『カール・マルクス:資本論、第一巻』のパフォーマーたちの輝き

今月初め、リミニ・プロトコルというグループの創る舞台を初めて観た。にしすがも創造舎で『カール・マルクス資本論、第一巻』(東京版)を観て最も印象的だったのは、舞台に立つパフォーマーたちの輝きに満ちた顔だ。彼らは今、この舞台に立っていることを誇らしく感じている。そう確信させる輝きだった。

出演者12人は全員が役者としては素人であり、それ以上に重要なことは、皆、彼(女)自身として振る舞っているという点だ。だから、誇らしい気持ちは、演技(パフォーマンス)でも職業的なもの(〈パフォーマー〉:社会的役割)でもなく、その場で自身として振る舞っていること自体に由来しているのだ。

彼らの顔の輝きは自身の人生への肯定である。上演中、舞台と客席で構成される場内全体にくつろいだ雰囲気が生まれていたが、その空気の最大の源泉は、演出や台本によって仕込まれたユーモアではなくパフォーマーたちの人生への肯定にあると思う。人生を肯定する人を見ることは、何にせよ人にポジティブな情動を発動させる。

そういえば、今回のフェスティバル/トーキョーでも再演されているようだが、昨年6月にさいたま芸術劇場大稽古場で見たさいたまゴールド・シアターの公演(『95kgと97kgのあいだ』)を思い出す。ゴールド・シアターのメンバーもそれぞれの人生を背負って舞台に立つ素人俳優たちだった。演劇に対するスタンスが違うのだから当然といえば当然なのだが、彼らはにしすがも創造舎で見たパフォーマーたちとはあまりにも印象が異なっていた。埼玉の彼らは、舞台に立って居ることに興奮していたが、同時にまるでパフォーマンスを通して解放に向かって闘争している、あるいは鬱屈を晴らそうとしているようにも見えた。

無論、台本やテーマの問題はあるだろう。それは別として、パフォーマーの上演へのスタンスの違いから生じている存在の印象の違いは何か。埼玉の彼らは、自分の人生をパフォーマンスのリソースとして扱い、劇場の制度に自らを積極的に服従させるようとしている。学んだ表現の術に馴化させ、蜷川の演出の中で生きようとしている。俳優というもの(=〈パフォーマー〉)の既成のイメージがあり、それを習おうとしている。そこにある種の屈折が生じている。それに対して、舞台に立つことを自己目的化していない『…資本論、第一巻』のパフォーマーたちは劇場の制度からなんと自由であることだろう。

たとえば、観客が終演後、偶然、街角でパフォーマーの一人に出会い、彼らの共通の事象である上演について話しかけるとする。すると、ゴールドの場合は、他のプロの俳優の場合と同様に、2人の関係は俳優-観客の関係によって規定されるだろう。ゴールドのメンバーは今後も舞台に立ち続けることが、いわばアイデンティティだからで、「自分を応援してくれる観客は大事にしておこう」などと思うかも知れない。一方、『…資本論、第一巻』のパフォーマーたちの場合は、個別の対等な市民同士の出会いとなるだろう。というような違いを、観客がすでに観劇中の段階で感じ取っているという点が、上演のあり方を新しくしている。

あまり整理しないでくだくだしく書いてしまったが、(1)素人に演技させる、(2)オケージョナルな登用である、といった試みの舞台芸術はそれほど珍しくないし、ゴールド・シアターのように(3)パフォーマーの個人的な生をリソースとして活用する、といったことも行われている。だが、(3')パフォーマーの個人的な生を上演が搾取するのではなく、舞台が相互交流の場として提供される、といった試みのものは、そうした数々の実践とは本質的に違う次元を出現させているのではないか。その出現によって、上演というサービスが市民間のコミュニケーションの場へと歩み寄り、劇場の制度が資本主義社会で便宜的に採用される形式的手続きに接近している・・・そういうことではないか。リミニ・プロトコルは素晴らしい!