先駆けとなったものだろう。

一方、拠点でのワークショップの利用者は、地域在住の中流以上の家庭が事実上対象となっていると言えるだろう。費用が1回3時間半×16回で1万9千円程度かかるからだ。この記事では、こちらのワークショップを紹介するつもりだが、その前に、利用者側から見た、このようなワークショップの背景について説明しておこう。

ペルーの幼稚園や学校は12月中旬から3月初旬(あるいは2月末)まで長い夏休みになる。この長い休みをもてあます子どものため、各学校・幼稚園、文化会館、美術館、スポーツクラブなどが、taller de verano(夏のワークショップ=「サマースクール」)を開催する。年末くらいになると、町のあちこちで「サマースクール」の広告が掲げられる。「サマースクール」が盛んなのは、治安上、日本の夏休みのようには、小学生が子どもだけで「いってきまーす」と外へ遊びに出たりはできない、という事情もあるだろう。外で遊ぶ代わりに、ガードマンに門を守られた囲われた場所で過ごすのだ。

1月と2月の2カ月間、月曜から金曜日まで毎日通うものもあれば、週3回(月・水・金)、あるいは週2回(火・木)というものもある。何か一つのことを習うコースもあれば、複数の授業が組み合わされて、朝から昼食前まで、通常の学校に通っているように過ごすスクールもある。前者は夏休みだけ通う「習い事タイプ」で、典型的な例は屋外プールでの水泳教室だ。後者はいわば学校の代わりになるようなものである。もし、日頃通っている学校や幼稚園で提供されるサマースクールに週5日通うなら、授業内容はともかく、子どもたちの生活時間は夏休み前とあまり変わらないことになる。

ユヤチカニが拠点で開くワークショップはそうした数あるサマースクールの一つである。週2回、午前中3時間半滞在して、複数のプログラムを体験するようになっているので、「習い事」ではなく学校タイプだ。


■ユヤチカニのサマースクールの目的とは
ユヤチカニのサマースクールの正式名称は「児童・少年少女のための創造性ワークショップ」("Taller de Creatividad Infantil y Juvenil")といい、3歳から12歳が対象の午前の部と13歳から16歳を対象とする午後の部に分かれている。項目としてあげられているのは、以下の通り。
・仮面、陶芸・造形芸術のワークショップ
・歌・音楽のワークショップ
・演劇的遊技のワークショップ
・サンコス(zancos/竹馬のことだが、足に装着するタイプで、ペルーの祭りではポピュラー)のワークショップ

どれも演劇と関連のある項目が並んでいるが、サマースクール全体としては、俳優を養成したり、演劇のまねごとをすることを目指すものではない。中高生を対象とする午後の部は、より演劇志向の内容にはなっているが、午前の部は子どもたちの年齢が低いこともあり、演劇的要素は希薄だ。

掲げられている目標は演劇ではなく、子どもたちの「市民としての連帯する姿勢と寛容さ」を育むことだ。首都リマには地方からの移住者が多く、前述のようなペルーの多様な文化が同居している状態にある。そうしたなかで、連帯と寛容の精神をもった市民を育てることこそが必要である――これがサマースクールに取り組む彼らの問題意識なのだ。

「学校でやっているようなサマースクールは、たとえば音楽の時間なら、この楽器を練習しましょうと決まっていて、みんなでそれを練習するでしょう。ここでは違います。それぞれが自分の得意なことをやって協力し合えればよいのです。ギターが得意な子、歌がうまい子、踊るのが好きな子・・・じゃあ、みんなで何が出来るだろう、と考えるのです」

このサマースクールでは、生徒に一律に何かを求めることはしない。けれど、場を共有するために学ばなければいけないことがある。アウグストはこんな例を挙げる。ある生徒はやってくるなり「ぼくは眠いから寝る」といった。さらに「腹が減ったから何か食べる」と言って、持参したスナックを取り出した。アウグストはその子に言った。「寝たいなら隅のほうで寝ていなさい。でも、食べるのは駄目です。君が食べ始めたら、きっとほかの子も何か食べたくなってしまうから。いまは食べる時間ではない」

