リミニ・プロトコル 『Cargo Tokyo-Yokohama』のヌルさをどう考えるか

『Cargo Tokyo-Yokohama』の楽日(21日)に参加してきた。
天候にとても恵まれ、湾岸線を走りながら眺めるクレーンの立ち並ぶ港湾の風景や、ベイブリッジから眺めた夕日を大いに楽しんだ。ラジオパーソナリティの語りのように耳に届く、二人のトラックドライバーのお喋りも、風景への関心の持ち方へのガイドになった。実際にトラックターミナルに停車して行われるライブでの、あるいは映像の記録による”ミニ社会科見学”も趣向として悪くないと思った。

とは言え、このミニツアーでは、目前の風景を斯くあるものとして構成させている社会システムが内包する諸問題については、よくわからなかった。ドライバーたちの語りから、ひところTV等のニュースで耳にしたバスやトラック運転手の過労運転事故の話題が想起されたりして、そこになにか大きな社会的な不合理・不平等が横たわっているに違いないと想像したりもするのだが、そんな想像はTVの前でするようなものと変わらない。

観客を荷物とする趣向や、出発地を東京ではなく新潟とする設定があるのだが、ウソをつく側が自分のウソに白けてしまっているような感じだったので、観客側もそうした設定が言及されるたびに微苦笑してしまうのだった。公演者やスタッフたちがほとんど形式的にしかそうした設定を受けとめていないことは明らかだ。また、ガラス窓の棧に時折投影される日本通運の年表も、TVの画面の下の方に流れる補足情報みたいで、仕掛けとしては面白いが、なぜ、この情報なのか、他に連関する情報提供がないため、唐突な印象が強く、あまりに恣意的に思えて構えてしまう(*)

そんなこんなで、F/T09秋劇評コンペに投稿された堀切克洋「「本物」はどこにあるのか」の批判は、もっともだと思う部分が多い。それに、読んで勉強になる。

しかし、引っかかるところもある。それは、以前、ある日本人演出家の手による、大きな社会問題をテーマにしたポストドラマ演劇を見たときに感じた居心地の悪さにも関わることだ。

その舞台は、テーマとなっている問題をまな板に載せるには、作品の構えが浅く、ソースが偏っているように感じられた。そして、そうした恣意性や散漫な印象は、どうも調査・研究不足からくるのではないかと想像された。たぶん、その作者は五年十年とその問題に取り組んできているわけではなく、流行のポストドラマの手法を展開させるための材料として、たまたまその問題を選んだだけなのではないか……主観的な憶測ばかりになってしまって申し訳ないが(だから、作品名を伏せておくのだが)、そんな風に思えて仕方がなかったのだ。掘りが浅く感じられるという点では、『Cargo Tokyo-Yokohama』も同じだ。

でも、リミニ・プロトコルの今回の作品と、私が以前見たその日本人演出家の作品とでは大きな違いがある。それは、長い時間を掛けて社会に根を張った複雑な社会問題を取り上げるに当たって、作り手自身の限界を自覚して作っているかどうか。また、なぜそれを、ほかでもないポストドラマ演劇によって提示するのかを真剣に考えているか(本当にその問題を多くの人々に知らしめたいと願うなら、もっと有効な方法が別にあるのではないか?)、という点にある。

その作品を見た私は居心地が悪かった。誰もがそれは問題だと頷かざるを得ないような切り口で実社会からサンプリングしてきた映像やテキスト、その他を取り上げて、正しいこと、立派なことをやってるゾ、という態度がプンプンと匂っていた。おまけに、演劇史的な引用やパロディ的なことまで行って、一見、従来の演劇とは違うけど、これは紛れもなく演劇作品なんだというこれ見よがしな飾り付けまで周到に行われていた(頭の古い評論家対策?)のだ。

