女子高生が女子高生役を演じるということ

先月末に観た平田オリザ作・飴屋法水演出『転校生』(東京芸術劇場中劇場)は、前回のエントリーで触れた問題と非常に関連性の高い舞台だ。評判も非常に高いようだ。でも、わたしは不満だ。

女子高生たちの日常的な会話劇を、アマチュアの実際の女子高生(あるいは最近までそうだった元・女子高生)たちに演じさせるという仕掛け。この仕掛けを生かしつつ、同時に平田が戯曲に込めようとしたテーマ――若くある人間にとっての「生と死」――を打ち出したラストシーンはたしかに圧巻だった。

淡々と117番の時報(時刻案内サービス)が流れ、バックスクリーンには出演している女の子たち(と転校生役の岡本孝子)の名前が生年月日とともに表示されていく。そうした環境の中で、高台の上で一列に並んで手をつないで「せーの」という掛け声とともに5秒おきに飛び跳ねる女子高生たち。着地の際の「ドスン!」という音が胸に響き、彼女たちの身体の物理的な存在感とエネルギーが伝わってくる。

この非常にシンプルでありながら強烈な印象を与えるシーンは、彼女たちが俳優=<パフォーマー>ではなく、彼女たち自身として認識されるからこそ、効果的なのだ。芝居が終わったあとにも、彼女たちハイティーンの人生が確かに続くということ。そのことを思わずにはいられない。

しかし、ここでクローズアップされる生・死・若さという普遍的なテーマに「女子高生」(出演者たちは皆、それらしい制服を着ている)という属性を導入したことの意味が示される、このシーン至るまでの長い会話劇はどうなのか。

そこでは彼女たちは、平田の書いたセリフを伝達する単なるメディア以上の扱いを受けていない。テーマが浮上してくるよう、素材を巧みに組み合わせて会話の内容を構成し、その会話群を観客が聴き取りやすいように時系列に配置する――さながら五線譜にでも書いたかの如く設計されたセリフ群がテンポ良く彼女たちの口から発せられていく。そして、ある程度、複数の会話の同時進行が継続すると、「…てな感じでお喋りが続きましたとさ」とでも言いたげな、シーンをラッピングする安定したテンポのBGMが控えめに流れ始める。

なぜ、生身の彼女たち自身を平田の構築したシュミラクルのような女子高生像で覆ってしまうのか。お仕着せのイメージを屈託なく演じる彼女たちを見せることで、与えられたイメージを纏う存在、飼育される存在として女子高生という属性を浮上させたかったのか? もしそうであるなら、もっと戯曲と身体の間に距離をとるような演出が考えられても良かったのではないか。そうすることで、ハイティーンのパフォーマーたちが彼女たち自身として振る舞えるように。

いや、そんな意図を期待するのは過剰な深読みというものかもしれない。転校生役を70歳代の女優に演じさせるアイデアはそれとは別の可能性を示唆する。しかし、このアイデアがなんとも中途半端な印象を与えてしまうのは、やはり、実際の女子高生が女子高生の役を演じることの意味が見えにくい演出だからだ。単にそれが自明なこととして扱われているように見える。演劇の舞台は、役者と役の間に年齢的な隔たりや、ときには性別の違いがあることを許容する空間である。だから、70歳代の女優が女子高の転校生を演じ、その転校生を他の女子高生たちが驚くことなく受け容れるのはちっとも奇妙なことではない。転校生と在校生たちを演じる俳優の年齢差に演劇的な意味を背負わせるなら、ハイティーンのパフォーマーたち自身を戯曲の言葉に従属させてしまってはダメなのだ。つまり、どちらにせよ、わたしの不満はそこにある。