ペルーに暮らし始めた日本人のおそらく誰もが戸惑うのが、ペルー人の周囲にまったく配慮しない態度ではないだろうか。車を運転していて前が滞っていれば、それがどんな原因で生じているのか、前方のドライバーたちに責任があるのか、彼らにとっても不可避なものなのかといったことは一切気にせずにクラクションを鳴らしまくる。あとから駐車する車や通り抜ける車に対する配慮のない駐車の仕方。誕生日になれば、近所の迷惑かえりみず深夜まで大音響で騒ぐ。スーパーマーケットで棚から取った商品を飲み食いしながら買い物をする(未精算で)。対策をこうじることなく、周囲に粉塵をまき散らす建設工事の現場・・・全般的にペルー人の市民意識が未熟なのは明らかだ。

日本では小学生くらいの間に当たり前のように身に付いていくことが、おそらくペルーでは学ぶ機会に不足しているのだ。だから、ユヤチカニのサマースクールは文化の混合以前にその基盤作りという点で、まさにメトロポリタン・リマでやる意義のある活動だと思う。

サマースクール最終日の発表シーン。後述の『忘却の番人』に基づく上演が行われた(5/6歳クラス)

■サマースクールの実際
ユヤチカニには10人のメンバーがいるが、サマースクールの運営に関わっているのは4人のみだ。この4人はいわば監督・監修役として働き、実際に生徒を指導する先生役を務めるのは、ユヤチカニを慕って集まってくる学生や演劇に関心のある若者たちだ。たとえば、国立演劇学校(Escuela Nacional Superior de Arte Dramatico)の学生などだという。

「子どもと遊ぶこと」と演劇。「子どもと通じ合い、彼らをその気にさせるコミュニケーションを学ぶこと」と俳優の仕事は深く関係しているとアウグストは主張する。そうした考え方に同調する若者たちからすれば、ユヤチカニのサマースクールは、ベテランの実地指導の受けられる格好の研修の場となるのだろう。

ユヤチカニは毎年、その年のサマースクールのテーマを設定する。そのテーマを基にして、実際に子どもたちと何をするか、先生たちはカリキュラムを考えていく。今年はスペインの児童文学作家ジスベルト(Joan Manuel Gisbert)の『忘却の番人』(El guardian del olvido)という作品を選び、「記憶」というテーマに取り組んだ。別の年には、『星の王子さま』が選ばれたこともあるし、文学作品ではなく、地域へのオマージュをテーマにして、環境汚染について調べたりしたこともあるという。

子どもたちは毎年およそ80人くらい集まるという。年齢層で区切られて、16〜20人程度のグループに分けられる。各グループには2人の先生がつく。教室は拠点の各スペースが開放されて利用される。

私には今年で6歳になる息子がいて、毎年行き先を変えて、これまでに3カ所の違うサマースクールへ子どもを通わせてきたが、今年は、ユヤチカニを選んでみた。彼は5/6歳クラスに配属された。彼のクラスの教室となったのはカフェだった。

彼がサマースクールでやってきたことは、彼の証言などから想像するに次の3つに分類できそうだ。
・造形工作
・体を使った遊び
・サンコス

このうち、テーマの「記憶」と関連性があるのは「造形工作」のみだろう。いろいろな作品を作ってきたが、その中で関連性がわかりやすいのは”家族の木”を中に入れたレタブロだ。レタブロはペルーの民芸品として知られる箱型祭壇。通常は祭壇のなかには宗教的なシーンが人形によって再現されていたりするのだが、その代わりに、生徒の兄弟・両親・祖父母の顔写真を葉として茂らせた木が入れられていた。大きな子たちのクラスでは、自分の家系について調べてくる課題が出されたらしい。