『Cargo Tokyo-Yokohama』は対照的だ。なによりも、リラックスしたムードが基調になっている。リミニ・プロトコルのメンバーはこの公演によって、自分たちが日本の物流界で働く人々の置かれている状況の「現実」に切り込めるなどとはきっと思わなかっただろう(そんな風に考えることは不遜であるとすら言えるだろう)。観客が日常とは違った形で実社会と戯れることのできる回路を仮設してみよう――が、私が『Cargo Tokyo-Yokohama』を体験して感じとった基本的なスタンスである。想像だけど、川俣正の仮設の足場インスタレーションを体験するのにちょっと似ているのかも知れない。

欧州での『Cargo』がどんな公演だったのか私は知らないが、彼らはある社会現象に焦点を当てても、そこから「問題」を切り出してきたりはしないのではないか、と想像する。切り出してくると言うことはある特定の物事の捉え方を提示することである。私が体験した彼らのもう一つの作品『カール・マルクス資本論第一巻』は、そういう構えの舞台だった。

彼らは、観客が普段はなかなか簡単には出来ない(あるいはしない)領域にアクセスできてしまうような回路を実社会に仮設する。その回路はごく表面的な接触の機会を可能にするものでしかないが、誰もが巡って楽しいものであるように工夫されている。巡ることで観客たちは何かを発見する、かもしれない。何を発見するか、どのような見方をするべきか、については、なるべく誘導することは避ける。いずれにしても、公演が提供できるのは切り出された社会問題などではなく、観客の関心を起動させるためのほんのきっかけに過ぎないのだ。

このスタンスの問題とも関連するのだが、「「本物」はどこにあるのか」の批判でもう一点、引っかかったところは、出演したトラック運転手たちが、トラック運転手の過酷な状況を表象していないことへの不満である。社会問題を表象するような典型的な人物を取り上げて、問題点を”人格化”するのは、ドキュメンタリー番組や映画がやればいいことである。そんなことは、ポストドラマ演劇でやらなくてもよい。

畑中力さんと青木ミルトン登さんという実際の二人のトラック運転手が私たちの前に現れたこと(希有なことである!)。そして、彼らが彼らの主体性に基づいて自分たちの経験を語り、家族を語り、プライベート写真を披露すること。そうしたものに触れて、ほんの少しだけ社会を構成する他者の人生を垣間見ること。ジャーナリスティックな関心の持ち主からすれば、「なんだそんなこと」と思える程度のことかもしれないが、こうしたことがリミニ・プロトコルの上演での大事な経験なのだと思う。

彼らは別に時代や制度の被害者などではなく、彼らなりに人生を楽しんでいる。だが、心配は要らない。観客は誰も、畑中さんや青木さんがトラック運転手の典型だなどとは誤解しない。この延べ20数日間に渡る上演に出演できること自体、彼らにゆとりのあることを裏書きしている。プロジェクトの趣旨を理解する知性と、観客を楽しませるお喋りのできる人格の持ち主であることも、出演の条件に含まれていることに気付かない観客はいない。

しかし、ジャーナリズムを標榜するマスメディアは、社会問題を観客に印象づけるために、彼らの人生からある側面だけをクローズアップし、別の側面を隠しておくだろう。そうすることで歪められた「現実」が切り出され、畑中さんや青木さんの人生は素材として搾取される。あるいは、もっと悲惨な状況に追いこまれているトラック運転手を探しだしてきて、その人によってトラック運転手全般を代表させようとするかも知れない。芸術活動として行われるリミニ・プロトコルの上演の意義は、そうしたやり方とは真っ向から対立するところに、おそらくある。

ジャーナリズムの手法が悪だと言いたいのではない。問題を可視化するためには、そうした単純化も必要だろう。しかし、リミニ・プロトコルの芸術は、むしろ、そうしたやり方が切り捨ててしまい、歪めてしまうことを補償するためにこそ、あると考えるべきではないか、と言いたいのだ。

(*)あるいは、この仕掛けは、テレビのドキュメンタリー番組の批評としてとらえるとこともできる。テレビでは画面の下に流れるテキストが、現実を映している映像への視線を歪ませる。『Cargo Tokyo-Yokohama』ではこの関係が逆転している。視聴者は、ほとんど光景の中に放り込まれていて、光景に圧倒されており、流れるテキストの方が、それに対してどう関連づけたらいいのか、視聴者は困惑するのだ。