五反田団『生きてるものか』――無効にされたメメント・モリ

暮れから続いた仕事の波が去ったので、今更ではあるが去年見た舞台で書きそびれていたことを少し書こうと思う。

とりあえず、五反田団のことから。

子を宿した妻と、彼女のお腹に耳を当てる夫がさりげない会話を交わして溶暗。これが09年10月に東京芸術劇場小ホール1で上演された『生きてるものか』のラストシーンなのだが、この夫婦は生まれてくる子どもを見るどころか、すぐに死ぬことになることを観客は既に知っている。だから、極めてもの悲しい余韻を残す幕切れとしても捉えられるはずなのだが、とてもそのようには感じられなかった。

なぜなら、ラストシーンの時点で、物語と、芝居の始まりから幕切れまでの観劇体験の実際との間に著しい乖離があるからだ。

この作品は、ありふれた市民の生活に、謎の病原体が原因とおぼしき変死――健康な人間が突然もがき苦しんであっという間に死んでしまう――現象がみるみる広がっていき、最後には全員死んでしまうという物語を、時間を逆転させて演じたものになっている。

どういう時間操作かというと、全体的な操作として、映画『メメント』(クリストファー・ノーラン監督,2000)と同じ手法が取られている。全体を複数のブロックに切り分け、ブロックの配列を逆順に並べていく。ブロック内では時間は通常通りに順行する。だから、冒頭シーンで示されるのが物語の結末で、舞台の上に俳優全員が横たわっている状態。舞台が終わって、観客は頭の中でブロックを並べ替えると、上述のような物語ができあがるというわけ。

物語を観客が追体験するようには上演されていないのだ。登場人物の行動を、その結果を知りながら見るのだから、彼らの動機や心理に寄り添って舞台を見たりはしにくい(結果の分かっている投企はえてして滑稽に映る)。代わりに、「舞台の奥に急須と湯飲みの載ったお盆が置いてあるのはなぜだろう?」といったレベルの謎解きの対象として、登場人物たちを眺めることになる。登場人物たちの生きる世界を立ち上げるイリュージョンには参画しない。登場人物と彼らの世界は、目の前にいる俳優たちの身体とパフォーマンスを眺めるためのネタとなる(無論、このこと自体は別に珍しいことでない)。

もう一つの時間操作がある。ビデオの巻き戻し再生と同じやり方。これは局部的に適用される操作で、舞台の出ハケでの行為である歩行と死に際の動作に限定される。ふつうに前向きに歩いて退場する代わりに、背中から後ろ向きに歩いて舞台の袖へとハケていくわけだ。

なぜ、第二の操作の適用は二種類の動作に限定されるのか? 観客としてはこの点を看過できない。出ハケにこの操作を適用したのは、時間の逆行というルールを観客に分かりやすく示すという効用もあるが、この操作を取り入れないと、ブロックとブロックの継ぎ目で、映画とちがって演劇では困ったことになるからだと思われる。舞台上で人が突然消えたり、突然出現したりしなくてはならないからだ。

では、死に際への適用の理由はどうか? こちらにはもっともらしい理由はない。もがき苦しんで死ぬという演技を逆回しで演じて見せることのインパクトがすべてではないか。もはや、演技が示していることになっていること=「苦しんで死ぬ」という表象はほとんど「お題」のようなものにしか感じられず、個々の俳優のパフォーマンスを楽しむようにできている。

何にせよ、〈巻き戻し再生〉操作は「演出の都合上」といったレベルのものといえるだろう。時間操作をさらに細かく見ると、二人の人物が並んで歩きながら会話しているような場面があるが、歩行という動作は逆行させながら、会話は順行させている場合がある。これは時間操作という概念だけでは処理しきれない、演劇ならではの奇妙な捩れた操作である。

つまりは、物語の観点からすれば、ご都合主義的とも言える恣意的な時間的操作が全編にわたって施されているのだが、案外、観客はそうした操作ルールをたやすく飲み込んで頭の中で物語を修復しつつ、違和感なく上演を楽しんでいるようだ。軽くネットで感想・批評を検索してみたけれど、時間操作のせいで物語が理解できなかったとか、不自然な時間操作が邪魔で舞台が楽しめなかったといった不満はまったく見当たらなかった。

ここで、こんな操作群を観客が易々と受容できてしまうという事態そのものを考えるべきだと思う。なぜ、受容が容易か? これが五反田団の上演だからだ。五反田団の上演のあり方と、「物語上のご都合主義で恣意的な操作は気にならない」ということと、冒頭で述べた著しい乖離とには本質的な関係がある。

たとえば、新劇流の演技が行われていたとしよう。そこへ同様の操作が行われたと想像してみて欲しい。〈メメント式〉操作はまだしも、〈巻き戻し再生〉や、歩行と会話の捩れた操作などは、かなり激しい違和感をもたらすだろう。