息子のその他の工作は、バインダーやカレンダー、ハーブの種を植えた小さな植木鉢などで、植木鉢については、担任の先生が「匂いは記憶と深い関係がある」と説明する。たしかにそうではあろうが、もはやコジツケの域に入っている気がしてならない。しかし、抽象的なテーマをどうやって子どもたちとの”遊び”へ落とし込むかを考える課題は、演劇人の卵にとって優れた演習になることだろう。

どの工作も、ほとんどが保護者から集められた不要品を材料に制作されている。保護者は最初の日のクラスのあと、「要らない物を何でもいいからたくさん持ってきて」と求められる。そうして集まってきた品々を見て、それで何ができるか、あるいは子どもの希望にどう応えるかを考えるのも先生たちの課題であっただろう。

「飛行機が作りたい」と言った息子が最後の日に持ち帰ったのは、ペットボトルを胴体に、スプーンをプロペラにして、段ボールの羽根を広げた飛行機だった。表面を細かくちぎった紙を貼って覆い、絵の具で美しく水色に塗ったその作品は、先生が仕上げに相当貢献したことは明らかだったが、幼稚園や以前に通ってきたサマースクールから息子が持ち帰ってきた作品と比べて、工作の発想や美術的センスにおいて格段に優れていた。彼の通っていた教室には教育者(だけ)ではなく芸術家の風も吹いていたようだ。

なお、最終日には『忘却の番人』に基づく上演があったが、セリフは全部先生が読み上げており、子どもたちは先生の指示で移動するか、その場で自由に振る舞ったり、これまでやってきた遊びをシーンの一部として披露するだけだった。上演のための練習は、リハーサルが当日一回行われたのみらしい。少なくとも5/6歳クラスの場合、演劇作品の上演をサマースクールの成果としているわけではないことは明らかだ。

とはいえ、実際のところ、2カ月間で息子がなにを学んだのかはまったくわからない。5〜6歳という年齢で1シーズン通っただけでは、効果が見えないのは当然かも知れない。だが、ユヤチカニのサマースクールにはリピーターが少なからずいるようだ。「彼らはここ(ユヤチカニの家)で育っていくんだ。今年は『記憶』がテーマだから、ああ、自分は昔、ここでこんなことをしたんだった――そんなふうに、彼らは記憶を掘り起こし、自分を振り返ることができる」とフリアン・バルガス(Julian Vargas)は誇らしげに語った。そんなふうにここで育った若者たちが次々と巣立っていくことが、リマを、ひいてはペルーを少しだけ変えることができる・・・ユヤチカニのメンバーはそんな夢を持ち続けているようだった。(了)

5/6歳クラスがハーブを植えた鉢植え。最終日の展示を撮影

家族の木のレタブロ。最終日の展示を撮影

「芸術と共同体 国際舞台芸術祭2012」とプクジャイの活動

■スラムの若者たちのパフォーマンス

首都中心部にあるリマ美術館(Museo de Arte de Lima, 通称、MALI)は、ペルー独立50周年の栄華を顕示する博覧会の会場として19世紀後半に建設された、それ自体が美術品のような建物である。
その美術館のホールで「芸術と共同体 国際舞台芸術祭2012」(Arte y Comunidad Festival Internacional de Artes Escénicas 2012)の一環として、チーム「プクジャイ」(Elenco Puckllay)の「道」("Caminos")が上演された。
40〜50分程度に渡って行われたそのパフォーマンスは、おおよそ次のようなものだった:

何もない舞台に、トレパンにTシャツといった普段着の十代後半とおぼしき若者数名が現れ、側転、バク転(後方倒立回転とび)、あるいは組体操を演じる。あるいはフォーメーションを組んでモダンダンスようなステップを踏む、竹馬(zancos)を履いて歩き回る、ジャグリングをする、ひっくり返したプラスティックのバケツを腰につけて、それをドラムのように叩いてリズムを刻む・・・

こうした素朴なパフォーマンスの合間に、パフォーマーたちが一人ずつ順番に行う、自分の親や家族についての訥々とした語りが挿入される。
テロリズムが激しくなったので、アヤクーチョからリマに逃れてきた・・・
「カラバイジョの丘に自分の土地をもったものの、働くためにリマへ通うには、ゴミ収集車の乗せてもらうしか交通手段がなかった・・・
「水道水が来ていないので、歩いて10分のところへ汲みに行かなくてはならない・・・

パフォーマンスのなかには演劇的なシーンも挿入されるが、そこでは同じ一つの地域で暮らすパフォーマーたち自身の殺伐とした日常がスケッチされる。
すなわち、わずかな持ち物を売って歩いたり、あるいはそれを強引に奪ったり、声を掛けてきた相手を「チョロ!」と罵ったり、といった彼らの社会の”コミュニケーション”の姿である。「チョロ」(cholo:田舎者、先住民の血を引く者を指す差別語)という語がもつ差別的なカテゴリは、罵られた者も罵った者も、彼らに等しく当てはまるので、見ていてなんともやるせない気持ちにさせられる。

チームプクジャイ「道」より(芸術祭facebookより)

彼らは首都リマの郊外にある入植地「カラバイジョの丘」(Asentamientos Humanos Lomas de Carabayllo)で暮らす若者たちなのだ。彼らの多くは、親がアンデスの山から下りてきた入植地の二世たちだ。

パフォーマンスそのもののナイーブさ、及び表象される世界の貧しさが、リマ美術館という会場と著しいコントラストをなし、軽いめまいを覚えるほどだ。

この上演が与える最大のインパクトは、舞台の上の若者が、パフォーマンスを通じて表象されるような世界で実際に生きているという、上演の外部で与えられる情報に由来している。身も蓋もない形で要約するなら、「過酷な環境で貧しさに耐えて生きながらも、私たちは自分を律することを学び、これだけの芸を修得するに至りました!」というメッセージに尽きる。

このように書くと、舞台芸術としては高く評価できないと言っているに等しいが、しかし、この舞台を見れば、そんなことはどうでも良いと思えてくる。ここでは舞台芸術は「道具」として機能していて、若者たちを生き生きとさせるのに役立っているのがわかるからだ。そして言うまでもなく、これは彼らだけで完結する話などではなく、舞台上の彼らの存在そのものが、観客もそこで暮らす社会全体の歪みを告発しているからだ。

けれども、若者たち自身の姿を見ている限り、観客に向けてアピールしようという意志はあまり感じられない。むしろ、淡々と自分たちの練習してきたことを舞台上で再現しているという印象を受けた。彼らの活動は、舞台で観客に訴えるために行ってきたのではないからだろう。演劇ではあるが、第一義的には、演じている彼ら自身にとって必要なことをやっているという性格の活動なのだ。だから、「趣味」と括ってしまうことも可能ではあるが、それでもなお、私たちが見る価値のあるような、そうした舞台である。

チームプクジャイ「道」より(芸術祭facebookより)

■首都周辺部で膨張するスラム
ペルーでは1950年頃から、山岳部などの貧困層が富の集中する首都リマへ流入し始め、首都周辺部にスラムを形成していった。「道」を上演した若者たちの暮らす「カラバイジョの丘」は、リマ北部にあるそうしたスラムの一つだが、1990年代に入ってから人口が急増し、より周辺へと膨張して、彼らの住居は丘の上のゴミ処理場(ゴミを埋める場所)へと迫るに至っている。

彼らの住居はレンガ、アドベ(日干しレンガ:材料はその辺の土だ)、あるいは吹けば飛ぶような薄い木の板で作った、囲いとしての機能しかないような「家」だ。リマを南北に貫通している国道1号線(パンナメリカン・ハイウェイ)、あるいはアンデス山脈へ分け入り、東へと伸びる国道22号線(Carretera Central)を首都中心部から郊外に向けて20kmも走れば、道路の周辺は若いスラムの地域で、そこでは、巨大な犬小屋のような「家」と表現しても差し支えないようなプレハブを並べて売っている光景に出会うことができる。