また、こんなシミュレーションもしてみて欲しい。誰かがもがき苦しんで死ぬ。その人を他の誰かが指さして「あ、この人、寝たふりしてるだけだ」と言う。この場合、五反田団の舞台では、横たわっている人は死んでいたのではなく、寝ていたことに容易に変更され得るだろう。次の瞬間、頭をかきながらむっくりと起きあがっても、見ている人はなんら違和感を覚えないはずだ。けれどもし、新劇俳優が大立ち回りで死を演じた後であったなら、別の人が後からそんな台詞を吐いても、演じられた死は違和感なしにキャンセルできないだろう。だから、そんな台詞は受け入れられない。演技によって死が確定されているからだ。

今回の作品に先行して発表された『生きてるものはいないのか』に対する批評・感想では、長丁場の死体の演技が話題になったようだ。残念ながら、私はこちらの作品は見ることができなかったので今回のものと同様だと仮定した上でコメントするしかないのだが、死体が息づいているとか、そんなことは五反田団の上演ではわざわざ指摘するに値しない。舞台に横たわっている俳優たちは、死を演じているのではない。より正確に言うなら、演技によって死んでいるのではなく、台詞が与える文脈によって死んだことにされているだけである。いつでもキャンセル可能な死など、死とは言えない。

五反田団のやり方(*)。それは、なによりも人物造形をしない演技である。もっといえば、俳優は観客がお馴染みのキャラを前面に出して演技する(例えば、前田司郎はどの作品に出ても、人間関係や社会的地位などの設定こそ違うけれど、いつも同じような雰囲気の人間として振る舞っている)。衣装は基本的に普段着(おそらく俳優本人の普段着)。そして、舞台装置にはお金を掛けず、ほとんどない場合も多いし、物語上の場所はどんどん変わっても場面転換はしない。代わりに、文脈や事象はもっぱら台詞上の宣言によって提供される。

ところで、このような五反田団の芝居が何に似ているかといえば、部屋で子どもたちがやっているゴッコ遊びである。子どもたちはいちいち人物造形などしないし、どんな大事件も場面の転換も宣言一つで済ませる。ルールや設定もアドホックにドンドン導入・変更される。

断っておくが、「子ども部屋のゴッコ遊び」に準えることに、彼らを蔑む意図はない。この喩えは、彼らの方法論の可能性の在処を分かりやすく示す方便でもある。「ゴッコ遊び」に接近することは、演劇の新しい可能性を拓くための方法論になりうるからだ。

08年にアトリエ・ヘリコプターで見た『すてるたび』は、「ゴッコ遊び」の利点を生かした優れた舞台だった。上演の最中に目前の登場人物たちが、今現在、大人なのか子どもなのか、登場人物たちの弔いが父親のものなのかペットの犬のものなのか判断がつかなくなった。日々の出来事を処理する理性の足元が救われて、宙にぽっかり浮かんでしまったような気分。物足りなくはあったけれど、この先に、私たちの現実を揺さぶる力を持った演劇が創造され得ると期待させた。

だが、『生きてるものか』の場合は「ゴッコ遊び」の方法が悪い方へ働いたと思う。『すてるたび』が、ゴッコ遊びの方法論から導出された決定不能性により観客を思考の迷路へと誘ったのに対して、『生きてるものか』は空虚なクリシェで満たされているのだ。

子どもたちのゴッコ遊びが、日々の生活行動+テレビ番組の2要素の模倣と変奏で構成されるのと同様に、台本は日常のスケッチと大きな非日常の物語で構成されている。描かれた日常――「仕事でたまたま会った人に一目惚れ」とか「片思いの相手の真意を知りたくて友達に場をセットして貰うがモジモジ」とか「単純作業だけど割の良い怪しいバイト」とか、それらは実際の日常のサンプリングなどではなく、若者向けTVドラマのクリシェによるパッチワークと呼んだ方が適切だ。無論、「町で次々人が死んでいく」という非日常も映画やドラマのクリシェだ。

クリシェを使うこと自体は問題ない。しかし、批評的な視点を欠くなら、怠惰な反復でしかない。「迫る死に対する登場人物たちの危機感のなさが、現実への批評なのだ」と言う意見もあるかも知れない。物語上の議論ではそういうことが言えるにしても、上演の実際がそのようなものとして機能していたか、というと肯定できない。

クリシェをネタに、演じる俳優たちのキャラの面白さ(今回初登場の枡野浩一に笑った人は少なくないだろう)を楽しむ。悶絶死の〈巻き戻し再生〉というパフォーマンスを笑う。物語としては陰惨なのに、なんと気楽な舞台であったことだろう。物語が示唆することとは矛盾するが、この上演は観客にこう囁きかけているように思えてならなかった――「誰もがいずれ死ぬことはもちろんわかってる。けれど今はその心配をする必要のない時間なんだよ」。

(*)五反田団の上演がこれまで常にこうだったというつもりはない。私は数えるほどしか見ていないし、自分の見た中でも『いやむしろわすれて草』(2007年の再演を見た)はここでの議論に当てはまらない。