「カラバイジョの丘」は人口3万にまで膨れあがったが、草木のほとんど生えない荒れ地斜面にそうしたそうした「家々」が立ち並んでいる。斜面の上には、ゴミ処理場が控えており、そこでは、乾電池やプラスティックを燃やす非合法なリサイクル活動が行われており、それによって大気が汚染されている。さらには、ゴミをエサに豚を飼う人々がいる、上下水道がない、など衛生的にも劣悪な環境だ。

こうした地域も行政区分ではリマ市(La Municipalidad de Lima)に属している。リマ市は日本で言えば、東京都に対応する行政区分と見なすのが適当で、面積的にも東京都の1.2倍ほどだ。リマ市はスラムの環境改善に取り組んでいるようだが、なかなか追いついていないのが現状だ。

パフォーマーたちの親の世代が到着した頃には、リマ中心部と「カラバイジョの丘」を行き来するには、ゴミ収集車に乗せて貰うしかなかったが、現在はバスが両地域を結んでいる。とはいえ、スラムは治安が非常に悪いため、中心部に住む人々はあえて近寄ったりはしない。中心部の人々は半ば意図的にスラムの人々のことを忘れて暮らしている。スラムで暮らす人々は、経済発展を続ける首都リマに非常に安価な労働力を提供しているわけだが、図式的に言うなら、中心は周辺から労働力だけを吸い上げて、その提供者である人間は見えない存在にされているのだ。

「酷いショックでした。私たちのこんな近くに、こんな酷い環境で暮らしをしている人たちが居るなんて・・・ 飴玉一個に眼の色を変えて喜ぶ子どもたちがいるなんて!」――ボランティアで教会の活動に参加して、「カラバイジョの丘」の子どもたちにクリスマスのプレゼントを届けに行ったときのことをある知り合いは私にこう語った。リマに生まれ育った彼女がそこへ行く以前にスラムの暮らしについて知らなかったはずはないが、普段は不可視化されているから、現実を眼の辺りにすることはショッキングなのだ。

中央道付近の「家」の販売風景

■周辺入植地を都市の中心で可視化する演劇祭
今回の「芸術と共同体 国際舞台芸術祭2012」は、このような関係にあるリマ中心部と入植地との間に交流をもたらし、ひいては社会に変革をもたらすことが大きな目的となっている。11月22日から12月2日までの期間に、両地域の会場で開催され、海外(フランス、ベルギー、コロンビア、アルゼンチン、ブラジル)から10のグループ、国内からは15のグループが参加した。

各団体が2地域の両方の、あるいは片方の会場で公演を行い、首都中心部での公演では25ソーレス(750円程度)の入場料を徴収し、入植地では無料としている。有料にしたら地元の人は見ないであろうから、これは当然といえば当然。中心部公演の入場料の25ソーレスは私の感覚では、公演の規模(会場、出演者数、舞台美術等)から判断して、決して安くはないが、これで入植地の公演を賄うほどの額ではない。

入植地側で行われるイベントを見るために、中心部側の住民がスラムへ出向くことはおそらく稀だと思われる。また、私の見た若者たちのパフォーマンスの公演には、200人程度収容可能と思われるホールに50人ほどの観客しか来ていなかった。それも、多くは関係者ではないかと思われた(その日が、スラムの若者たちが中心部で行う唯一の公演であった)。従って、「交流」はかなり限定的なもの出会ったと想像される。それでも、プロフェッショナルなパフォーマーたちが演じるフェスティバルの他の公演はもっと観客を集めていただろう――私は、もう一つだけ、ブラジルの「カレイドスコピオ」(Caleidoscopio)というグループの公演を見に行ったが、そこでは客席が7割くらい埋まっていたように見えた――し、各会場のロビーで展示された入植地での活動を紹介するミニ写真展、また、中心部の他の博物館で開催された討論会などが、スラムの人々を「可視化」するのに機能したのではないかと思われる。

このイベントはリマ市ほか多数の支援を得ている。第1回が2010年に開催され、昨年の第2回までは国内団体のみの公演だったのが、3回目の今年は、Iberescena基金(2006年に設立した、スペイン、メキシコ、中南米諸国で運営される舞台芸術を助成する基金)の助成金を得て、海外団体の招聘が可能になった。

イベントを運営する「プクジャイ」は、芸術家や教師、ボランティアからなる団体で、2003年の暮れに「カラバイジョの丘」で学校プロジェクトを立ち上げた。放課後(ペルーの公立学校は午前中で授業が終わる)に音楽、ダンス、演劇、ジャグリング、アクロバット、美術などを学ぶ4年間コースである。

スラムの子どもたちにこのような場を提供する目的は何か? (1)有害な労働に従事する児童を減らす、(2)不良グループの形成を防ぐ、(3)不登校を抑制する、(4)自尊心、理解力、想像力、そして問題解決の代案を探す力を増進させる、などが、プロジェクトのホームページで説明されている。「文字通りゴミの中で暮らしている」(22 de abril de 2010 La Republica.pe)と新聞で書かれる若者たちに、プクジャイのような場がどれほど有意義であるか、想像に難くない。

芸術を通じて、リマのスラムに生きる若者たちを精神的荒廃から救う活動は、他の地域でも行われている。リマ南部の地域「ヴィジャ・エルサルバドル」(Villa El Salvador)では1992年から、プクジャイに先行して「アレナ・イ・エステラス」(Arena y Esteras)という団体がやはり芸術家や教師らによって組織され、同様の活動を続けている。この団体は文化省からこれまでの活動が認められて、2012年の「文化賞」(El Premio Nacional de Cultura 2012)の「優れた実践」(Buenas Practicas)部門で表彰される。ちなみに、「アレナ・イ・エステラス」も今回のフェスティバルに参加して、「カラバイジョの丘」で公演を行っている。

ペルーでは、地方経済の底上げ、増殖するスラムの環境改善など、解決の待たれる大きな社会問題の末端で、舞台芸術が若者たちを救っている。


「カラバイジョの丘」で芸術祭の準備をする様子。折り鶴がトレードマークになっている。ペルーでは「ORIGAMI」という言葉が定着しているほどポピュラー(芸術祭facebookより)

ペルーの参加する観客たち

ペルーの子どもたちの舞台への反応はとてもビビットだ。舞台から俳優が問いかければ元気よく応えるのは勿論だが、それだけでなく、誰かが主人公に悪さを仕掛けようとしている場面では、主人公に注意を喚起するし、追いかけっこやかくれんぼの場面では、「あっちだ、あっちだ!」と盛んに声を掛けて、手助けしようとする。

ペルーの子どもたちには、日本の子どもたちにはみられるように、ほかの観客に注目されたら恥ずかしいとか、あるいはこんな公共の場で大きな声を出すべきではないのでは、といった躊躇(ためら)いがない。幼稚園児から小学校高学年くらいまで、かなりの年齢幅の子どもたちが、そうなのだ。

パロサントの場合、使用しているホールが小さく、舞台と客席が物理的に近いことも幸いしている。より大きな区立文化会館のようなところでは見られない、より親しい関係が成立している。たとえば、舞台で男の子(役の俳優)が、女の子(役の俳優)のものを奪ったりすると、客席のおませな女の子から、「女の子には優しくしなければダメなのよ!」と注意が発せられたりする。まるで、近所の悪ガキを叱っているかのようだ。

こんな調子で、幼い観客たちは自由に登場人物たちを応援したり批判したりしている。特別な仕掛けを導入しなくても、ごく自然に観客が演劇に参加する空気が生まれているのだ。ここでは演劇が息づいている――偶然に客席に集まった人々が、舞台を媒介して、共通の価値を確認し合ったり、あるいは違う価値観の持ち主を認知したりできる、そう思わせる空気がある。

しかしながら、こうした場に集まってくるのは社会のごく一部の階層のみであり、こうした場で演劇が提供できる交流は極めて限定的にならざるをえない。ペルー社会の深刻な問題が階層による分断であることを考えれば、ペルー演劇の可能性を知るためには、もっと別の場所を探らなくてはならないだろう。(了)